HIVEのすゝめ|HIVE 101: Introduction to ICC’s Video Archive

Vol. 15

永田康祐 NAGATA Kosuke

1990年愛知県生まれ.社会制度やメディア技術,知覚システムといった人間が物事を認識する基礎となっている要素に着目し,あるものを他のものから区別するプロセスに伴う曖昧さについてあつかった作品を制作している.主な展覧会に「あいちトリエンナーレ2019:情の時代」(愛知県美術館,2019),「オープン・スペース 2018:イン・トランジション」(NTTインターコミュニケーション・センター [ICC],2018),「第10回恵比寿映像祭:インヴィジブル」(東京都写真美術館,2018)などがある.また,主なテキストとして「Photoshop以降の写真作品:「写真装置」のソフトウェアについて」(『インスタグラムと現代視覚文化論』(ビー・エヌ・エヌ新社)所収,2018)など.


バックミラーを見つめて

はじめに

まったく新しい状況に直面すると,われわれはいつも,一番近い過去の事物や様式にしがみつくものである.われわれはバックミラーごしに現在を見ている.われわれは未来にむかって,後ろ向きに行進している註1

この1年間,COVID-19の感染拡大対策で大学の講義がオンライン化したり,打ち合わせがZoomで行なわれたり,展覧会をウェブ上で鑑賞可能にする方法を検討したりするたびに,英文学者のマーシャル・マクルーハンによるこの一節を幾度となく思い出していました.マクルーハンのこの言葉は,現代の新しいメディア環境を理解しようとするとき,私たちはそれをそのまま受け止めることができず,つねに過去にあったメディアとの類比を経由する必要があるということを示しています.私たちは背後に広がる現在や未来を直接見ることができないため,つねに前方にあるバックミラーの映り込みによって、すなわち過去にある類似物によってそれを見ているのだ,ということです.

マクルーハンのこの主張はまさに,オンライン「講義」やリモート「会議」,ヴァーチュアル「展覧会」といったように,これまでにあったもののメタファーを用いずには講義や業務,展覧会を遂行できない私たちの状況のことを指し示しています.私たちの多くはおそらく,今私たちがおかれている社会状況がどのようなものであるかということを直接的に理解することができず,これまで慣れ親しんできた形式にどうにか結びつけることによって,日々の生活を送っているのです.

こうした私たちの状況は,言うまでもなく,自動車のことを(馬車の拡張としての)「馬なし馬車」としか認識できていないことと非常によく似ています(さらにいえば,それは「自動運転車」が自動車の類似物とみなされている現状に対して示唆を与えるものでもあるでしょう).私たちは「オンライン講義」や「リモート会議」といったものが,それまでの講義や会議とはどこか本質的に異なるものになる可能性があることを理解しているはずですが,そうした技術的な差異について,私たちの多くは,いつもそれまでの通常の授業や会議との比較のなかで見えてくる便利さや不便さといった尺度を通じてしか思考することができないのです.



哲学者のスラヴォイ・ジジェク*1 は,1997年のインタヴューのなかで,こうした「バックミラー」を別な仕方で描き出しています.ジジェクは「デジタル化されたコミュニケーション」について,ラカン派の精神分析学をふまえながら次のように述べています.

ヴァーチュアル・リアリティのショッキングなインパクトは,「これまでは真の自分があり真の肉体があったのに,それが突然,(インターネット上でのセックス・ゲームにおいては)偽の人工的イメージとしかセックスをしていないとわかった」,などということによるものではないということです.そうではなくて,わかったのは,これまでも決して真の自己,真の肉体などなかったということなのです.

ジジェクによれば,「デジタル化されたコミュニケーション」は,アヴァターやSNSアカウントによってリアルな肉体をヴァーチュアルな構造物に作り変え,人間関係を人工的なイメージとのやりとりへと作り変えてしまったのではなく,そうしたコミュニケーションによって,現実のコミュニケーションがそもそもヴァーチュアルだったということを明らかにしているのだと言います.新しいメディアがショッキングなのは,それがラディカルに新しいことによるのではなく,そのメディアが過去のメディアを相対化することによって,いままで自明の前提になって意識さえされていなかったメディアの存在とその働きが顕在化されることによるものなのです. マクルーハンに倣って言えば,新しいメディアについて考えることは,即座にバックミラー(=過去)を凝視する作業でもあります.その行為は,未来についての想像であるだけではなく,過去の検証でもあるようなものなのです.


もし森の中で木が倒れても,その様子を誰かがiPhoneで撮影して,すぐにTumblrやFacebook,Flickr,Google Reader,Instagram,Twitter,Deliciousにアップロードしなかったとしたら,その木は本当に存在するといえるんだろうか?
答え:その写真が10個以上「いいね!」をもらい,5回以上リブログされ,2RT以上されたときだけ.

これは2012年にパーカー・イトー*2 がアーティスト・トークの中で行なった『天国の季節——ポストインターネットを生きる』という朗読の一節です.「アーティストではなく,アートを作るインターネットのヒップスター」を自称するイトーによるこの一節は,2000年代後半から2010年代前半のブログ・カルチャーや,TumblrやInstagramといった「ヒップな」SNS時代の幕開けを感じさせる軽妙なジョークですが,2021年の今読み返してみると,現在のアテンション・エコノミー註2 のグロテスクさをシニカルに描いたもののようにも感じられます.

イトーの作品には,ICCで開催された「[インターネット アート これから]」 で展示された《インターネット史上最も悪名高き女性》(2010–12)もそうですが,ある種の軽薄さがあります.それは,90年代以前のネット・アーティストたちが,テクノロジーの危険性を常に意識しながら,企業に専有されたサーヴィスや商品化されたツールと徹底的に距離をとっていたことと極めて対照的です.トークの中でも言及されますが,イトーを含むポストインターネット・アートの実践者たちは,しばしばこうした90年代以前のネット・アーティストたちと比較されて,「ハッキングvsデフォルト」の対立から説明されます.90年代以前のネット・アーティストたちが,洗練されたテクノロジーにかんする知識をもってして技術を自らのものとしようとした(=ハッキング)のに対して,ポスト・インターネットのアーティストたちは,AdobeやMicrosoftといった大企業が開発したソフトウェアやウェブ・サーヴィスをそのまま用いる(=デフォルト)ことを厭いません.GAFAのような企業によるテクノロジーの専有に抵抗するのではなく,むしろそれらを積極的に受け入れながら芸術活動を行なうのがポスト・インターネットの特徴である,ということです.

しかしそれは,必ずしもそうした大企業に徹底して従属するということでもありません.ポスト・インターネット・アートにおいて試みられているのは,こうした企業によってお膳立てされたツールやサーヴィスを徹底的に無邪気に使ってみせることによって,それらのテクノロジーの性質や機能を前景化し,それによってこうしたツールやサーヴィスに対してユーザの立場から批評を実践することだといえます.『天国の季節——ポスト・インターネットを生きる』の軽妙さとグロテスクさは,この逆説的な戦略,すなわち徹底的に無邪気でいることによって,その批評を実践しようとすることにあるのです.

SNSの空間が高度に政治化されている現在の社会状況を考えると,こうした軽薄さや無邪気さをそのまま受け入れることは難しいですが,現実の社会に深く浸透し,企業による専有化されたインターネットにおいて,いかにしてアートをやっていくかを試みたポスト・インターネット・アーティストの実践は,感染症対策のためにインターネットへの撤退戦を強いられている現在の文化状況に対して,別な可能性を考えるきっかけを与えてくれるものでもあるでしょう.


マクルーハンが指摘するように,私たちは多くの場合,新しいメディアをそれ以前のメディアとの類比によって理解していますが,こうした類比が機能するためには,当のメディアが正常に機能している必要があります.私たちが自動車を「馬無し馬車」の類比のもとに理解することができるのは,それがいずれも移動のための道具であるという前提によるものであり,ひとたびそれが機能不全に陥って修理の対象となれば,自動車と馬車は全く異なるものとしてたちあらわれるからです.テクノロジーは,その不調によって自らの性質を顕わにするのです.

ucnv*3 は,2014年のこのトークの中で「グリッチ」とよばれる,音声や画像などのデジタル・データが何らかの理由で破損することによって発生する現象について語っています.ucnvによれば,「グリッチ」というのは油が燃えるとか雷が落ちるといったような自然現象のようなものであり,それ自体展示できるようなものではないといいます.グリッチの重要な点は,グリッチによって発生した画像がどうであるかというよりも,あるデジタル・データが破損するという現象自体にあり,実際のところグリッチした画像それ自体はただの画像にすぎないからです.

トークの中でも議論されているように,表示もコピーも問題なく行なえている時点で,グリッチによって発生した画像データは,すくなくともコンピュータによる処理のうえでは,通常のデータとなんの違いもありません.もし本当にデータが破損していたら,そのデータを表示することはできないからです.この意味で,グリッチとはつねに,元データとの差分において見いだされるものであり,データの状態を示すものではありません.コンピュータは,そのデータがグリッチによって発生したものであろうとなかろうと,全く変わらずデータをコピーし表示します.グリッチをエラーだと解釈しているのは人間の側なのです.

グリッチの現象が明らかにしているのは,この解釈の不一致,すなわち技術的に画像データだとされているものと,私たちが画像データだと考えているものの不一致です.グリッチは,機械にとってはエラーではないが人間にとってはエラーだと認識されるという境界的な存在として提示されることによって,画像データの形式それ自体の性質を提示するのです.


オーラ・サッツ*4 は,弾丸の挙動について解析する弾道学という学問において,弾道計算のためのデータ処理が,主に安価な労働力として調達された女性たちによって担われていたという事実や,1946年にアメリカ陸軍が開発した最初期のコンピュータENIACのプログラミングに女性が従事していたという事実をもとに《銃弾と弾痕のあいだ》(2015)という作品を制作しています.サッツによれば,コンピュータとはもともと「計算が得意な人」という意味の単語であり,機械化されたコンピュータの誕生以前においては,コンピュータとは人間,さらにいえばこうした女性たちのことを指していたのだといいます.サッツはまた,別の作品のなかで電話交換手についても言及していますが,これら共通して現われているのが,発射点と着弾点,発信者と受信者といった2つの点を接続する媒介者(=メディア)としての女性労働者たちの姿です.

《銃弾と弾痕のあいだ》では,弾丸と弾痕を交互に高速に表示することによってその間の軌跡の不在が強調されており,《Dial Tone Operator》(2014)や《Dial Tone Drone》註3 (2014)では逆に,電話交換手の声やダイヤルトーンが要素として用いられることによって,発信者と受信者をつなぐ交換局の存在が強調されています.発射点と着弾点という2つの既知の(=可視的な)データから算出される不可視の弾道と,それを処理するコンピュータとしての女性たちの姿とを重ね合わせ,電話交換手の声を,発信者と受信者を仲介する道具ではなく,それ自体音楽的な要素として前景化させるサッツの作品は,そうしたメディア環境において不可視化されていた女性たちの姿を顕在化させる作業だといえるでしょう.サッツによるこれらの作品は,コンピュータや電話といった技術のあり方をメディア考古学的に示すものであると同時に,そうしたメディア環境において不可視化されていた人々に光を当てるものでもあるのです.

こうしたサッツの作品を経由して考えると,ucnvのグリッチについてのリサーチにも異なる側面が見えてきます.これらはともに,メディアというかたちで透明化され不可視化されたものを顕在化させ,再検証する作業なのです.


青柳菜摘*5 のトークは,こうした「不可視のもの」を別の角度から考えるヒントを与えています.このトークは,同年の「オープン・スペース 2019 別の見方で」(2019)に展示された《彼女の権利——フランケンシュタインによるトルコ人,あるいは現代のプロメテウス》(2019)についてのものなのですが,ここでの青柳による語りは,トークの中で本人が述べているように,作品を説明するというよりも,作品と並行する別な物語として展開されており,ある意味でトークの形式に擬態したパフォーマンスのような様相を呈しています.

青柳はトークの中で,19世紀初頭の英国で起こった「ラッダイト運動」という,自動織機による失職を恐れた労働者たちによる機械破壊運動のシンボル的存在であるネッド・ラッド(Ned LUDD)が架空の人物であったことや,18世紀末に生み出された「ターク(=トルコ人)」という名の機械仕掛けのチェス指し人形が,実際にはキャビネットの中に隠れた人間によって操作されていたという事実について言及しています.実在しないにも関わらず労働者たちを決死の覚悟で運動へと向かわせたネッド・ラッドや,機械を機能させるために自らの存在を隠したチェス・プレイヤーの存在は,「いないはずなのに,いる」存在と,いないことにされている存在というふたつの不可視性として提示されています.それは,人間的な基盤を一切持たないにもかかわらず人称的に扱われる人工知能のような存在や,コンピュータで処理するのが難しい作業を不特定多数の人間に行わせるAmazon Mechanical Turk(機械仕掛けのトルコ人!)のようなサーヴィスに組み込まれた(=機械のなかに隠された)人々の隠喩でもあるでしょう.

メディア技術によって生み出されたり,そこへ組み込まれたりすることによって,人間とも機械ともつかない境界的な存在として扱われる「不可視のもの」たちは,青柳の語りにおいて,作品のタイトルにもあるように,フランケンシュタインの怪物として現われてきます.フランケンシュタインへの問い,機械でも人間でもない彼はいかなる存在なのかという問いは,ネッド・ラッドや「ターク」のキャビネットのなかに隠れていたチェス・プレイヤー,そして弾道計算に従事した「コンピュータ」たちや電話交換手を経由して,私たちへも差し向けられます.フランケンシュタインの怪物がおぞましいのは,単に彼がテクノロジーによって生み出された異形であるからとか,テクノロジーに組み込まれて不可視化されているからといった理由からではありません.それは,この怪物が,現在のメディア環境に依存し,組み込まれている私たちの姿を思い起こさせるからです.青柳の作品において投げかけられているのは,このようなメディア環境において私たち人間とははたしていかなるものでありうるのかという問いなのです.


おわりに

おそらく私たちは今まで,新しいソフトウェアやウェブ・サーヴィスがリリースされたとき,私たちの生活やコミュニケーションの様態がどのように変わりうるだろうか,これらの技術的な革新はなんだろうか,といった前向きな姿勢でそれらに向き合ってきたように思います.しかし,私を含む多くの人たちがこの1年間従事することになったのは,さまざまなメディアを用いて,いかにこれまでの生活やコミュニケーションを維持し,変化を最小限におさえるかという後ろ向きの実践だったのではないでしょうか.オンラインの会議やシンポジウムに参加するたび,これらが必ずしも会議やシンポジウムといった既存の形式に則っている必要性がないということを頭では理解しつつも,議事録の作成と提出が必要であるというような制度や,聴衆がアクセスしやすい形式である必要があるといった慣習的な問題がつねに立ち上がり,それらとの折衝のなかで物事が決定されていきます.

こうした状況は,いかなるメディア技術もそれ単体では機能せず,既存の制度や社会的な関係のなかに組み込まれているということを示しています.バックミラーに映った現在は,フレームを介して過去と隣接しているのです.このように考えるとき,私たちをめぐるメディア環境がどのように変わりうるのかといった問いはすぐさま,いままで私たちを取り巻いてきたメディア環境は果たしてどういうものであったのだろうかという,私たちの経験の基盤を問い直す作業へとつながっていきます.それは,現在との比較によって過去のおぞましさに直面することであり,不調を通じてその仕組へと漸近する作業であり,過程を内挿する実践であり,不可視化されたものたちを眼差す試みなのです.私たちには振り返って未来を直接見ることはできませんが,メディアにかんするこれらの実践は,私たちのバックミラーとして,現代を見通す手がかりを与えてくれることでしょう.


[註1]^ 『メディアはマッサージである:影響の目録(河出文庫)』
著:マーシャル・マクルーハン,クエンティン・フィオーレ,訳:門林岳史,河出書房新社,2015年,75-76頁

[註2]^ アテンション・エコノミー
インターネットの普及により情報の流通量が増大することによって,相対的に人々の関心の希少性が高まり,関心や注目それ自体が貨幣に変わる経済的価値をもつという考え方.アメリカの社会学者マイケル・ゴールドハーバーが提唱した.現在ではより広義に,実質的な商品や情報の内容ではなく,そこに向けられる関心が商品や情報の価値を決定づけている社会状況のことを指す.(The Attention Economy and the Net, Michael H. Goldhaber, 1997, https://firstmonday.org/ojs/index.php/fm/article/view/519/440 [2021年3月アクセス])

[註3]^ 《Dial Tone Operator》《Dial Tone Drone》
https://www.iamanagram.com/DialToneOperator.php

プロフィール・ページへのリンク
*1 ^ スラヴォイ・ジジェク
https://www.ntticc.or.jp/ja/archive/participants/slavoj-zizek/
*2 ^ パーカー・イトー
https://www.ntticc.or.jp/ja/archive/participants/parker-ito/
*3 ^ ucnv
https://www.ntticc.or.jp/ja/archive/participants/ucnv/
*4 ^ オーラ・サッツ
https://www.ntticc.or.jp/ja/archive/participants/aura-satz/
*5 ^ 青柳菜摘
https://www.ntticc.or.jp/ja/archive/participants/aoyagi-natsumi/

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