ICC
ICC メタバース・プロジェクト
田中浩也×柄沢祐輔「メタバースにおける空間,環境,身体性」
「切断」の前に「スケルトン」がある

──ちなみに濱野さんは,『10+1』48号に掲載された藤村龍至さんの「超線形設計プロセス論」を引き合いに出されて,「ログという考えに合わせてメタバース上で展開できるのではないか」という話をされていましたが,いかがですか? この「超線形設計プロセス論」は,わりと実用的な考え方のようにも思えますが.

田中:藤村さんが編集された『1995年以後──次世代建築家の語る現代の都市と建築』(エクスナレッジ,2009)にも書かれていることなのですが……藤村さんは「建築家の設計の手法や設計過程を変えたい」という問題意識を持たれています.建築家の一存ですべてを決定するような,殿様商売みたいなことをやめたいというところから始まっていって,全部の過程のログを取っていくという発想になったのでしょう.

柄沢:ただ実際「ログを取っていく」ことが作品に活かせるかというと,どうでしょうか.デスクトップ上にある作業空間の履歴を操作することは面白いと思います.Mayaとか3DSMaxなどの3DCGソフトでは作業のヒストリーが全部残っていって,そのヒストリーの関係性を入れ替えると,目の前のオブジェクトもスプライン曲線の傾きが変わったりしてそれこそ非線形な形になってゆく.仮想空間の中でのモデルとして見ると可能性があるけれど,藤村さんの建築モデルは現実の模型でやっているから制約が多すぎて,そこまでの可能性があるのか分からない.

田中:ログとかアーカイヴというものは(「こういう過去を経ていまがある」ということだから)現在を生きるときの正当性を確保する場合には役立つと思います.でも,未来を設計するということは,それとはまた別のポイントなので,その論理からは出てこない気がする.

柄沢:そうなんですよ.僕もちょうど昨晩,それに関して『10+1 web site』のための原稿[※12]に書いていました.「アーキテクチャと思考の場所」[※13]という,まさに濱野さんが参加されていたシンポジウムのレヴューです.
 あのシンポジウムを聞いたほとんどの人たちは,ネット上に存在している「生成」という概念と,物理的な切断によって現実にリアライズされる「建築」という対比項が議論としては一番面白かった,と言っていました.東浩紀さんはそこでも藤村さんの仕事に言及していて,「建築には切断が不可避だけれども,いわばネット上の生成力を取り込めるモデルとして,彼の空間モデルがあるのではないか」と言っていました.このシンポジウムでは,ネット上に展開する切断が要らない「生成」にヴァイタリティーを感じて礼賛するような濱野さんの考え方と,それに対してフィジカルな切断を必然的に持ってしまう「建築」というモデルの対比が,たしかに議論の主軸になっていました.
 だけど,そもそも「切断」という話をしている磯崎新の「プロセス・プランニング論」[※14]では,彼は「切断」の前に「スケルトン」というものを定義しないといけない,「スケルトン」があることによって,はじめて流動的な状況,もしくは現実の生成モデルがまとまる,と言っているんですよね.ところがあのシンポジウムでは,それがまったく触れられていなかった.
 物理的な切断の前に,情報環境も建築も,おそらく共に扱える「スケルトン」という領域が存在している.その領域があって初めて,建築の場合は切断があるし,情報環境の場合なら「スケルトン」をもとにしてコミュニケーションの生成が方向づけられる.たとえば,ネット上のアーキテクチャだったら,タグというシステムを媒介として自然淘汰を起こしていく,というように……その「スケルトン」という領域が語られなかったことが,あそこでの議論では片手落ちだったと思います.

田中:端的に言うと「スケルトン」って,何のことですか?

柄沢:複雑系シミュレーションだと,初期値の設定です.最初に定義される関数と初期パラメータ……みたいな.

田中:最初の種みたいなものですね.ちなみに『海市』のときに磯崎さんは「切断ではなくて,生成の方向性を誘導するだけでいいんだ」とおっしゃっていたじゃないですか.渡辺誠さんの「誘導都市」というプロジェクト[※15]もありました.僕はそのとき,「誘導」というのはトップダウンな発想だな,と思って聞いていたんです.その問題意識はずっと持ち続けていたのですが,2年前の「roundabout」での松川昌平さんとの対談で,「“誘導”ではなく“栽培”ではないか」と言ってみたんです.「誘導」というのは最終的なゴールが固まっているけれど,「栽培」というのは動いている対象を観察しながら,適宜状況に介入することです.だから,誘導モデルでやっていた磯崎さんや渡辺誠さんは「切断を回避できない」と考えてきたのだと思います.でもコンピュータ・ネットワークの生成力の側から見ると,それに適宜介入して栽培する感覚のほうが,むしろ正しいのではないかと僕は思っています.

柄沢:現実の状況だと栽培モデルは可能だけど,コンピュータの中だと,初期値を設定した段階でその後が規定されるので,どうしても緩くなっちゃう.

田中:初期値だけですべては規定されないけれど……でも,種は大事ですよね.

柄沢:池上高志さんは,どうやってそれを撹乱するかということで外部環境を取り入れたりして「ナチュラル・コンピューティング」ということをやっているのでしょうが……基本的には初期値をどう設定するかで大局的な振舞いは決まります.

田中:本当に? それって「遺伝子決定論」じゃなくて?

柄沢:モデルが閉じていれば,基本的にはそうなります.もともとコンピュータは閉じたモデルだから,それを解放系にしようというのが,いまの複雑系の学問の流れです.

田中:でも,それだと根本的なところが揺るがされるんですけれど……環境とのインタラクションで変わっていく可能性を信じないと,環境デザインはできないんじゃない?

柄沢:だからシミュレーションが閉じたモデルになるのを防ぐために,どうやって外部環境とインタラクトして,非決定論的・確率論的な振舞いをするかを,池上さんたちがやられている.それは複雑系のひとつの進化の方向ですよね.
 けれども建築というのは初期値を設定すると,あとは増築とか……そういうことになる.というのは,物理的なものを根底から作り替えることは建築の現場では現実的ではないから.だから磯崎新の「プロセス・プランニング論」も,終末的な考え方を一応想定はするけれども,それはシミュレーションなんです.「想定された予測不可能性」の中での振舞いを許容するスケルトンを作る,という話です.でも,それをやるだけでも,単にリジッドな(硬直した)未来を予測するよりは,多様性があって現実に対応した建築ができる,という話です.将来的な振舞いを予測した上で,どういう全体性を作るかが,基本的には「プロセス・プランニング論」の中核になっていて,それはあくまでもスケルトンを作ることを介してリアライズされるものであって,切断というのはその後です.たとえばミクシィで言えば「日記を1000字までしか書けなかったら,皆が嫌がるよね」という話と同じですよ.

田中:その意味での「切断」だったら,コンピュータはしょっちゅうやっていますよね.建築って,種の設計をそういうふうに捉えるのか……なるほどね.

柄沢:可能な限り多様性を包含したスケルトンを作る,ということです.

田中:だとすると僕の感性は,どちらかというとガーデニングに近いかもしれない.種というものは,最初に持っている「ただの」初期値でしかない.そこからその後どういう潜在的な可能性が顕在化してくるのかは,周辺環境とのインタラクションや適応度で決まってくるのですが,むしろその過程と偶有性にこそ面白さがあったりする.もしかすると,この種からは何の芽も出てこないかもしれないし,出てくるかもしれない.どんなふうに生えてきてどう育つかは,種の段階だけでは決定できない.環境が大事だしメンテナンスしないといけない.それが,ランドスケープ・アーキテクトから教わった感性のような気がします.

──ちなみにアルゴリズムというのは,外部的な要因がないと変わっていかない?

柄沢:基本的には変わらないと思います.

田中:というよりも,外部環境によって初めて多様な振舞いをするようになる.

柄沢:だからアルゴリズムみたいなものを作っても,それが外部から影響を受けて,固定的な関数がどんどん変動していくようなことは十分ありうる.それが恐らくは,セカンドライフの空間構築にも利用できて,シミュレーションや統計データの利用につながっていくのだと思います.

田中:いま面白い対比が出てきましたね.柄沢さんは「建築的」で,僕は「ランドスケープ・アーキテクト的」だとする.でも,ランドスケープ的,言い換えればガーデニング的・造園的なセンスって,いまのメタバースには全然ないですよね.「生成」か「構築」ばかりなのでは? 「観測」と「栽培」を導入できないかな?

柄沢:だから,外部データをメタバースにどんどん取り込むことによって,現実の流動性が限りなく反映された動的なモデルになると,反世界ではなくて,関連する並行世界になるわけです.固定的モデルに固執してきたものが,いまではナチュラル・コンピューティングとかの複雑系の方法論を取り入れて,多世界を作ることもできる.つまり必然性のある,より精密な世界モデルとしてのセルオートマトンを作っている,という話と同じです.

田中:比喩だけど,アルゴリズムって繊細じゃない? ちょっと振ってあげただけで,全然結果が変わる感じがあるでしょう.

柄沢:それはそうですが,基本的にはシミュレーションですからね.でもそれを,途中からセンシングで変動させれば全然変わります.実際に活動していく場としては,その閉じたモデルがもっと変動していったほうが,恐らく魅力的な場になるだろうというのは確かです.

──「ちょっと振ってあげる」みたいなことが定期的に起きて,そこに住んでいる人も何だか分からないうちに「ずいぶん様子が変わってきたな……」ということが起こるような仮想空間を実現できたら面白い,ということですね.

田中:僕はそういうのをやりたいんですよ.「観測&栽培」というコンセプトで,世界に関与するあり方を示したい.

柄沢:僕自身は,そこで見たことのない種,予測不可能な振舞いを作る種を,どれだけ定義できるかに興味があります.幾何学的な新しい思考が,その媒介になっていて……数学の世界では,カントールやライプニッツのモデルが,かりそめにも近代的な数学のモデルのオルタナティヴとして存在するとしたら,オルタナティヴな幾何学というものも存在していて……そういう意味では「新しい種」は作れるんですよ.

田中:そのアーキテクチュラル・シンキングと,ブリコラージュやベンディングのようなテクネーを両立させるような関係を作りたいですね.

柄沢:空間哲学者のアンリ・ルフェーブルが「それをセットで現実化できる」という話をしています.つまり,僕がやるような超幾何学的世界と,インプロヴィゼーションの世界の相互作用で現実の知覚世界が立ち上がる,というのが彼の議論です.

田中:じゃあ,あとは役割分担,ということで(笑).

柄沢:非線形幾何学空間に僕が建築を作ったら,田中さんにオートマトン的振舞いを内包した不思議な植物を植えてもらおう……(笑).

[※12]『10+1 web site』のための原稿:「アーキテクチャと思考の場所│柄沢祐輔」http://tenplusone.inax.co.jp/archives/2009/02/27123641.html [※13]「アーキテクチャと思考の場所」:2009年1月28日,東京工業大学・世界文明センターで開催された講演会.講師は浅田彰,磯崎新,宇野常寛,濱野智史,宮台真司,そして東浩紀(司会).「建築,社会設計,そしてコンピュータ・システムの3つの意味をあわせもつ言葉「アーキテクチャ」.それは,現代社会で,多様なニーズに答え,人間を無意識のうちに管理する工学的で匿名的な権力の総称になりつつある.では人文的な知は,そのような権力の台頭にどう対峙すればよいのか.建築家の磯崎新,社会学者の宮台真司,経済学者の浅田彰を招き,新世代の論客が論戦を挑む.(講演内容)」http://www.cswc.jp/lecture/lecture.php?id=60 [※14]「プロセス・プランニング論」:磯崎新『空間へ──根源へと遡行する思考』(美術出版社,1971/鹿島出版会,1997)所収. [※15]渡辺誠さんの「誘導都市」というプロジェクト:参考⇒「誘導都市総論」(http://www.makoto-architect.com/Idc97/Pre_Ja3_.html