HIVEのすゝめ|HIVE 101: Introduction to ICC’s Video Archive

Vol. 16

青柳菜摘 AOYAGI Natsumi

1990年東京都生まれ.ある虫や身近な人,植物,景観に至るまであらゆるものの成長過程を観察する上で,記録メディアや固有の媒体に捉われずにいかに表現することが可能か.リサーチやフィールドワークを重ねながら,作者である自身の見ているものがそのまま表れているように経験させる手段と,観者がその不可能性に気づくことを主題として取り組んでいる.2016年東京藝術大学大学院映像研究科メディア映像専攻修了.近年の活動に,第10回恵比寿映像祭(東京都写真美術館,2018),《家の友のための暦物語》(「ものかたりのまえとあと」,SCOOL,2018),《彼女の権利——フランケンシュタインによるトルコ人,あるいは現代のプロメテウス》(「オープン・スペース 2019 別の見方で」,ICC,2019),「TWO PRIVATE ROOMS – 往復朗読」(2020–)など.また書籍に『孵化日記2011年5月』(thoasa publishing,2016),小説『フジミ楼蜂』(『ことばと』vol.3,書肆侃侃房,2021)がある.プラクティショナー・コレクティヴであるコ本や honkbooks主宰.「だつお」というアーティスト名でも活動.


鍵のついた白い家

私が初めてICCを訪れたのは,おそらく1995年だ(編集註:ICC開館以前,プレ活動を行なっていた当時,南麻布にあったICCギャラリーのこと).おそらく,というのは,そのころ私はまだ5つの年で,記憶があまり定かではない.朧気に残っている記憶をすこしずつ明かしていく.見てないはずのことも,思い出していく.当時のことを思い返すわけではないけれど,こういうかたくるしい書き方じゃなくてちいさいときにみてたようにかいてみる.どうやってしゃべってたかわすれたけど.おとうさんがいこうっていうから,きた.アイ・シー・シーに.まだでんしゃも子ども料金だった.ひとりででかけるのは,いえのちかくだけだから,やすみのひにどこかへつれていってもらうのがたのしみだった.それか,いえにあるパソコンでカラオケをしたり,パソコンとパソコンをインターネットでつないでえをかいたり,シーディーロムのゲームであそんだりもした.しろい.白いかべ.ここと,ここも,へやがある.くらいへやだけど白いとわかる.あちらこちらにいってはもどってきて,くぎられた「ハコ」に絵がうつしだされる.思い出してくるのは,かろうじて浮かぶ「函」,その中にあるハート,みゃくうつ心臓,こまかくおもいだそうとするとすぐわからなくなる.白い壁にしきられたへやには,ちいさな函がある.心臓がある.5歳のわたしにはそれしか思い出せなかったが,その函はいま思い返すとコインロッカーじゃないかと思う.中学に上がるちょうど手前まで,年に何度かはICCに訪れていた.だからこの時期の活動記録を眺めていると断片的な記憶が蘇ってくる.言葉の拙い子どもにとって,作品がもつヴィジュアルという要素は,いつかの創造の糧となる.


コインロッカーのハート

ここからはおそらく,作品を観たときの記憶ではない.函には扉がついている.もちろん扉も白く,ランダムにパタパタと開閉する.そう,函はたくさんあって壁を埋め尽くしている.正面の壁,右,左の壁,開かない扉もあるが,中は空洞だとわかる.開く扉の中にはなにも入っていないが,向こう側,が入っている.絵,が映っている.これは記憶から辿ったとみせかけていま自分が思い浮かべているイメージだが,絵,は映像である.扉が開くと,向こう側,の映像が見える.そこでカウントダウンが始まる,
3,
2,
1,
次,
になにが映るかはわからないし,扉が閉まることもある.映像の中に映る扉がさらに開くこともある.コインロッカーは誰でも開けられるが,一旦施錠されてしまうと一定期間は誰かの占有部分となる.鍵を,その函のパスポートを持っているものだけが,開けられる.誰もが開けられるときは,なにもないときだけであるはずだ.なにもないというのはなにも見えないということで,目に見えないならば,ない,と同義だ.扉が開くということは,中がからっぽだということだ.中がからっぽだということは,誰も占有していない,が,不在,ではない.誰もが扉を開けることができる.函は占有されていようといまいと誰しもの場所である.いつ誰がくるかわからない,洞窟であり,管理体制が付属的なシステムである限り,定期的にアルコール消毒される場所でもない.


藤幡正樹*2 《グローバル・インテリア・プロジェクト》(1995),《Geometric Love》(1987),《Forbidden Fruits「禁断の果実」》(1990)

《グローバル・インテリア・プロジェクト》は,ICC開館前,1995年に開催された NTT インターコミュニケーション’95「on the Web —ネットワークの中のミュージアム—」で発表された.会場はスパイラル,P3 art and environment,ICCギャラリー,そしてインターネットの4箇所だ.作品を構成する「インタースペース・キューブ」と「マトリクス・キューブズ」2種類の装置があり,インターネット以外の3会場全てに「インタースペース・キューブ」,スパイラルには48個からなる「扉付き」キューブで作られている「マトリクス・キューブズ」が設置された.私はこれらの会場のうち,ICCギャラリーにしか訪れていない.

目の前はまっくらだ.
底なし沼に手を突っ込むような
空虚な旅が始まる.
ある時は幾何学を中心とした
数学によりどころを求め
光学あるいは物理,そして美学をさまよい
時としてエロティシズムに頼りながら
この洞窟探検は続くのだ.
奇怪な受け入れがたいものに出会い
そして我々は驚く.
時々はその完全さに呆れながら
そこに繰り広げられた
出来事の断片を拾い集めてくるのだ.
藤幡正樹「「形」をめぐる架空の洞窟」
『Forbidden Fruits:藤幡正樹作品集』(リブロポート,1991)所収

虚像プリンタ

わたしが操作しているコンピュータの中には,画面に示されているような情報の実体はない.ないけれど見える.見えないのに目の前にあってしまう.実体がないものから造作する3Dプリンタは情報を実体化する.データ上で結ばれた点と点の位置をそのまま切削する.実体がないコンピュータから,実体を生み出し,データがテーブルの上に現われる.うちの実家にも3Dプリンタがきた.インターネットに落ちているデータを片っ端からプリントしていく.フィラメントを積層させる方式であるため,完成すると内側の仕組みが見えないものまでつくれてしまう.ただし,精度がいまいちのため,いちいち調整をしてやらなきゃならない.データから生まれた実体を手に持ち,やすりがけをしてパーツの隙間を調整する.部屋を舞う粉塵がモヤになって画面を曇らせる.実体すら不明瞭な輪郭に映る.


だらしない増幅器

かつて,テレビがあった.テレビは欲望の増幅器として,経済を生み出し,人の身体を増幅させていった.「そう,これがほしい!」と人は思い,モノという実体を買いに売り場へ走る.広告だとわかりながら,それを良し悪しとする判断を常に迫られた.おかげで,映像を見る,ということの能力が格段に上がった.わたしはカット編集されたシーンが分断された時間だと驚くことはないし,画面の向こうにいる幽霊がこちらへ迫ってきても身を案じることはない.暴力も暴力を肯定する表現だとは思わない.という思い込みを育ててきた.テレビは「身体」の増幅器であり,コンピュータが「自己」の増幅器だとしたら,スマホは「だらしない」増幅器となった.すべてをだらしなくさせ,わたしの「身体」,わたし自身も,「声」も.「だらしない実体」を隠すため函にしまってくれる.おかげで白い扉に守られたわたしの実体は,3Dプリンタで出力した知恵の輪の削りカスで見えなくなり,身体の動かし方をも忘れてしまう.


ユングフラウの月

展示タイトルは庄野英二『ユングフラウの月』に由来する.「童話」,子どもに向けた話とは言い難いこの本で描かれるのは,動物たちの会話であり,イニシャルだけのさまざまな人物,日本と,海外の各所,一箇所にはとどまらないいくつかの童話だ.それが,一冊の中でコロコロと変わる.動物同士が話していたとおもったら,語り手はただ登山をしている.英二の弟である小説家・庄野潤三は日常の風景の合間にラジオの声のように「お話し」を挿入するが,英二は「お話し」を全体に膨らませた中に現実的な「童話」を潜ませる.「ユングフラウの月」に登場する画家・Sは,「音」として「絵」を奏でるすずえり*4 /鈴木英倫子*5 だったのかもしれない.アーティスト・トークのあとにおこなわれたライヴでは,イトケン*6と共にトイピアノを奏でる.トイピアノの鍵盤が楽器/ボタンとなり,音は世界観を切り替えるスイッチになる.スクリーンには,弦が伸びるはずの場所が「函」になったピアノが映し出され,猫が整列して函の中からこちらを向く.


ホワイトハウス

1980年代,ニューヨークでは倉庫街に芸術家たちが住み着き,制作してはディスコへ通い,展覧会のオープニングがあると集ってはパーティーをしていた.その代表的な場が,磯崎新が手掛けたディスコ,パラディアムである.古い映画館を改装し,最新鋭の装置をここぞとばかりに設えたパラディアムは,映像の光とニュー・ペインティングが見下ろす.ここで作られているのはきらびやかで誰もが楽しめるような単なる函ではなく,「都市セレブ」を作り出す装置なのである.場所は人を選ぶ.誰もが「ここに行けば誰かに会える」と願う密やかな場所は,実は誰しも平等に与えられた機会ではない.訪れる当人自体が装置と化す,芸術家を含めたその場がパラディアムであったのだと思う.そうすると自然と浮き上がってくるのが新宿ホワイトハウスの存在だ.吉村益信のアトリエとして磯崎新が初めて設計したとされる.ネオ・ダダの拠点となった.名前の通り,白い函の中では有象無象の芸術家たちが常に事件を起こしていた.2013年頃にはカフェアリエとして改装され,2019年までは静謐な時間が過ぎ,そして再び,Chim↑Pomの卯城竜太,アーティストの涌井智仁,ナオ ナカムラの中村奈央が運営する「WHITEHOUSE註1」として始動した.パスポートを購入した会員しか入れない.特権的で,都市セレブを思わせる仕組みは,新型コロナウイルスの流行で爆発的に増えたインターネットという実体のない空間での作品の漏出と真逆である.

子どもは特権的なように見えて,多くの「鍵」を持たない.とくに今は,近所にしか出かけられず,目に入った欲しい物をねだることもできず,スマホの画面をタップするだけの世界にのめり込んでしまう.そこに現われる実体のないヴィジュアルは,20数年後にどのような朧気な記憶となるだろうか.映像として残っていく記録は,記憶の中に残る「実体」と同一ではない.だからこそなんとしてでも,実体である人間の特権を取り戻し,わずかな記憶をつくる手立てを考えなければならない.


[註1]^ WHITEHOUSE
https://7768697465686f757365.com/

プロフィール・ページへのリンク
*1 ^ KOSUGI+ANDO
https://www.ntticc.or.jp/ja/archive/participants/kosugi-ando/
*2 ^ 藤幡正樹
https://www.ntticc.or.jp/ja/archive/participants/fujihata-masaki/
*3 ^ デリック・ド・ケルクホヴ
https://www.ntticc.or.jp/ja/archive/participants/derrick-de-kerckhove/
*4 ^ すずえり
https://www.ntticc.or.jp/ja/archive/participants/suzueri/
*5 ^ 鈴木英倫子
https://www.ntticc.or.jp/ja/archive/participants/suzuki-elico/
*6 ^ イトケン
https://www.ntticc.or.jp/ja/archive/participants/itoken/
*7 ^ 磯崎新
https://www.ntticc.or.jp/ja/archive/participants/isozaki-arata/
*8 ^ 松井茂
https://www.ntticc.or.jp/ja/archive/participants/matsui-shigeru/
*9 ^ 宇川直宏
https://www.ntticc.or.jp/ja/archive/participants/ukawa-naohiro/
*10 ^ ヴィヴィアン佐藤
https://www.ntticc.or.jp/ja/archive/participants/vivienne-sato/

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