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序文 - ルーディ・フックス
変移する境界線 - ティモシー・ドラックレイ
序論 - レイネ・コエルヨ
アート,メディア,メディア・アート
マリエケ・ファン・ハル

入場料
展示作品




《時間/断片》
《ボーリアリス》
《O.T.S》
《アイ(私/眼)》
《ロジック・オブ・ライフ》
《内なる地図書》
《目撃者》
《フェイス・ショッピング》
《クレジット・アート》
《ファウンドリング(捨て子)》
《浴女たち》
《スキッピング・マインド/忘却についてのフィルム》
《リ・アニメイションズ》
《マラカイボ,夜行く船》
《ヘヴン》
《サクリファイス》
《レトリカ》
参加作家
 
1998年11月13日(金)〜12月27日(日) [終了しました.]





展示作品


《スキッピング・マインド/忘却についてのフィルム》
"The Skipping Mind/A Film About Forgetting"

1994年
ベア・デ・フィッサー


インタラクティヴな彫刻:工業用ブロンズ,モーター・ドライヴ,モニター
875mm(高さ)×492mm(直径)



誰が写したのかわからないような古い白黒写真に,妙に惹きつけられることがある.失われた現実のイメージ,凝固した過去が表わしているのは,消えてしまってもはや存在しない見知らぬ人々や場所である.時間が過ぎ去ること,人や物が時の中に消えてゆくことほど密やかで,とらえどころのないものはない.時に写真の薄れたイメージの中で,時間はほとんど触知できるもの,読み取れるものとなる.だが,過去の凍結された瞬間のかたわらで,多くのことがらは推測するしかなく,過ぎ去った現実はイメージの中に隠されたままである.こうした写真は,そこに写っているものと同様,写っていないものによって惹きつけられるのだ.

肖像写真について,このことはさらによくあてはまる.顔は他のあらゆる「現実」の痕跡から隔離されている.この露光された顔が,実質的には唯一の手がかりとなるのだ.その顔つきや表情,衣服,ヘアスタイルなどから,それが誰であって,どんな世界と人生が隠されているのかを知ろうとすることはできる.それはあなたの想像力をかきたてるが,結局はその顔はあなたの視線を拒み,その正体をほとんど明かさない,仮面のままであり続けるのだ.

ベア・デ・フィッサーの『スキッピング・マインド/忘却についてのフィルム』は,プラハの慈善バザーの古本の中にあった,見知らぬ女性の肖像写真をもとにしている.インスタレーションの第一の部分,『スキッピング・マインド』のためにデ・フィッサーは,この写真をモデルに,グレーの濃淡による25枚のポートレートのシリーズを描いた.女性の頭部はそれぞれの絵において,横顔から正面まで異なった位置をとり,顔の表情もわずかに変わっている.

顔から判断すると,この肖像は1940年代か50年代のもので,女性は35歳くらいであろう.暗い色の髪は一方で分けられてうなじの方へウェーブし,ドレスか上着の折り返しが見えている.一連のポートレートの中には,かすかな微笑を浮かべているものがあるが,その他はまっすぐ前を見つめて座っている.

『忘却についてのフィルム』においてデ・フィッサーは,この一連のポートレートをコンピュータ上にデジタル化し,「モーフィング」のソフトウェアを使って動かした.できあがったヴィデオ・プロジェクションは,1番目のポートレートから2番目へ,そしてさらに順次オーヴァーラップしながら,ほぼスムーズに流れる一続きのイメージを映し出す.だがミニマルな動きの中には,いくぶんぎこちないところもあり,あたかも女性が,実際に最初の写真を越え出て,生き生きとすることができないでいるかのようだ.ポートレートとポートレートの間の空虚な空間は,本当には満たすことができないのである.

『スキッピング・マインド/忘却についてのフィルム』は,過去の現実を再構成する,あるいは甦らせる試みである.しかし,デ・フィッサーは,そのような試みが不可能であることをよく知っていた.フィクションと現実の間,仮想と現実の間の境界にあえて足を踏み入れようとする試みである.25枚のポートレートと1本のフィルムによっても,女性はあいかわらず謎のままであり,大きな不在のままである.しかもわれわれはオリジナルの写真を見せられているわけでもない.もうひとつの本質的な参照物が欠落しているのだ.われわれは複製物を見せられるだけだが,それは何の複製物なのか.ポートレートの女性は何も答えないが,あなたのイマジネーションが活性化されたのは確かである.


ヨリンデ・セイデル

翻訳:白井雅人