序文 - ルーディ・フックス
変移する境界線 - ティモシー・ドラックレイ
序論 - レイネ・コエルヨ
アート,メディア,メディア・アート
マリエケ・ファン・ハル
入場料
展示作品
《時間/断片》
《ボーリアリス》
《O.T.S》
《アイ(私/眼)》
《ロジック・オブ・ライフ》
《内なる地図書》
《目撃者》
《フェイス・ショッピング》
《クレジット・アート》
《ファウンドリング(捨て子)》
《浴女たち》
《スキッピング・マインド/忘却についてのフィルム》
《リ・アニメイションズ》
《マラカイボ,夜行く船》
《ヘヴン》
《サクリファイス》
《レトリカ》
参加作家
1998年11月13日(金)〜12月27日(日)
[終了しました.]
展示作品
《浴女たち》
"Les Baigneuses"
1996年
ベルト・スフッター
インスタレーション:ヴィデオ投影,センサー
ベルト・スフッターのヴィデオ・プロジェクト,『浴女たち』は,フランスの印象派ピエール・オーギュスト・ルノワールによる,同タイトルの有名な絵画を引用した作品である.フィラデルフィア美術館で見ることのできる,ルノワールのこの19世紀の大作には,のどかな風景の中で水辺に座る2人の裸の少女と,水浴びをする3人の少女が描かれている.ルノワール自身は,18世紀のレリーフを基にして,この「刺激的な」絵を描いたのである.
こうした美術史的な背景から,1996年の『浴女たち』には何が描かれているのか,これから見ることになるものはどんなものかに思いをめぐらせることになる.好奇心は刺激され,その映像を見て確かめたいという欲望がつのる.部屋に入るとさっそく水のはねる音と笑い声に迎えられる.タイトルがかき立てる想像力は,すでに水をはねちらかしながら笑う裸の少女たちを思い描いている…….彼女たちがどんな様子をしているのかを知りたくなって音の方に進んでゆく.入りくんだエリア——庭園や公園にあってちょっとした刺激を与えるゲームの場だった19世紀の迷路を,現代風に翻案したと思われる——を通って,その場面が映し出されているはずのスクリーンへと向かう…….
もう少しで映像が見えるくらいまで近づいたとき,叫び声とかき乱される水の音が聞こえる.そして映像のところまで来てみると,少女たちはすでに姿を消してしまっているようだ.少女たちが逃げてゆく音がかすかに聞こえ,水の波紋が見えるだけである.満たされない欲望が,イメージの不在のもたらす幻滅によってさらに強まる.ひょっとして少女たちが戻ってきて姿を見せるかも知れないと,しばらくそこにとどまったあげく,そのまま部屋を立ち去るしかない.
そこから出て,スクリーン近くの空間が再び空になったとき,少女が一人ためらいながら再び現われ,のぞき見男が本当にあたりにいなくなったのを確かめると,友だちに合図をする.少女たちはおおはしゃぎでふたたび水に飛び込み,あたりに彼女たちの声やたてる音が響きわたっている……らしい.いや,それが本当かどうかはわからない.もちろんそこに戻ってみることはできるのだが,水浴びする少女たちは,あなたが来るのを聞き付けて逃げていってしまう.いつも先を越されてしまう.見ることも体験することもできないという,この逆説的なイヴェントにおいては,時間と現実は対立しているのだ.
『浴女たち』の全サイクルの中であなたを見つめるのは,はかない,つかまえどころのないイメージの幻影である.それを追い求めても無駄であり,あとに残るのは切望,この場合は美,ヌードというものへの誘惑と期待だけである.あなたもナルキッソスと同じように,イメージのあとを追って水の中に飛び込みたくなるだろうか…….
ヨリンデ・セイデル
翻訳:白井雅人