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インタラクティヴな彫刻,NCRクレジットカード・マシン,コンピュータ
170×100×60cm |
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あたかも,それが世界で最も自然なことであるかのように,日常生活をほとんど不可欠的に補うものとなってきた多彩なテクノロジカルな装置をわれわれは使用している.われわれは信じさせられてきたのだが,生活を便利にしコミュニケーションを促進すると言われるであろうこの装置を,われわれはためらいなく自信に満ちて利用している.もはや誘惑的な機械のまったくない生活は想像し難くなってきた.
われわれを喜ばせ完全に満足させるようにデザインされた装置に対して,より多く,さらにより良く,とわれわれは欲望する.もちろん,産業,貿易,宣伝は,毎年新しいヴァージョンを提供し古いモデルを抹消することによって,巧妙にこの自己創造的な要求を開発する.場合に応じて,より速く,よりコンパクトに,より強く,より効率的に,より小さく,より大きく,と.今日新しいものは,不可避的に,ほとんど必然的に明日には古くなるだろう,さもなければ発展におけるわれわれの幸福の信念と市場は崩壊するであろう.
大きな愛着を持ちながら,われわれはテクノロジーのなすがままになってきた.テクノロジーが背き,さらには好戦的に思われるとき,われわれは大きな衝撃を受ける.監視カメラ,知らないうちに個人データを記憶するデータ・バンク,盗聴機などの全ては,事実上,われわれのごくありふれた家電と同じ基本的なテクノロジーによって動かされているのだ.
もし機械装置がわれわれを失望させ労働することを拒むならば,われわれは驚きに打ちのめされて無力となって,だんだん修理に対処できなくなるだろう.われわれは皆,ユーザー・フレンドリーで信頼感が湧き出るようなインターフェイスへと,きらきら輝く望ましいハードウェアとその迅速な結果へと向かっていく.しかし,隠されたメカニズムは,われわれの理解をずっと越えていってしまったのだ.
同時に,このテクノロジーの多くは身体的な接触と個人的な他者との交換への要求を余分なものとしてしまった.われわれの機械との相互作用は,他の人々とのそれを犠牲にして生じている.たとえば,財政上の取り引きもまたデジタルな装置の助力によって指揮されている.かつては窓口でお金を下ろすために銀行へ行っていたが,われわれは今や,キャッシュ・ディスペンサーで銀行券を「引き出す」.少なくとも,ある神秘的な理由で機械があなたのカードを飲み込んでしまわない限りでは,その方がクィック(迅速)でコンヴィニエント(便利)なのである.
ケース・アーフィエスの新しいインスタレーション『クレジット・アート』は,われわれにテクノロジーへの奴隷的な服従を演じさせ,観客を珍しい取り引きへと誘惑する.アーフィエスのマシーンに対応する符号を持つクレジット・カードやPINカードを所有している訪問者は,その場で(貨幣は関係しないが),アーティストによってデザインされ番号を付けられた「犠牲の金」の形式を取った作品を得ることができる.ただ一つの条件は,観客が自分のカードをマシンに委託することだけである.
彼らがその行為をしない訳があろうか.その行為は,証明なしの見えない取り引きであるという事実を一瞬も考えずに,彼らが日常生活で数え切れない頻度で行なっている行為なのである.カードの持ち主が,想像し得る最悪の事態は,実際,その「行為」の間に起きる.すなわち,マシンがそのカードを取り込むや,絶望のユーザーは,カードがモニター上で半分に切断されるイメージを見なければならないのだ.さらに,煙がマシンから出てくる.それは,悲惨にもPINコードが公けにされてしまったかのようである.つまり,ユーザーは,犠牲の金のために恐怖と疑念を支払うのである.クレジット・カードの出来事は,一つの謎を残すであろう.
ヨリンデ・セイデル
翻訳:上神田敬
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