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序文 - ルーディ・フックス
変移する境界線 - ティモシー・ドラックレイ
序論 - レイネ・コエルヨ
アート,メディア,メディア・アート
マリエケ・ファン・ハル

入場料
展示作品




《時間/断片》
《ボーリアリス》
《O.T.S》
《アイ(私/眼)》
《ロジック・オブ・ライフ》
《内なる地図書》
《目撃者》
《フェイス・ショッピング》
《クレジット・アート》
《ファウンドリング(捨て子)》
《浴女たち》
《スキッピング・マインド/忘却についてのフィルム》
《リ・アニメイションズ》
《マラカイボ,夜行く船》
《ヘヴン》
《サクリファイス》
《レトリカ》
参加作家
 
1998年11月13日(金)〜12月27日(日) [終了しました.]





展示作品


《リ・アニメイションズ》
"Re-Animations"

1995年
クリスチアーン・ズヴァニッケン


キネティックな環境:
5−6個のインタラクティヴ・オブジェによるインスタレーション
動物の頭蓋,混合された機械,サーボ機構,始動機,
ソレノイド,サンプラー,マイクロコントローラー


生命工学時代のユートピア像においては,テクノロジーはわれわれの能力を拡張 するはずのものである.テクノロジーによって自然を完全に支配し,われわれは 神として,あるいは支配者として,思い描くままの生命をまるごとかたどり,形 作ることができるはずなのだ.だがこの恍惚的なヴィジョンも裏を返せば,われ われの方が,いつも使っているあらゆる機械とあらゆるメディアの拡張であると いうことにもなる.われわれがテクノロジーを使うのではなく,テクノロジーが われわれを使うのだ.皮肉なことに荒々しい自然は,荒々しいテクノロジーに取 って代わられた.そこから思いがけない,見たこともないような身体と機械の融 合が生まれてくるのである.

そうでなければ『リ‐アニメイションズ』の,あの暗い,不規則な動きをする, 身体と機械の複合体は生まれなかっただろう.『リ‐アニメイションズ』は複数 の構成要素からなるインスタレーションで,マイクロプロセッサを使って,鳥や その他の動物の断片を生き返らせるというものである.それともその逆だろう か.あからさまにされたテクノロジーと,頭蓋や骨,羽といった生物的な要素の 結びつきのバランスは,どちらの側にも傾くことができるかのようである.

  『リ‐アニメイションズ』はインタラクティヴな不思議の部屋であり,展示のた びごとに,この奇妙なものたちはあらたな配置を示す.部屋に入ると,甲高い声 やパタパタ・カチカチいう音など,雑音が聞こえてくる.それはさまざまなもの たちを動かす機械が生みだしているもので,まるで未来の動物園にでもいるよう だ.それらは半分テクノロジーの,半分動物の姿をしたハイブリッドで,ワイヤ ーや金属の棒,ケーブルからできている.それらはあなたの存在や互いの存在に 反応して,突然「生命」を持つ.

壁の2面から突き出した金属の棒のそれぞれの先端に取り付けられたコウノトリの頭蓋は,互いにあるいは見る者に向かって,がたがたと音を立てたり,ほとんど攻撃的な動きをする.近づき過ぎないように警告しているのだ.半分腐敗した犬の(「強情な[dogged]」)頭部は,両側でワイアーを通して小さなメカニズムにつながり,そこからぶら下がった部品が互いにぶつかり合う.耳が動く鹿の頭部がある.床に置かれた箱の中には,さびた小片や電磁石が「生命」をもってうようよと群がっている.

ズヴァニッケンは独創的な,洞察力に富んだやり方で,自然を人工に,そしてま た見る者に挑戦させる.見る者は,権威を持った自立的な役割を喪失してしま い,その部屋が独特な秩序とヒエラルキーに支配されていることに気付く.そこ では彼もまた「陳列」されているのだ.なぜなら,『リ‐アニメイションズ』の 生きた展覧会モデルにおいては,コンピュータによる動きと音の予測不可能性と 制御不可能性によって,いったい誰が誰に反応しているのか,誰が,何が,見て 見られているのかがわからなくなってしまうからだ.ズヴァニッケンは,テクノ ロジーがつねに「制御不能」なものであるように見えるこのインスタレーション の中で,メディア・アートのインタラクティヴ性の欺瞞と,スムーズに進行する コミュニケーションという幻想とを皮肉っているのであり,展示された物の身振 りが,その逆におけるのと同様に,見る者の身振りを支配するのである.

ヨリンデ・セイデル

翻訳:白井雅人