ICC





序文 - ルーディ・フックス
変移する境界線 - ティモシー・ドラックレイ
序論 - レイネ・コエルヨ
アート,メディア,メディア・アート
マリエケ・ファン・ハル

入場料
展示作品




《時間/断片》
《ボーリアリス》
《O.T.S》
《アイ(私/眼)》
《ロジック・オブ・ライフ》
《内なる地図書》
《目撃者》
《フェイス・ショッピング》
《クレジット・アート》
《ファウンドリング(捨て子)》
《浴女たち》
《スキッピング・マインド/忘却についてのフィルム》
《リ・アニメイションズ》
《マラカイボ,夜行く船》
《ヘヴン》
《サクリファイス》
《レトリカ》
参加作家
 
1998年11月13日(金)〜12月27日(日) [終了しました.]





展示作品


《時間/断片》
"Time/Piece"
1994年
ボリス・ヘレッツ


インタラクティヴな彫刻:工業用ブロンズ,モーター・ドライヴ,モニター
875mm(高さ)×492mm(直径)



われわれは,現実を証明するため,そして,現実の中での自分の位置を測定するために時間の現象を使用している.われわれの生命を把握し,出来事の中での自分の位置を決定可能とするために,一方では,客観的で有機的な要素として,他方では,主観的でダイナミックな経験として時間を知覚する.しかし,今世紀に登場した映像のテクノロジーもまた,操作可能な要素として時間と時間の知覚を示している.

たとえば,映画の成功は,主に,ムーヴィング・イメージの連続性の連想による.この見たところ「なだらかな道」は,時間の中に生じる現実的な物語を呼び出すことを可能としている.そして,その中に見る者は自分自身を完全に没入させることができる.同時に,その効果,視覚的なイリュージョンが完全にとどまるように,これを可能とするテクノロジーはできる限り,見る者に隠されたままにされる.

しかし,ストロボ的なヴィデオ・インスタレーション,『時間/断片』において,ボリス・ヘレッツは,分散されたイメージの供給の中で不連続性を露わにしようとしている.おそらく,実際,はるかに現実的である不連続性,「多様な空間と現実の織り合わせ」は,現実の生活においても起きているのだ.そこにおいてリアリティは,決して曖昧さを失わず,常に複雑で多方向的である.『時間/断片』は時間の現象の記念碑的なアンソロジーである.つまり,われわれの現実とイメージの知覚を決定するさまざまな時間の秩序と経験への反省である.

それを基礎として科学者たちが天文学と世界地図製作法を結び付けたオブジェである地球儀や日時計.それらがかつて置かれていた台を思い起こさせるブロンズの構造物があり,その中に,軸回転する一台のヴィデオ・モニターが置かれこの作品を特色づけている.構造物には,ある銘がほどこされている.「時間は,動かざる永遠の動く心像である」,これは四世紀の教父,聖アウグスティヌスにはるかに淵源をもつ哲学的な含意をもったステートメントである.

彫刻に近づくやいなやブロンズ製の支持物の中でモニターは回転し始める.地球儀のように軸上でのモニターの急速な回転はストロボ的なイメージを生み出す.そのイメージは初め解釈し難く,線的な物語が見い出され得ない.見ているものを理解しようとして『時間/断片』の周囲をめぐると,あるイメージがその円環の360度にわたって次第に展開し始める.モニター上には,奇妙に非現実的な流儀で動いている歩行者と乗り物,そして,一連の都市のパノラマが見える.これらは,まるで過去からの,あるいは,異なった時間秩序からのイメージのようだ.

『時間/断片』において,矛盾した動きと異なったリアリティの相互作用は,イメージ中の運動,モニター自体の運動,見る者の運動と位置,作品と見る者を巻き込む包括的な天文学的な運動との関係によって形成された経験の新しい領域を生み出す.『時間/断片』との位置関係によって,見る者は映像の中に常に異なった物語を発見するだろう.まさしく,われわれがどのように現実に直面しどのように見るかによって,現実は異なった輪郭と異なった意味を呈示するのである.

ヨリンデ・セイデル

翻訳:上神田敬