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序文 - ルーディ・フックス
変移する境界線 - ティモシー・ドラックレイ
序論 - レイネ・コエルヨ
アート,メディア,メディア・アート
マリエケ・ファン・ハル

入場料
展示作品




《時間/断片》
《ボーリアリス》
《O.T.S》
《アイ(私/眼)》
《ロジック・オブ・ライフ》
《内なる地図書》
《目撃者》
《フェイス・ショッピング》
《クレジット・アート》
《ファウンドリング(捨て子)》
《浴女たち》
《スキッピング・マインド/忘却についてのフィルム》
《リ・アニメイションズ》
《マラカイボ,夜行く船》
《ヘヴン》
《サクリファイス》
《レトリカ》
参加作家
 
1998年11月13日(金)〜12月27日(日) [終了しました.]





展示作品


《内なる地図書》
"Atlas of the Interior"

1995年
フィオーナ・タン




2チャンネル・ヴィデオ:2台のモニター,2台のプレイヤー,スピーカー,スライド,鏡,白衣


この頃はテレビに映し出される現実に当惑させられることがある.例えば,うっかりテレビのスイッチを入れると,そこはいきなり心臓切開手術の現場だったり,それほど壮観ではないにせよ,胆石を取り除く手術の現場だったりすることがあるのだ.鋭いメスがピンク色の肉を切り裂き,見も知らぬ人の鼓動する血まみれの腸のクローズアップをあからさまに見せられる,手術のテレビだ.肉は手際よく押しやられ,熟練した指が,腫瘍や患部を探して,誰とも知れぬ肉体の穴や臓器を探りまわす.そのうちに外科医の行為を説明する,ほっとさせるようなナレーションが入る.

こうしたポルノグラフィックなイメージによって喚起される,この暗いひねくれた魅力はいったい何なのか.われわれの身体に関する,より徹底した「理解」がもたらされるということなのか.あるいはそれが見知らぬ他人のことであるがゆえに満足させられるということなのか.臨床的な道具立てによってこの肉体がひとつの物体と化し,そのおかげでそれを見ていられるということなのか.あるいはそれはまさしく,この肉体のもっとも秘められた部分を見せられることによる一体感からくる,ぞくぞくするような喜びなのか.

『内なる地図書』は,このような矛盾した感覚と欲望の複雑な相互作用を扱った作品である.ストーリーが展開する暗い部屋に入るまえに,まず医者の白衣を着ることを要求される.それはこれから心もとない冒険にのりだそうとしていることを示す最初のしるしだ.それは純粋に芸術的な,時に大変心地よい,見る楽しみという以上の何かがそこにあるということを示している.目が暗闇に慣れると,そこにいる自分自身や他の人の上に,人体の断面の詳細を示すスライドが投影されている.モニターが置かれていて,その上にももう一つモニターがぶら下がっている.(手術)台を覗くように見下ろすと,あなたの視線は,投影されているものと同じ素材によるアニメイションのイメージにくぎ付けになる.

声が聞こえてくる.「内側から見た私はこんな感じだ.実に抽象的だ.彼がいったいどんな様子をしていたのか,まだわからない……」これはいったい「私」のことを言っているのか,それとも「彼」のことなのか.いったい「彼」とは誰のことなのか.そう,それはアメリカの殺人鬼で,テキサス州で死刑に処せられ,みずからの肉体を科学のために寄贈した「ジョーゼフ」のことなのだ.科学はジョーゼフの内と外をひっくり返すかのように,2000枚ものウエファース状にスライスし,デジタル化してインターネットにのせた.

『内なる地図書』が生み出すものは,ただの物にまで堕落させられた人間に対するその臨床的な洞察によって,啓発的であると同時に下劣なものである.だがそれでも,何も解明されたわけではない.なぜなら,ハイパー=リアルなイメージにもかかわらず,肉体の神秘——「内側」——は秘められたままだからだ.データのコレクションとして,それは何ものをも明らかにしない.「その男を知っていたなら,いまここに立つあなたはどんな気持ちだろうか.その男を愛していたとしたら.」「私」や「あなた」についての非常にパーソナルなコメントと,「彼」についての突き放したコメントが交互に入れ替わり,つねに戸惑わされる.そしてあなたはパブリックな場を訪れた観客から,覗き魔か侵入者にされてしまう.だがそれは何に対してか.ジョーゼフなのか,それともあなた自身なのか.タンはわれわれを苦痛に満ちた立場に置くのである.


ヨリンデ・セイデル

翻訳:白井雅人