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2チャンネル・ヴィデオ(白黒),2チャンネル・オーディオ
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ペーター・ボーガースの作品において音響と映像は同等の要素である.それらは,常にダイナミックな相互作用において形式と内容を決定している.彼のインスタレーションの多くは,しばしばエレクトロニクスの助力と人間の声によって,音響と語りの間の臨界点を探査している.いつ音は音楽となるのか,あるいは,その逆はどうか.
いつ音は語りへ,そして,コミュニケーションへと変化するのか.いつ語りは,不文節の音にほつれて行くのだろうか.ボーガースはまた,ヴィデオだけではなく,空間的な要素および概念的な素材として,人間の身体をさまざまなレヴェルで用いながら絶え間ない没入感を示している.彼の作品において身体の統一性と固有性は,外部から知覚されるように,断片化され疎外にとって代わられている.
ボーガースの空間的なインスタレーション(たとえば『凍った声』(1992年)あるいは,『言葉なしに』(1994年)),では,文字通りにも比喩的にも,身体のさまざまな部分は互いに分離されて表わされ,自立的な部分として,ほとんど独自に機能しているように見える.しかし,意味を決定する外部からの説明的な文脈は存在しない.身体は変わることなく,それ自体に立ち戻るために,没入させられているようである.統合されていない部分に影響を与える衝撃,運動,音響は外部よりもむしろ内部から来ているようである.自己反省の最高レヴェルに達しながら,身体が,明らかに,しかし,内密にそれ自体を見る者に露出している.一方で,音響は,その空間に満ちて断片化された身体のギャップに橋を架けようとしている.
『レトリカ』で興味をそそる映像と音響の遊戯は,あなたを長くとどまらせるよう誘うであろう.二つのモニターは空中に,一方が,他方より高く宙吊りにされ,互いにある角度をなしている.低い位置のモニターは交互に男の目と口のクローズ・アップを見せ,高い位置のモニターは同じ顔の断片,しかし,赤ん坊のそれを見せる.テープは完全に同期して走っている.あなたが,上の男の口を見ているとき,下方に赤ん坊の目を見る,そしてその逆を見ることになる.映像と音響は相互に志向し合っている.ダイアローグのように,一方が語り,他方が,聞き,見つめ,観察する.
同時に,そのイメージ,つまり,父と赤ん坊は,慣用的な言葉は発しないが,最も多種多様でプリミティヴな声音とノイズを産み出している.『レトリカ』の修辞学,赤ん坊によって発せられた言葉は父によって繰り返される.同時に,彼らは互いに親密に見つめて合っている.どちらがどちらを模倣しているのか不確かになる瞬間さえ来る.始まりと終りは,ループの中に消え去る.
音響は磨かれておらず,プリミティヴ,かつ,痕跡的で,生で未発達であるが,またそれは言語と慣用的なコミュニケーションの最初の暗示を構成してもいる.『レトリカ』のために,ボーガースは彼自身と彼の子供のヴィデオ・フィルム,そして,子供が現実にしゃべりはじめる直前の期間に記録された音響を使用した.表面上,これらの音響は完全な模倣が作家自身によってなされている.実際は,たった一つの赤ん坊の声が使われた.ボーガースは,その音をヴォイス・モジュレーターによって変化させ,彼自身の口に当てはめているのだ.胸を引き裂くような父と子の相互作用はまた,身体がそれ自体とコミュニケートしているイメージである.それは,潜在し長く隠されていた感情を表わしている.
ヨリンデ・セイデル
翻訳:上神田敬
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