──先ほど田中さんは「シミュレーションを見ても興奮しなくなった」とおっしゃいましたが,建築の世界には「ヴァーチュアル建築」がありますね.そういう,現実の建築ではないコンセプトモデルのような建築に対しても,有効性をあまり感じられないということですか?
田中:僕の卒業論文のテーマが,そのヴァーチュアル建築でした.コンピュータの中に四次元空間を作って四次元の図形や建築を作っていました.
柄沢:僕自身はまだそれに意味があると思っています.ただ,それは前段階として捉えるべきで,そこでの可能性を探求した上で現実に落とし込むという,次の段階にいまさしかかっている気がします.つまり,ヴァーチュアル空間だけで自立しているモデルを探求するフェイズは終わっていて,それが現実世界に影響を与えるようにリアライズされるべきでしょう.
僕も途中から,情報空間にあるさまざまな表現をどうやって現実空間の中に置き換えて体験できるかという部分に興味が集中していまして,自分が関わる建築物でも,その部分に抵触するような空間性を実現したいと思っています.
また空間性の分析も,そこの部分に集約してきています.一昨年末の『10+1』49号[※08]に掲載された「虚の不透明性」という論考では,まだ誰もやっていなかったその部分の分析を,自分なりにまとめあげられたのではないかと勝手に思っています.
田中:「虚の不透明性」では,いくつか事例を出していましたよね.
柄沢:西沢立衛の「森山邸」と,藤本壮介の「T house」と,妹島和世の「鬼石町多目的ホール」などがそうですね.つまり,彼ら多作な建築家は,私たちがすでに離散的な世界を生きているがゆえに,その空間における身体的な経験を無意識から掘り起こして表現している,という話です.かりそめにも建築史家のコーリン・ロウがル・コルビュジェの建築を分析して抽出した「虚の透明性」が近代建築の空間性の典型的な特徴だとすると,先ほど挙げた空間はそれをひっくり返した図式をもっています.それを「虚の不透明性」の空間性と名づけたのですが…….いずれにしても,昨今では「森山邸」や「T house」のように,距離感覚の撹乱が起こるとき,人は身体的な快楽を感じていると思います.
田中:遠近感が崩壊するような……「見える場所」と「行ける場所」にギャップがあったりする,森の中の空間性に似た感覚って,たしかにかなり根づいてきていますよね.
柄沢:いわば,ある種の離散的な空間感覚が身体感覚として……まず情報メディアとして身体に降り注いだものが埋蔵されたあげく,離散的な空間を経験したとき,普通のユークリッド空間よりもリアリティを感じるようになってきていますよね.その部分を意識的に構築して空間をエンベッド(埋め込み)すると,建築の世界もより豊かになると思う.
田中:でも,最近の大学生の卒業設計なんて,全部それになっていない? 人間の微妙な関係とか,距離感覚みたいなものを作品にする人が多い気がする.そういう状況を見たときに,一個一個の建築を見て評論している場合ではない気がして,むしろ誰もが離散的な空間構成を実現できるようなパーソナル・ファブリケーション・システムを構築して,実社会のほうにエンベッドしたほうが全体としてはいいのではないか,と.まぁ,だからこそ僕の研究テーマなのですが.
柄沢:なぜ,僕らは離散的な身体を感覚として持っているのに,それを問う多様な方法を作らないのかが問題だと思います.それを追求していくと,さまざまな空間の可能性が出てくる.『10+1』48号[※09]で議論したアルゴリズム的思考というのも,まさにひとつの大きなきっかけになっています.アルゴリズムというものは,ひとつはマクロな関数としての一義性と一方では局所的なパラメータとしての多義性を持っていることによって,従来とはかなり異なる空間性を作る巨大なトリガーになっている.まず,その関数をどのようにデカルト空間にマッピングしていくか.デカルト空間は一見均質なものに見えますが,そこに関数をどのように操作して投影して幾何学を作るかという方法をやると,一義牲がありながらも多義性があるような,かなり複雑な幾何学が取れたり,新しい空間がマッピングできる.そのようなアルゴリズミックな幾何学(Algorithmic Geometry)の探究の成果を多様な形で展開して実際に建築を作れたら,と僕は思っています.
田中:新しい文法や空間のノーテーションを開発することに真面目に取り組まれている柄沢さんや市川さんが一方にいらっしゃることは,分かります.ただ僕は,単体の建築よりも,システム的な部分に最終的には行きたいと思っています.
いまの社会には「ベンディング(Bending)」や「MAKE」[※10]のような,秋葉原感覚で自分たちの生活を自分たちで成立させる文化の匂いがあると思う.60年代にそれを作ったものは,『Whole Earth Catalog』のようなカタログだったわけですが,それをもう少しコンピュータ・システムの中に洗練したかたちで実装できるのではないかと.
柄沢:でも,たとえば60年代の『Whole Earth Catalog』とかを見ると,何にでも使えそうなツールが個別に並んでいるけれど,見せ方などの編集意図がやはり存在している.その部分に関しての位相が,僕が対象にしている「記述の位相」であって,結局何が『Whole Earth Catalog』の項目になっているかはあまり問題ではなくて,その個々のアイテムを編集して組み合わせたときに立ち上がる効果がある.まず『Whole Earth Catalog』の項目がどういう意図で並んでいるかを最初に「記述の位相」として準備し編集した人がいた上で,次にそれを見た人がDIY的にそれらを組み合わせてやっていく……というプロセスがあると思います.
建築の世界では先にモダニズムの記述系をどんどん作っていく人々がいて……たとえばイタリアのアルベルト・サルトリスだったりテオ・ファン・ドゥースブルフだったり,ヴァルター・グロピウスらバウハウスの教授陣達がまず活躍する.その後30年くらい経って1950年代にチャールズ・イームズが現われてブリコラージュ的な空間を作った.けれども結果的にできあがった空間は,当時の自動車のようなパーツを使いながらもその内実はバウハウスやグロピウスの生み出した空間と同じものだった.表面の色彩はドゥースブルフです.つまり,バウハウスの人たちの記述系をもとにその前提の上でブリコラージュをやったのがイームズだ,と.建築史を見ると,そういう流れを感じます.
田中:レヴィ=ストロースの構造主義で言うと「材料」,「道具」,あとは「レシピ」ですよね.その三角関係(組み合わせ方)がデータベースにあれば,あとは個々人が勝手に引き出せばいい.最終的な空間の記述法は,それとはまた別のレイヤーにあるのでは?
柄沢:そう思いますが,その「三つ巴の関係」の前に,記述系を作った人がいると僕は思います.
田中:そこで「記述系を作りたい」と思っちゃうところが,やはり柄沢さんは建築家だよね.僕はデザイン・エンジニアだからシステム指向かもしれない.
柄沢:でもそれは両立すると思いますよ.時代的に風呂敷みたいな道具が用意されて,その模様が決まる,というか.
田中:でも,ブリコラージュやDIYって,何ができあがるかが先に分かってしまうと,全然面白くないですよね……インプロヴィゼーションの要素が大きいから.「材料」と「道具」と「レシピ」でゴチャゴチャやっていく中で,何ものかが生成する.その生成過程そのものがダイナミックなわけであって,そちらを僕は取りたいとは思う.めざすべき空間像が最初に描かれすぎてしまうと,面白くない.その辺が,僕が微妙に建築ディシプリンじゃないところなのでしょうね.