──以前,江渡さんは「昨今のメタバース・ブームは,“何度目かの波”みたいなものである」とお話しされていたのですが,たしかに江渡さんがメディア・アートやIT研究に関わられた最初期(90年代初頭)に,仮想空間的な概念やその表現もまだ一般的には広がっていなかったがゆえに,関わられていた方々の入り込み方もいまとはだいぶ違っていたと思います.まずは「仮想空間の歴史」的な流れを,江渡さんご自身のお仕事や作品制作の経緯と絡めてお聞きかせいただき,その上でメタバース事業の可能性なり問題点をご指摘いただけたらと思います.
「Island of Kesmai」
江渡:自分の過去を振り返りつつお話ししますと,やはり仮想空間の歴史はそれなりに長いんですよね.仮想空間的な試みが,ある程度のリアリティを持って語られるようになった最初のタイトルに,「Island of Kesmai」という80年代初頭のオンラインゲームがあります.
実はこのゲームが出てくる前に,マイケル・トイという人物が作った「Rogue」という有名なゲームがありまして,これはUnix上のコンソールで動かす,文字だけで完結したゲームで,ひたすらテキスト表示だけでユーザーがダンジョンのなかを探検し,成長し,鎧や剣を使ってドラゴンを倒して,アミュレットを取ってくる内容でした.
先にご紹介した「Island of Kesmai」は,見た目に関しては今お話しした「Rogue」と同様,単純に文字だけを使ったRPGなのですが,この「Island of Kesmai」はアメリカのパソコン通信会社CompuServeがホストしていて,CompuServeに繋がっている他のユーザーとゲーム上でコミュニケーションが取れる点が画期的でした[※01].
ちなみにこのゲームには,マルチプレイ機能だけ外した「Dungeons of Kesmai」というゲームもあって……僕はそちらのほうをプレイしたことはあるのですが,残念ながら「Island of Kesmai」のほうは話だけで,実際にプレイしたことはなかったです.ともあれ,マルチプレイRPGとしては,おそらくこの「Island of Kesmai」が一番最初だと思います.
「Habitat」
その他に,80年代終盤に富士通が運営していた「Habitat」という仮想空間がありました.もともとはルーカスフィルム社によって開発されたシステムで,ユーザーがオンライン上の仮想空間を探検しながら,他のアヴァターとコミュニケーションを取ることができました.仮想空間上でユーザー同士が恋愛をしたり,結婚をしたり……みたいなトピックが話題となりました.ちなみにこの「Habitat」というシステムは,日本の富士通が「FM-TOWNS」というマシンの売り込みのために輸入したもので,80年代末〜90年代初頭ぐらいでしょうか,日本でもそれなりに熱狂的なユーザーがいました[※02].
少年時代の僕もそういう事例を見て興味を持ちはじめて,「こんな面白い世界があるんだ.やってみたいな」と思いましたが,その頃には実現しなかった.なぜならば,CompuServeに料金を支払ってサーヴィスを受けたり,FM-TOWNSのようなスペックのマシンが買える年齢ではなかったので,興味はあったけれど実際に参加することは叶わなかったわけです.
ちなみに僕がパソコン通信を始めたのは1985年頃……中学二年生の時ですね.当時は掲示板や電子メール,チャットとかにハマっていました.そして,いつかこれが仮想空間やオンラインゲームのようなものに発展しないかな……と思っていました.
《PeepHole》
江渡:しばらくは自分史の振り返りが続きますが……そんなわけで91年に,僕は慶應義塾大学のSFC(湘南藤沢キャンパス)に進学して,そこでインターネットなるものを初めて知りました.「こんな面白いものがあるんだ」と思って,世界中のコンピュータが参加できるようなネットワークがすでにあるのならば,これを使ってオンラインゲームができるのではないかと考え,3Dグラフィックスの技術を学ぼうと色々調べたり,いかにしてその技術とインターネットを融合できるかを真剣に考えていました.
そして3年生のとき藤幡正樹先生の研究室に入ったこともありまして,単純にオンライン上のコミュニケーションだけではなく,現実世界との融合を考えるようになりました.そして作ったのが《PeepHole》という作品です.これは早い話ウェブカムのようなものですが,コンピュータに接続されたカメラがウェブサーバにも接続されていて,ブラウザでそれにアクセスすると,ヴィデオカメラが捉えている風景が見えるという趣向です.カメラで写した風景がウェブブラウザに取り込まれることで,現実世界がウェブのなかに入ってくる感覚が生まれるところが非常に面白いと思っていました.また後日,この《PeepHole》を改良して,ウェブブラウザ上でカメラの向きを変えられるようなシステムを作って公開しました.
──92,93年ということは,ちょうど「Mosaic」が発表された時期に重なっていますから,江渡さんはタイムリーにインターネットに出会ったということですね.
江渡:そうですね.僕がWWW(ワールドワイドウェブ)に出会った頃,Mosaicはまだなくて,そこへアクセスするためのウェブブラウザが色々出てきた時代でした.だけど間もなくNCSA Mosaicが決定打として出てきて,普及しました.学校でも「皆でMosaicを使いましょう」とプロモーションしていました[※03].
「A Gopher in a Forest」
江渡:それで思い出したのですが,WWWの前に「Gopher」という情報システムがありました.これもWWWに近い存在なのですが,ウェブよりは機能が貧弱で,HTMLみたいに構造化したテキストを書く機能はなくて,純粋にテキストファイルしか表示できず,文章中にリンクを埋め込むこともできず,ただテキストで文章を見せるのと,リストを表示させる機能しかなかった.いまでは信じられないかもしれませんが,当時はWWWよりもGopherのほうが圧倒的に情報量があって,「すでにGopherがあるのに,なんでWWWが必要なんだ」という意見もあったくらいでした.
ちなみにこのGopher上にある情報を見るためのクライアントソフトが色々とあったのですが,そのなかでスティーヴ・ロドキーによる「A Gopher in a Forest」というアプリケーションがありまして……ちょうど僕がそういうものを発見して面白がっている頃に奥出直人先生と藤幡正樹先生がSFCにいらっしゃって,それらの研究室周辺で大変盛り上がりまして,僕の友人の明田守正君がその「A Gopher in a Forest」についての文章を『インターコミュニケーション』に寄稿しました[※04].
このアプリケーションはGopherの情報を見るためのブラウザのようなものだったのですが,情報を表示するウィンドウに情報構造をツリーとして表示する機能がついていました.ある三次元の仮想空間のなかに,ツリー構造で情報が管理されていたわけです.ある情報を選択すると,枝が伸びていろんな選択肢が見えてくる.そこからひとつを選ぶと,また枝が伸びて選択肢が表示される.またそこから選ぶと枝が伸びて……というように木が生長していく.
三次元空間上でリンクを図式化していて,そのリンクをクリックすると別のサーバのリンクに飛ぶ.すると,ある木から別の木に線が伸びて,それがとても美しいというか……さまざまなGopherサイトが仮想空間上で繋がっている様子を可視化する機能がついていました.とはいえ当時の技術ですから,グラフィックスも当然ワイヤフレームのようなもので,すごく質素だったのですが……ネット上に情報を呈示するサイトがたくさん現われ始めていた時代で,そのようなネット上のリアルな情報が三次元の仮想空間として可視化されていました.将来的にはそれが情報空間へと発展していく可能性が示唆されていて,みんなはその可能性にわくわくしていました.そういうことに皆は感動していたわけです.