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序文 - ルーディ・フックス
変移する境界線 - ティモシー・ドラックレイ
序論 - レイネ・コエルヨ
アート,メディア,メディア・アート
マリエケ・ファン・ハル

入場料
展示作品
参加作家
 
1998年11月13日(金)〜12月27日(日) [終了しました.]





序論 - レイネ・コエルヨ


時間の速度は,加速し続けてきた.

(ポール・ヴィリリオ)

時間は,疑いなしに宇宙において最も本質的な要素である.時間の尺度との比較によって,出来事のすべてが起きるのである.われわれの時間意識,つまり,自らの生命と関係づけて時間の重要性を知覚する能力こそ,われわれ人間の条件の中心にある.われわれの自然の理解が歴史を通じて連続的に変化してきたように,まさに時間の概念も多くの変化をこうむってきた.「秒なるもの」は,今日それがわれわれに意味しているものと比較するならば,アリストテレスにとってはまったく異なるものを意味していたに違いない.客観的な比較がなされ得ないならば,「秒なるもの」は,現在のわれわれには知覚されているかもしれないが,おそらく古典的な心とは関係しない抽象的で完全に相対的な観念にとどまる.
時間をはるかにより微小な(あるいはより巨大な)単位へと数量化させ,それによって現実感覚を組織させるテクノロジーの発展とわれわれの時間の理解が密接に連結していることは明らかである.しかし,時間は,原子時計で計る単に相対的で物理的な実体ではない.それは,多様な事態でありうる.天文学者,心理学者,生物学者,歴史家,あるいは,列車に追いつこうと走っている人とわれわれが話すたびに,時間のフレームの知覚可能性の全領域は開かれるのである.
個人のパースペクティヴから見れば,時間は高度に主観的な経験である.それゆえに,時間はアーティストの魅惑の中心にあったのだった.悲劇における緊張感に充ちた時間,そして,絵画,あるいは,音楽における寓意的なほのめかしにおける時間であったとしても,その量に形を与えることによって,長い間,芸術家は時間の性質について反省してきたのである.見方次第では,芸術表現の道具として時間自体を使用することは,印刷機の発明とともに始まったのかもしれない.その時,作家や詩人は大きなスケールの下で読者と彼の想像力を共有することができた.この読者は作家が決定し形成したある量の時間を過ごすだろう.彼は,書物というインターメディアな装置を通してはじめて,存在するリアリティへ入って行くのだろう.この観点から見たとき,印刷テクノロジーはすべてのプロセスを始める基準の発明であったと言ってよい.映画,ヴィデオ,コンピュータ,そして表現において芸術的に使用される時間に基づいたメディウムのように,印刷テクノロジーは現代のダイナミックなメディアの世界へと,われわれを導いたのだ.


イマーゴ

私が企画した前回の展覧会,「イマーゴ──世紀末のオランダ・メディア・アート」展のいくつかは,明らかに時間芸術の視覚芸術への魅惑的な貢献を証明する例であった.

リカルド・フグリスターラーの『パンタ・レイ(万物流転)』は,一方で,毎秒,水滴がじょうごから御影石のブロックに落ちており,他方でアルカイックな鉛の彫刻へ組み込まれた二つの小さなモニターがゆっくりと過ぎ去っていく雲を見せていたのだった.石の穴は明らかに水滴を原因とした時の力を強調していた.『ポンペイ』において,ボリス・ヘレッツは,凍結した時間のメタファーのために古代都市へのほのめかしを用いた.二台のスクリーンにおけるアニメーション・ヴィデオにおいては,現実が死においてのみ干渉する心的な空間として,その場所を再構成したのだ.物語の至上の時において,われわれの注意はスクリーンから暴力的に引き離されて,それまで見ることができなかった二つのデスマスクへと転ぜさせられる.

ベルト・スフッターの『風車×風車』は,オランダの風車の形に12台のヴィデオ・モニターが組み込まれた金属フレームの彫刻を見せていた.スクリーン上で,風車の翼が敏速に動きながら,静的な形式とダイナミックな内容の対照を示していた.

しかし,造形的な素材として時間を使用しているアーティストの最も明白かつ詩的な例示は,ビル・スピンホーフェンの『アルバートの箱船』であった.彫刻の上端には,中世の日時計と未来派の宇宙船に似た一つの小さなヴィデオ・カメラが据え付けられていた.彫刻に隠されたヴィデオ・モニター上に観客が見たのは,アーティスト自身によってデザインされ,「タイム・ストレッチャー」と呼ばれるコンピュータ装置で歪められた,自分自身のイメージだった.(PAL)ヴィデオ・イメージを形成する625本の走査線の間に空間を引き伸ばすこの機械は,各イメージの上部と底部の間でおよそ3秒間のずれを引き起こす.この様式において,観客は徐々に表示されていく自分自身のイメージの運動に対面させられた.ここで,スピンホーフェンはアインシュタインの相対性理論をむしろエレガントに例証したのである.つまり,時間のたわみは,他の三つの次元の変形を引き起こすのである.


ザ・セカンド

イマーゴ展の7年後,私はテクノロジカルなメディアを介してアイディアを表現する現代作家の展開を検討する2回目の機会を得た.『ザ・セカンド』展は,その多くは若手の,12人のメディア・アーティスト達によって制作された,時間に基づく彫刻17作品からなる.再び,時間および時間を使用するテクノロジーの性質について,高度なオリジナリティを持つ多様な解釈と反省に接することになる.

展覧会の中心的インスタレーションとして,ペーター・ボーガースの『ヘヴン』がある.この作品は時間を不在のものとして言及している.空間がその中に見い出し得るもの,あるいは,見い出し得ないものによって定義されるとき,明白な経験へ加えられている時間要素の短縮についての作品である.完全に空の,漆喰作りの小さな3つの部屋を持つアパートにおいて,前もって導入されていた生活の断片に出会う.17台の小さな白黒モニター上に,われわれは17のまなざし,つまり,(それぞれが1秒間続く)多様で偶然的な運動の断片をとらえる.それらは家庭生活を表現している. すなわち,ドアがすき間風で動き,猫が人のいないヒーターの前で欠伸をし,赤ん坊が母の胸に抱かれ,カーテンが風で揺れ,コーヒーカップがかき回され,手が体を愛撫する,そして,グラモフォン・レコードに針が落とされる理由を説明するように,神戸の地震に際しテレビ局で記録されたTV画像の断片が見える.
ボーガースの家庭的小宇宙は,彼の作品『レトリカ』でも続く.この主題は父と子の相互作用である.彼と子供の短い瞬間のコミュニケーションが抽出され,それらが役割の反転を生み出すように再生される.ボーガースの映像と音響の操作は,思ってもみなかった可能性を明らかにする.
ボーガースは隠れていた次元を拡大している.まさに個人的なメディア・スカラプチュアーである『サクリファイス』は,作品の中核をなすガラスの箱の中にある2×3インチの小画像と明確に対照するように,複雑な構成物を示す一枚の大きな写真を展示している.
拡大鏡を通して,われわれは,アーティストが自分の横たわるバスタブの水を飲んでいるときの口を見る,あるいは,ことによると彼は溺れているのだろうか.起きてしまった出来事は,取り消すことができない.

おそらくボーガースが『ヘヴン』において表現していたカタストロフィックな見方は,スタイナ・ヴァスルカの『ボーリアリス』で静められるであろう.というのは,自然を支配するより巨大な力のパースペクティヴを考えれば,人間にとっては自明であるように見えることも,実は明らかではないかもしれないからである.それらの周期的な性質は,時間の方向性を奪い去るからである.
『ボーリアリス』は4枚の垂直に置かれた投影スクリーンからなる.そのスクリーン上では2台のヴィデオ・プロジェクターと鏡の構成によって4枚の映像が表現されている.その映像は,彼女の出身地のアイスランドで,作家自身が撮影した海景である.しかし,海の動きは,前進と後進の間で変化する.この操作は永遠の観念を心に抱かせ,そこでは,時は流れる出来事の終りなき広がりに過ぎない.

葛藤する時間と現実のフレームにおけるもう一つの混乱は,ベルト・スフッターの『浴女たち』のアイロニーによって生み出されている.それはルノワールの有名な作品をほのめかしている.空間に入ると,観客は水が跳ねる音と娘たちの笑い声を聞く.彼が,この音源へ向かうには,投影スクリーンへと導く折れ曲がった廊下を通らねばならない.彼はしかし,そのスクリーンに到着する前に発見されてしまう.センサーが娘たちに水から上がるように伝え,観客がスクリーンに到着したときには,ただ人のいない池畔の映像が見えるだけだ.この概念的な作品は,シュレーディンガーの量子力学的パラダイムの遊びめいた反転である.出来事は,それらが観察される限りにおいてのみ存在する.ここでは出来事の観察は妨げられている.究極の美は,われわれが自分自身の内にそれを生み出すことなしには,虚構のままなのだ!

一方で,ビル・スピンホーフェンの『アイ(私/眼)』において,観客は,決してその作品を見ることはできないし,決してその凝視から逃れられない.この見かけ単純な作品はインタラクティヴ・アートの聖像となった.アーティストの眼はそのスクリーンを占め,その前で起きているあらゆる動きを追跡する.アルタミラ以来はじめて,芸術は見られることに復讐しているのである.それが振り返るとき,われわれは,意地の悪いアイデンティティの循環にとらえられる.スピンホーフェンのもう一つの作品,『ロジック・オブ・ライフ』は,実際に見ている対象について知らないままにそれを見るときに引き起こされる心理学的な混乱を念入りに作り上げる.フィルム・プロジェクターにやや似ている巨大なマシンが高速でスムーズに走っている.空間の照明が弱まるやいなや,周波数とともに変化するコンピュータ制御のLEDによってマシンは照らされる.マシンは,一見すると非論理的に走っているようだ.さまざまな時間と速度が,前へ後へと暴走する──空を飛ぼうとするアーティストの映像を投影することだけのために.

スピンホーフェンの機械に対する魅惑は,フィオーナ・タンにも共有されている.彼女の作品『目撃者』は,時計のゼンマイ仕掛けの部品から構成されている.そこでは,重りは,おのおのが一つの時間の次元──一日,一時間,一分,一秒,一フレーム(1/25秒)を表現する5台のモニターによって置き換えられているのである.モニター上に表示されている映像は,時間の主観性を強調する特定の時間の次元を例示している.再び持ち上げられることになるその日の終りまで,これらの重りは少しずつ下降していく.彼女の時計というメタファーは,常に人類の運命を暗示していた砂時計のアレゴリーを想起させる.
この切り口は,彼女のもう一つの作品『内なる地図書』の断層へともたらされる.彼女はインターネットをブラウズしながら,急速冷凍された人間の身体の1,700にも上る断片映像を横断した.それは殺人犯ジョーゼフ・ジェーニガンの身体である.彼は死刑を宣告されたとき,医科学のために献体していたのだ.
このインスタレーションでは,白衣が提供され,それを着るように求められる.その身体の映像は二つのモニター上に再構成され,他方で,その映像は観客の白衣へも投影される.アーティストによって語られるテキストが,この独特な再利用のケースにおける対立を反映している.

ベア・デ・フィッサーによる『スキッピング・マインド/忘却についてのフィルム』もまた,過去の現実の再構成,あるいは,むしろ再生を試みる作品である.インスタレーションは二つの部分よりなる.一方は,描かれた25枚の肖像画の組合せである.その肖像画は,プラハのマーケットの一冊の古書の中からフィッサーが見い出した無名の女性の一連の写真から描かれたものである.デ・フィッサーは,これらの顔をキャンバスへ置換した絵画をデジタル化し,「モーフィング」プログラムを使って,そのイメージを動かした.その結果,隣接のスペースに投影された映像が,はるか昔に忘却されてしまった誰かを生き返らせているのだ.そのヴァーチュアルな顔が現実と虚構のはざまを揺らいでいる.この無名の人間と彼女[作家]の,いとしく,郷愁を誘う関係を感ずることができよう.それは,ほとんど,時が一つの顔を持つかのようである.

A・P・コーメンによる『フェイス・ショッピング』)は,人間の顔のまったく異なる解釈を示している.
四枚の2×3メートルの隣接した投影スクリーンにおいて,四人の若い女性のクローズ・アップが見える.各々の女性は,ひとつの神経症的なけいれん=「ティック」を持っている.これらの映像が数秒の断片でループされているとき,「ティック」は強迫症的となる.それらは,感情的な真実を露わにする無意識の振る舞いの「忘れられた瞬間」である.

クリスチアーン・ズヴァニッケンの「リ‐アニメイションズ」もまた,風変わりに感情的であるが,まったく異なった方法によっている.5つのパートからなるインスタレーションにおいて,鳥や他の動物の遺骸は,マイクロプロセッサを使って再生される.あきらかに今日のテクノロジーと動物の頭蓋骨,骨,羽の組合わせは,あいまいな効果を引き起こす.陽気だが,かなりぞっとさせもするそのオブジェは,実際,かなりの動きとノイズを持って生き返って来るのである.

ケース・アーフィエスは,われわれと芸術作品との問題含みの関係を最も意欲的に探究している.アーフィエスが考えるところによれば,アーティストが生き残るためには,彼の人生全体において,注意と理解を求めなければならないのだ.彼の見解のアイロニーを強調して,『ファウンドリング(捨て子)』の飛べない動物は,スペイン語とオランダ語を混ぜつつ,「どうぞ,私に触れて」とつぶやく.通行人がこの要求に答えるときはいつでも,その動物は,さまざまな段階で,ほとんどオルガスム的なレヴェルまで彼の満足を表明する.
アーフィエスの『クレジット・アート』は,クレジット・カード・マシンのひとつの模倣である.観客は,芸術作品を得るために,彼のカードを使用するよう誘われる.その機械の小さなスクリーン上で,買い手は自分の「融通のきく友人」[カード]の破壊に直面するだろう.

現代生活は,芸術を見る者に落し穴を用意している.ピーター・バーン・ミューラーの『マラカイボ,夜行く船』は,20世紀オランダ構成主義絵画の最高の伝統に位置するインスタレーションである.3台の同一のコンピュータ・モニターが台上に置かれている.左右のモニターは,単色の矩型のみを見せている,左の赤は船の右舷の光,右の緑は,港の側である.中心のモニター上の,黒(下部)と灰色(上部)の水平的な矩型は,水平線を分ける海と空を示している.そのイメージは,海の揺れを暗示しながら,上下に動く.次第に,中央のスクリーンは,マラカイボの灯台からの光で空虚にされていく.中央のスクリーンはランダムに,そして,根本的に変化し,通過する赤い船のイメージで満たされる.この印象は単純な対角線の縞によって生み出される.モンドリアンがキャンバスにほんの少しの黄色の四角を置いたブギ・ウギ・ペインティングでニューヨークの街路の雑踏を喚起したように,ここでもまた,世界の全ての内容は,基本的な形式と色彩のドラマティックな使用を通じて明らかにされる.

もう一つのより彫刻的な形式の使用は,ヤープ・デ・ヨングによって適用される.『O.T.S』において,8角形の展示ケースに,彼は32個のクリスタル・ボールを展示している.われわれは未来をのぞいているのかもしれない.いずれのボールもそれぞれ異なったオランダのアーティストによるヴィデオを見せている.デ・ヨングは,彼自身の個人的な芸術家としての立場を捨て,彼の作品中に,公共の場所,すなわち,他者の表現のための媒体を創り出している.テクノロジカルなメディアの相互作用の世界において,ここは,おそらくわれわれが先頭に立つ場所である.

私はボリス・ヘレッツの『時間/断片』によって,この個人的な時間に基づく芸術の論評に結論をつけたい.ある意味で,この作品は時間への記念碑である.すなわち,パラドクスとしての時間,現実の断片の継続としての時間,自然を司る天文学的な実体としての時間.日時計や地球儀でよく知られている類のブロンズの構成物の内部に,小さなモニターが載せられている.それは,「時は動かざる永遠の動く心像である」(アウグスティヌスからの引用)と読める銘を持つ.われわれはモニター上に表示される神経質なイメージを解読しえない,なぜなら,われわれの見ているのは旋回するイメージの急速な(1/50秒)移り変わりであるから.しかし,われわれが作品に近づくと,そのモニターは回転し始め,次第に,ある単一のイメージが地球儀の円周上に現われてくる.モニターの動きはそのイメージを軌道の全周に伸展させる.今,それは時間の展開を点的にではなく側面から示しているのだ.回転するモニターは,奇妙に非現実的な様子で動いている一連の都市景観,人々,自動車を示している.それらは過去に属しているが,ストロボ的な3次元性において,時に現在でもある.われわれは,作品の周囲を動き回り,パノラマの異なった断面を発見することができる.その作品は,葛藤する運動の間の相互作用として時間を定義する.そして,それは結果的に空間を創造する.すなわち,イメージ内部における運動,イメージ自体の運動,それを知覚する観客の運動,そして,彼がとり囲まれているより大きな天文学的な運動を言及するのである.

アムステルダム,1996年9月

翻訳:上神田敬