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コンピュータ・インスタレーション:アミーガ・コンピュータ,
3台のコンピュータ・モニターおよび台座
200×170×40cm |
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オランダのメディア・アートの中で,ピーター・バーン・ミューラーは,執拗にわが道を行く.自らの意志へ向かう真の職人のように,単純で基本的な手段としばしばいくつかの異なるメディアを用いて,彼はつねに,遊戯のように詩的に日常の出来事と状況を描いている.同時にその出来事と状況は,彼の人生において,記憶,経験,観念,感情として持っている個人的な場所に帰される重要性に満ちている.
ミューラーは,それが夜の高速道路であれ,気ままさを欠いた,再現性を超えた追求であれ,基本的に,ささいなイメージと身近な状況を変形している.
ところで,インスタレーションにおいて,彼は,テクノロジカルな「ハード・ウェア」に構築的で絵のような,具体的であからさまな役割を演じさせる.また彼は,装置自体にはそれほど興味がなく,むしろ人間と機械の間のリンクにこそ興味を持つ.それは時に悲喜劇的な効果を生み出している.
『高速道路』(1992年)や『アムステルダムド』(1994年)のようなインスタレーションにおいて,ミューラーは,つねにいくつかのモニター上に繰り広げられる出来事を見せていた.つまり,モニターとモニターの間で,空間,時間,運動のような要素を身体的に知覚可能とさせているのだ.彼はまた,よりミニマリスティックな方法ではあるが,この構成的な形式を『マラカイボ』へ応用した.
『マラカイボ,夜行く船』は,厳格,明確,基本的で,ほとんどフォーマリスティックにさえ見える.同型のコンピュータのモニター3台が隣接した台座上にある.左から右へ見られるイメージは,緑,灰色,赤である.形式的な色域は,ほとんどモンドリアンの抽象的,幾何学的な伝統の下にある.しかし,『マラカイボ』に十分,時間を取るとき,実に豊かな出来事が生ずる.タイトル,音,映像,運動,光はともに,「夜行く船」を物語る.
機械的なゴロゴロという音があり、予期せず,赤い三角形の形態が中央の光とダーク・グレイの領域を横断し始め,そして, 再び消え去る──それは確かに船の通過のようである.このイメージを白い光がさっと通り過ぎて行く.文字通りにも,形象的にも,マラカイボは運動している.中央のスクリーンを分かつ二つの色の領域は水平線として機能し,イメージの運動を経験することができる.それは,ランダムな瞬間に始まるが,あたかも,重く横揺れする船が水平線を航行中のブリッジに立っているかのようである……
音響は船のエンジン室に記録されていたものであり,一方,光のシグナルはマラカイボの灯台の周波数と同じである…….ミューラー自身,かつて遠距離船の船乗りであった.彼は,自分の父親に聞かせようと,当時これらを録音していた.年月を経て彼は帰国し,記憶からイメージを再構成した.しかし,明白なイメージは,来たかと思うと再び行ってしまう.なぜなら,インスタレーションでは,突然モニターが静止し,単に色彩の場のみを見せるからである.あたかも,時間が何も役割を演じないかのように…….
ヨリンデ・セイデル
翻訳:上神田敬
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