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1996年2月 [終了しました.]
NTT/ICC推進室
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テレビの制作現場で |
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森脇:岩井さんが最初に出会ったのは日本でも最初のAMIGA?
岩井:うん.たぶんそこで見たのは日本でも数台目ぐらいでしょう.使ったのは,その後しばらくしてセディックっていう会社で1台購入して,それをいじり始めたのが初めです.その会社でテレビ番組をいくつかつくることになった.
フジテレビが深夜枠を始めたころで,4時間半にわたって浅田彰さんがレクチャーした『TV-EV電視進化論 浅田彰4.5』っていう番組があったんですよ.そのときに,日本で初めてのマルチウインドウみたいなのをテレビ画面でやった.そこのベースになる絵を僕がつくったんです.そのとき使ったのはSONYのSMC-70Gで,放送に耐え得るヴィデオ信号が出る唯一のパソコンということでそれを使った.それがテレビ番組にパソコンを使った初めての経験です.
それからしばらくして『TV'S TV』という4時間ぐらいの番組があって,世界中のヴィデオクリップとかテレビに関する映像を100個集めて紹介するというもので,100個の短かいヴィデオクリップの頭にタイトルを入れるということになって.そのタイトルのために100種類のテレビの絵をAMIGAを使って描いた.それがAMIGAを使った初めての仕事でした.
森脇:それが以後,ウゴウゴルーガの「テレビくん」になった.
岩井:そう.そこで初めて「テレビくん」が番組に登場した.そのときに初めてDeluxePaintをまともに使って,コンピュータでこんなに絵が描けるんだって思った.そのころはまだDeluxePaintIIっていうアニメーション機能も何もないヴァージョンだったんですが,裏と表に2枚だけ絵が描けるので,裏表を切り換える「J」キーを押すと,2コマがパタパタ切り換わって,なんとなくアニメーションみたいに見える.あとはDeluxeVideoという簡単なオーサリング・ソフトがあって,それでちょっとしたアニメーションがつくれたけど,たいしたものじゃない.だから,いま考えると,ほんとうに無理矢理テレビに使ったという感じでした.
森脇:いや,そのころテレビは,JCGLだとかリンクスだとか,大きなコンピュータを使ったわりとキメの細かい映像を,1分間に100万円‥‥いやもっと高かったかな.
岩井:CM1本1億円だとかね.
森脇:そういうことで話題になって,それがCGだっていう印象がずいぶんありましたよね.そのときにちょうど対抗するような形で‥‥
岩井:ちょっとずつ僕らがやったようなことからデスクトップ・ヴィデオ(DTV)というような言葉が出始めたりとか,だんだんと変わってきたよね.そのころ僕はAMIGA上で作品をつくるということは一切やってなかったんですよ.おもしろがって仕事に使ったんだけど,作品をつくるまでにはいかなかった.
MSXだと,最初に電源を入れるとまずBASICが起ち上がって,それでプログラミングして何かを動かすっていうのが基本だったけど,AMIGAの場合,まずOSが起ち上がって,それからアプリケーションを動かして何かするっていうことで,アプリケーションを使ってものをつくるのが基本だったこともあって,しばらく作品には結びつかなかったんです.
森脇:結び付きかけたのは,『MAN-MACHINE-TV』.
岩井:そのころかもしれないな.でもそのころはまだ,『MAN-MACHINE-TV』シリーズ8台のうちの7台はMSXで,1台だけAMIGAだからね.でも確かに,AMIGAを作品として使ったのはそれが初めてかもしれない.『MAN-MACHINE-TV
No.3 Joystick』っていうやつ.AMIGAを使った仕事というのはいろいろやってたけど.最初はフジテレビの単発番組だけだったんですけど,90年に個展をやった時に,前から知ってたフジテレビのディレクターから話がきた.「シリーズものの科学番組をやりたいんだけど,なんかいいアイデアを出してくれない」とか言われて,それでやったのが『アインシュタイン』.そのときにもう,「AMIGA全開!」みたいな形で,毎週ひいひい言いながらAMIGAでCGセットをつくってやったんですよ.いまだとシリコングラフィックスとかのヴァーチュアル・セットのシステムがあるけど,それをもっと早くからやった.
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