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キネティックな彫刻:5台のモニター,金属,ケーブル,機械部品
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記憶と回想の機能についての,神経生物学的あるいは心理学的な決定的説明はまだなされていない.われわれの記憶とは,とぎれない,精密でシャープな「真の」イメージのうちに過去をとどめる,秩序づけられた無尽蔵のアーカイヴなのだろうか.それともむしろ,それが話題となる時にだけ,再現形態と意味を持つ,したがってそれが関わる過去のものではない,いくぶんとも散漫な,構造化されない印象の寄せ集めなのだろうか.われわれの記憶は,かつて起こった事実といったいどの程度まで照応するものなのだろうか.
複製技術時代においては,われわれ自身の個人的・集合的記憶のほかに,映画やテレビ,インターネットといった別のかたちの記憶,記録と再生のメディアがある.それらもまた世の中のことについて「リポート」するものであり,全体としてまったく新しい人工的な記憶を構成している.この新しい記憶はわれわれ自身の記憶にどの程度影響を与えているのだろうか.あなたが過去のある時を回想するとする.例えば6歳の誕生日.それは遠い過去の出来事を思い出しているのだろうか,それともその時のスーパー8フィルムの映像を思い出しているのだろうか.あるいはこのフィルムのおかげでそれを思い出すことができるのだろうか.
われわれの脳は記憶のイメージを形成するために,フラッシュバックやオーヴァーラップ,フェード,スローモーションといった映画の言語を部分的に採用しているのかも知れない.フィオーナ・タンは,映画における表現や時間の操作と,われわれ自身の知覚や記憶との間の特殊な関係を『目撃者』の出発点とした.タンは,われわれの「主観的な時間の知覚がテレビや映画によって変わったか,あるいはこれらのメディアは記憶を具体化するものなのか」と自問する.
このインスタレーションのタイトルは,1992年アムステルダムの近郊ベイルマーで起こった飛行機事故に関する目撃証言の調査からとられたものだ.飛行機はアパートに衝突し,多数の死傷者を出した.この惨事について多くの目撃者は,実際には存在しない,テレビの録画のようだったと述べている.想像された映像が,実際に目撃者の見たものと同じように「真実の」ものとなるのである.
タンは,1924年の自動車レース中に起こった事故を撮影した,収録者不詳の5秒間の断片的フィルムを基調として使っている.この偶然の短い記録はタンにとって,その高度な「即時性」によって,今世紀におけるフィルムというメディアと,超高速テクノロジーの発展のエッセンスを表わすものなのである.彼女はこの歴史的な断片を,自分で撮影したヴィデオの場面と関連づけている.そこではさまざまなかたちの時間のモンタージュの実験が行なわれ,連想的な手法によって,ドライバーがレース・カーから放り出されて地面に落ちてゆく,古いフィルムの断片のイメージを引用している.
オリジナルのフィルムに映された場景を見せるモニターに面して,それぞれ異なった型の4つのモニターがぶらさがり,それぞれフレーム,秒,分,時間という時間の単位を表わすイメージを見せている.それぞれのヴィデオは,別々のカメラ位置,別々のカット,別々の主観的な時間知覚を映し出しているのだが,全体としては一つのまとまりを持ち,時間の解剖とみなすことができる.時間と動きはまた,インスタレーションと空間の間の相互作用における表現のうちに見ることができる.ケーブルからぶら下がるモニター群は,ぜんまい仕掛けのメカニズムの中の構成要素として,互いに独立して動くのである.『目撃者』は,ひとつの事故と,それについての,絶対的あるいは中心的な規準のない,複数の視点から見た時間の経過を見せるものである.あなたの記憶にそれがひとたび作用すると,その再構成がまた始まるのだ.
ヨリンデ・セイデル
翻訳:白井雅人
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