ICC
ICC メタバース・プロジェクト
田中浩也×柄沢祐輔「メタバースにおける空間,環境,身体性」 聞き手:畠中実(ICC学芸員)
田中浩也×柄沢祐輔
「離散的なネットワーク空間」を、どう表現するか?

──江渡さんの回でも取りあげられましたが,メタバースとは呼ばれなかったとしても,これまでにも3D仮想空間をオンライン上で展開したシステムは(それこそ90年代から)繰り返し現われては,長続きせずに終わってしまったという話をきっかけに始めましょうか.それはなぜでしょうか.

田中:もう10年以上前の話ですが,僕の修士論文のテーマがVRMLで記述された多次元仮想空間のデザインでしたので,懐かしいですね.ちょうどICCで磯崎新さんが島を作る展覧会『海市』(1997年4月19日─7月13日)をやられていた時代です.その後,「PAW」などいろいろ記憶にありますが,江渡さんのおっしゃるように,過去15年ぐらいを振り返ってみてもあまり定着した事例がなく,改めて今,三次元仮想空間にトライすることに,なぜそんなに楽観的になれるのかと思ってしまうことは事実です.

柄沢:僕が,予てからの3D仮想空間共有システムの経緯を見ていて不思議だったのは「三次元のメタファーを使う必然性があるのか」という部分ですね.単純にモニター画面が二次元ということもあって,二次元インターフェイスのほうがむしろストレスがないのに……三次元のメタファーを持ってくるメリットがさほど感じられないのに,強引にそれを持ち込んでは失敗している気がします.

──これまた前回(エキソニモ×ドミニク)に出た話題ですが,コンピュータの歴史を振り返ると,たとえばGUIのように,プログラムをメタファーに置き換えていく作業が常にあった.そしてGUIの登場がコンピュータ・ユーザーの裾野を広げたことも事実です.そういう意味で,メタバースに大勢の人を呼び込むのに,その「三次元のメタファーが有効性を持つ」とは考えられませんか?

田中:「3D」をやりだした人の最初の目論見は,「日常空間が三次元だから,その延長線上として,似た方法で操作できるコンピュータの世界があるとシームレスでやりやすいのではないか」というものだったはずです.でも,結局うまくいかなかったのはなぜか? コンピュータと人間のインターフェイスには,入力部分と出力部分の2カ所があって,いくら出力部分の画面のみを三次元化しても,入力部分であるマウスやキーボードやタブレットは二次元の操作が踏襲されていて,そこはずうっと変わっていない.「入力は二次元で出力が三次元」というのは,そもそも人間の身体性とスムーズに合致しているわけではないから,いまの入力方式を前提とする限り,ギクシャクしたものに留まってしまう気がします.

──任天堂「Wii」のコントローラーみたいな新しいインターフェイスを使わないとダメだ,と?

田中:そもそもVR技術って,実はアーケードゲームやWiiのような体感ゲーム系(三次元で入出力する完結したデヴァイス)の中では,うまくいっていませんか?「Web3D」となるとインターフェイスの問題が出てくる.

柄沢:まず「建築家にとっての空間操作」という話を僕のほうから振りますと……19世紀末にアウグスト・シュマルゾーという美術史家が活躍するのですが,彼の理論を嚆矢として19世紀末から20世紀初頭の近代建築の初期に,初めて三次元的な空間を制御しようとする意識が建築家の間で広く一般化します.それまでの古典主義の建築家は二次元的な書割のようなファサードをどのように様式的な装飾で埋めつくすかということに邁進していましたが,近代建築のムーヴメントとは当初そのような様式主義に対しての反動として,装飾のない三次元的な空間をコントロールしようとする意識によって生み出されました.たとえばアドルフ・ロースは「装飾は罪悪である」と述べて三次元的な空間を精妙に組み合わせたラウムプランという手法を用いて建築を作るわけです.要するに19世紀末から20世紀初頭の近代建築運動の勃興に端を発する三次元空間を制御しようという意識のもとで,建築家たちが初めて空間を意識的に操作するようになる.そこで彼らが空間操作の基本的な方法を考えた際,三次元の空間を二次元で扱えるようにするアクソメトリック図法が採用されます.オランダのデ・スティルの建築家やバウハウスの教授陣,アルベルト・サルトリスらが中心となって探求したこの方法を使うと,紙という二次元のインターフェイス上に三次元空間を,最も簡便かつ空間性そのものを保持しながら操作することができたわけです.
 初期のテレビゲームやRPGなどは皆アクソメトリックで作られていました.たとえば大成功したMMORPGの「ウルティマ・オンライン」も,やはりアクソメトリックによる空間性が二次元のインターフェイスとマッチしていたので,ストレスがなかった.アヴァターがいるにせよいないにせよ,モニターの中で人が動く空間を作るとしたら,実はこのアクソメトリックが最もふさわしい方法ではないかと思います.仮に三次元空間をそこに立ち上げるとしても,二次元的なアクソメトリックと主観的な投影が常にスイッチングできるというような互換性を持つことが,3D仮想空間でも必要になってくる気がします.

田中:たしか八谷和彦さんの《PostPet》もアクソメですよね.「gumonji」(http://www.gumonji.net/)もそれに近いけれど……ただ僕は,空間構造についてもっと根本的な話をしたいんです.インターネットの空間って,本当は「離散」であり,連続の三次元空間じゃなくて,皆がバラバラに持っている空間が接続されているだけですよね.それがあたかも,ひとつの三次元世界の中に皆がいるかのような表現になっているフィクション自体が,そもそも僕は気に入らなかったりする(笑).
 離散であり,しかも三次元空間であるという本来的な空間性が,まだ表現のレヴェルに出てきていない気がするんです.唯一そうした方向性をずっと探求されているのが,ダブルネガティヴス アーキテクチャー(dNA)の市川創太さんであるように思います.各自がバラバラの主観で見ている空間が並列的に存在している感じがインターネット上の仮想空間のアーキテクチャの形であることを表現したくて,僕も博士論文では“PhotoWalker”というソフトウェアを開発してみました(http://web.sfc.keio.ac.jp/~htanaka/earthwalker/photowalker/).ただこうしたアプローチは「本来持っている空間構造を明るみに出したい」ということだから,「日常の三次元の経験の延長線上で仮想空間を捉えたい」というユーザビリティ指向のニーズとは,根本的に異なっていますけれども.

柄沢:インターネット空間が「離散である」という指摘は,まったく同感ですね.「離散的な空間」とは距離が無効になった位相空間の世界を端的に表現する言葉です.基本的に近代以降の空間図式で言うと,それ自体として何だか分からないけれど,空間というものは何か人の手で触れられないものとして存在している.人間の主観がそれを捉えるときに感覚要素が知覚の前に現われて,それらを再構成することによって,各人が現実の空間を個別に立ち現わせている……という物理学者のエルンスト・マッハが唱えた「マッハ主義」というものがあるわけですが,このモデルでは離散的な空間性を人間の知覚が統合しているという説明なのですね.そして近代の物理学は基本的にはこの空間概念をベースに成立しています.
 この考え方に基づくと,実は「空間自体がすべての人に同じように見えている」という素朴な前提が間違っていて,それぞれの個別の空間が現象学的にどのようにして立ち現われるかということが問題になるわけですが,そこから敷衍すると何か触れられないトータルなシステムがありつつも,そこに参加する人間は個々の主観を介して空間をそのつど開示して,個別に世界を作っていくようなモデルが展開できます.
 たとえばミクシィで言うと,どういうコミュニティに登録しているかと,どういうマイミクと繋がっているかで,自分のプラットフォームにおいて環世界が構築されているわけですが,そういうふうに他のものとコミュニケートすることで自己の空間が広がっていくようなモデルをさまざまな方法で実装できると,よりリアルなメタバースになるのかもしれません.要するに最初にひとつの空間が作られているという考えはあまりリアルではない.

田中:「空間とは何か?」という話になってゆきますね.そもそもコンピュータの中の世界は「実際は空間じゃなくて,ただの数値だ」と言ってしまえる.そうした事態を前にして,僕もそうなのですが,多少たりとも建築にルーツを持つ人は,新しい空間構造そのものを見つけ出したい,と考えてしまうので,データに対して別のところからインターフェイスを持ってきてかぶせる……という人間中心のアプローチではなくて,「情報の空間化」という実験をするのだと思うんです.でも(自己批判的に言うと)市川さんや柄沢さんや僕のような,いわゆる「離散的な空間構造を表現するシステムを作りたい」と思い続けてきた側も,まだまだ戦っている最中な気がする.

──一般ユーザーから見れば,モニター画面の中に遠近法的な空間が見えていれば,現実と地続きでその中に入っていきやすい.だから3D空間が選択されているのでしょう.でも,情報空間を3Dなり2Dなりに投射しないで考えるとすれば,それこそ市川さんがやられているような表現が正しいのかもしれません.とはいえ,それには「慣れ」が必要ですよね.その見方に慣れるか,あるいは,その表現が使う人にとっての日常的な所作に対してひらめきを与え,そちらのほうに正当性を与えないといけませんよね.

田中:建築の文脈で考えると,新しい空間概念を発見することは,皆が共通の目標としているので……ユークリッド空間や投影法のような空間モデルはもうやりつくされていて,僕らの中では終わっているんですよ.
 原広司さんも「離散空間というものを考えなければならない」と,ずっと言っています.僕らもそれに賛同していて,むしろコンピュータの側で人々が離散空間を経験して,そこで少しずつ慣れてくることによって,今度は実世界のほうも離散的に捉えられるようになるのでは,と期待しているわけです.いままで日常的に慣れてきた空間のメタファーを一旦全部やめるための道具として,コンピュータを考えたい.「まったく別の見方ができるんだ」ということを開示したい.そう思い続けてきたけれど……失敗し続けてもいる(笑).

──たとえば,コンピュータの画面が「デスクトップ」と名づけられていること自体,ある種の制約になっていますよね.

田中:ところが,メールやミクシィやiPhoneなど,あらゆるデヴァイスが離散的なコネクションで動いているわけで,「離散的」な経験や生活に,皆がなじんできている.それに対して,視覚的な空間表象を与えるときに,突然三次元のユークリッド空間を出してしまうのは,やはりおかしい気がします.

──ミクシィのマイミク一覧の関係図が作れるソフトウェア「mixiGraph」(http://www.fmp.jp/~sugimoto/mixiGraph/)がありますよね.あれは体験的なレヴェルですんなりと了解できましたが,そういうところまで持っていかないといけないわけですね.

田中:VRMLの段階でも,そういうことがあって……VRMLにはインラインという関数があって,空間の中に別の空間をインポートできました.何種類かの空間のデータが別々にあって,ひとつの空間の中に別の空間を埋め込んだりできる.「それは面白い!」と思っていたのですが,でも特に実用的な効果はない.そういう体験をすること自体は面白いけれど,その魅力がうまく伝えられていない.

柄沢:原広司さんも「〈部分と全体の論理〉についてのブリコラージュ」という論考[※01]で,部分と全体の関係の撹乱について語っていますね.それは空間概念の根本的な変革になるという示唆をしています.先ほどのマッハ主義の考え方からすれば,個人の現象学的な空間の構成から端を発してすべてを作っていくという発想になるかと思います.

田中: 情報学のほうからですと,西垣通さんも「各々の観察者の認知行為の重なりとして世界が浮かび上がってくる」という感覚についておっしゃっています[※02].僕も実感としてよく分かります.さてそうした経験の「空間化」はというと…….

柄沢:先ほど畠中さんの話に出た「mixiGraphの分かりやすさ」というのが,実は空間の構成を変革する大きなトリガーになっていると思います.近代建築の最大の理論家にして建築空間論者のジークフリート・ギーディオンは「その時代の科学的な思考が空間性と一体になっている」という話をしていて,その議論を引き継いだ篠原一男は著書『住宅建築』(紀伊国屋書店,1964)において「その時々の空間を記述するメディアの状況が,空間のあり方を全部規定している」という話をしています.
 たとえば映画という空間記述の方法は,回廊が水平に繋がっていくフランク・ロイド・ライトの「プレーリー・ハウス(草原住宅)」と関係があったり,あとはル・コルビュジェの有名な「建築的プロムナード」などのシークエンシャルな空間概念と繋がっていたりもする.つまり,近代技術の大きなイノヴェーションとしての映画(フィルム)というメディアがあったとしたら,それの対応物として,近代建築のシークエンシャルな構成が存在しているという考え方が成り立つのですね.
 結局は「メディアはメッセージである」というマクルーハンの言葉と同じように「メディア自体が意味を持って,それ自体が空間概念に影響を与えることができる」という考え方は極めて説得力がある.たとえば「ミクシィの空間概念がmixiGraphのような形で記述される」という形で言えば,離散的な空間をグラフ構造で表現して,メディアとしてのその空間を理解したときに,明らかに空間概念は変わると思っています.
 ここで興味深いのは2000年以降の複雑ネットワークの学問の進化です.ダンカン・ワッツやスティーヴン・ストロガッツやアルバート=ラズロ・バラバシといった人々が,2000年以降のインターネットの急激な普及を観察しつつ,複雑ネットワークの分野で大きなイノヴェーションを起こしました.そこでは離散的な空間構造が「スモール・ワールド・ネットワーク」という一次元格子の空間表象として形象化されていて,「近傍のネットワーク(クラスター性)」と「ショートカット(小さい平均距離)」という2つの概念によって,離散的空間がある程度二次元の空間に置き換えられる形で把握されています.そのひとつの応用例としてmixiGraphがあるのでしょう.このような新しいメディアにおける空間性がすでに一次元格子の視覚的表象として表現されていることは新しい空間性を生み出すきっかけになると思うのです.

田中:クリストファー・アレグザンダー[※03]もそうだよね.「ネットワークとツリー」の話.

柄沢:そう.いわばインターネットの離散的な空間構成が,まがりなりにも空間モデルとして把握されるということは,極めて意味のあることだと思います.そこから形式に落とし込んだときに,より新鮮な空間モデルを取り出すことができるのではないでしょうか.

[※01]「〈部分と全体の論理〉についてのブリコラージュ」という論考:原広司『空間──機能から様相へ』(岩波書店,1987/岩波現代文庫,2007)所収. [※02]西垣通さんも「各々の観察者の認知行為の重なりとして世界が浮かび上がってくる」という感覚についておっしゃっています:参照⇒『SITE ZERO/ZERO SITE』No. 2情報生態論特集号 pp.264 [田中] [※03]クリストファー・アレグザンダー(Christopher Alexander):ウィーン出身の都市計画家・建築家.1965年に発表した『A City is not a Tree(都市はツリーではない)』の中で,都市は階層的に構成されるツリー構造ではなく,むしろさまざまな要素が絡み合って形成されるセミラチス構造であることを説き,その理念に基づいて,デザイン手法をネットワーク状に繋げ合わせることで総合的なデザインを展開する必要性を,主著『パタン・ランゲージ』(鹿島出版会,1984)に記した.