作家の言葉
テープ・レコーダーのそばで眠るようになって,私は夢のイメージを刈り入れることができるようになった.目覚めてから私は夢の内容を記録する.ここ数年,私は録音されたイメージのライブラリーを発展させ,潜在意識の言語とその性質を学んできた.この興味をそそる内的なイメージは,私の芸術の核心的な主題を形成し,そこにまさしく私の情念が横たわっているのである.
私がこの作品で使用しているアニメーション技術は,19世紀半ばに発展したテクノロジーの支脈となったイメージ形成の進化論的な系統樹を遡っている.この技術は現代の映画とビデオの祖先であり,視覚の持続の科学的な原理を使用している.変化するイメージは敏速な継続のなかで運動のイリュージョンを生み出しながら現われる.私は,この技術に時間の第四次元を連合させて,無限に有効な三次元のパースペクティヴを組み立てた.ストロボの光はリアルタイムで三次元の物体をアニメ化することを可能にし,観る者に,アニメ化された場面 と同じ物理的空間を分かち合わせることができる.
潜在意識の像(イメジャリ)の実現に理想的に適応されるアニメーションは,知覚の性質を研究する実験台となりながら,表現の偉大な自由を可能としている.私の目的はテレビのような単純な再生ではない.露光された伝達方法はインスタレーションに豊かな夢のリアリティをもたらすものである.
最近の歴史の偉大な神話の一つは,合理的な思考の傑出である.この2世紀において秩序の安全性に対する欲望は,混乱した恐るべき世界に対する安全の覆い,すなわち,宗教のレヴェルまで合理的な思考を高めてきた.われわれの世界は,ある一つの角度から見られるときは不完全であり,あらゆる角度から眺められるときは混沌としている.唯一のパースペクティヴは経験の無限のヴァリエーションを考慮してはいない.科学は確実性の態度と不確実性に悩まされることのない実践的な知識の巨大な蓄積によってわれわれを慰めている.ユング心理学において,夢は魂の安全弁である.それは人間の構築物に対する原始的な不信に出口を開け,われわれの最も深い本性へのロード・マップを形成している.人間の欲求は,理性のみでは近づきえない遥かに遠い進化論的な過去に基づいている.
テクノロジーはまさにわれわれの不信にさらされた合理化の道である.ICCは,近代のテレコミュニケーションの渦中における潜在意識的な反応を私に研究する機会を提供した.その行路における十分な幸運(あるいは不幸)のために,テレコミュニケーションは,コミュニケーションとそのアクセスの大きな可能性を約束している.同時に,依存性の危険,また,親密さ,プライヴァシー,アイデンティティを失う危険をもたらしている.
私の夢の像(イメジャリ)の使用は,観る者を身体的に物語のイメージへ直面させる試みである.私の仕事は観る者が自分自身の経験に適用しうる普遍的テーマの選択である.この三次元のイメージと同じ空間を共有する力は,部分的にはあなたが自身の解釈行為を目撃するところに存在する.敏速に変化するイメージは一貫した(あるいは場合によっては混沌たる)全体へと統合される.それは知覚と認識に固有の自己定義の行為を例示している.われわれの精神は秩序を求める圧倒的な欲望をもっている.われわれは秩序を創造する.それはわれわれを人間として定義づける秩序の性質である.しかし,秩序は,私があなたに提供するものではない.私はその代わりに,感情が野性化し自己を欺くことが矛盾語法となる無意識の領域への三次元の窓を提供するのである.
作家紹介
グレゴリー・バーサミアンは,洗練された手わざによる連鎖的な彫刻をモーターで回転させ,それと同期するストロボの光のなかで立体アニメーションを形成する.連鎖のいくつかの結節点でイメージは敏速に変化しながら,円環的に繰り返される.たとえば,《プッティ》(1991)では,天使とヘリコプターの変形が反復し,《すくい取る指》(1992)では,開かれた本の文字から手がとかげをすくい上げる.また,近作《野生の泉》(1996)では,水道の蛇口からしたたる水滴が爆弾へと変化し,それは手を水のようにすり抜けた後,紙飛行機となって陶皿を割る.これらの連鎖的で瞑想的なイメージは,われわれを無意識の旅へと誘う.作家にとって夢がイメージの源泉であるならば,作品は夢判断とも重なってくるだろう.
彼のアニメーション技術は,映画発明前史に試みられたゾートロープ(回転覗き絵)に出自をもつ.1880年代,エティエンヌ゠ジュール・マレは立体ゾートロープをすでに制作していた.また,それ以前の「パラパラ漫画(フリップブック)」や「驚き盤(フェナキスティスコープ)」などの初期のアニメ技術は,CRT上の光の像とは異なる存在感をもち,岩井俊雄など現代の映像作家にとっても想像力の源泉となっている.しかし,岩井が,紙をめくったり,ドラムを回す「手」との連動感にインタラクティヴな映像装置の原点を見出していたのに対し,バーサミアンは,回転に機械を用い,観る者の身体的な動きを積極的には求めない.しかし,バーサミアンは,作品に身体よりも大きなスケールをもたせ,ストロボ・ライトに観る者を包み込ませることで,別の角度から空間における身体性を考慮している.つまり,作品の変容は,外部の現実空間から覗き見(ピーピング)されるのではなく,身体と作品を同時に「包み込む」空間全体の内部から開かれてくる.そのときすでに,観る者の身体は,現実空間から別の様態(モード)へ移行していると言ってよい.
今回のモチーフである「電話」は,作家の企画当初の言葉によれば,「人類と機械間のエレクトロニック・インターフェイスの最も親密な象徴」であり,変容する電話のイメージは,「近代的コミュニケーションの葛藤」,すなわち,「希望」と「警告」を表現する.また,この変容のなかで「意識的な心の安全弁として機能する無意識は,テクノロジーに対する原始的な不信を静め,未来への出口として機能する」という.
この夢のごとき無意識への旅は,リアル=現実と接することにおいて危機的であると同時に安全弁として働くという両義的な意味をもつ.その時空間の特徴は,電子メディア環境におけるヴァーチュアル・リアリティ空間の一局面と興味深く交差している.