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Photo courtesy: The Newark Museum, New Jersey, USA |
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写真:高山幸三 |
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ホイットマンは,1950年代後期から60年代初期にかけて,最初期の重要なミクストメディア・パフォーマンスを制作した一人であり,重要なハプニングも行なった.初期から使われていた投影イメージは,《アメリカン・ムーン》(1960年)などの古典的パフォーマンスにおいてスーパー8フィルムのプロジェクションとなった.本作品は,1962—64年に制作された4編の「フィルム・スカルプチャー」グループ[《ウィンドウ》(1963年)《シャワー》《シンク》(ともに1964年)]に属する.ホイットマンは,日常の仕草を主題とし,フィルム・イメージとそれと関連する物理的な仕掛けとが融合された視覚的な詩を求めた.その点でジョージ・シーガルの彫刻とも近づいている. 《ドレッシング・テーブル》は,投影イメージを映画専用のスクリーンから彫刻のメディウムとして使用した最初期の作品の一つであった.映像中にパフォーマ−の化粧の仕草を見るとき,観客は作品の【演劇的/るび:シアトリカル】な構造に窃視者として組み込まれ,同時に,とり散らかった化粧台が映像の中で使われていたものである事実に気づく[*1]. 1968年のシカゴ現代美術館における本作を含む同グループ4点の展示の際には,各作品に関係する四曲を彼自身が歌って1枚のレコードをつくった.ただし,それはベル電話研究所によって発明された装置によって音声の質を変えられたものであった[*2]. 作品制作当時のホイットマンの関心は,時間と光学であり,古い映画のイメージとシンプルなテクノロジーを用いて「魔術」,「幻影」,「神秘」の創造が可能であると考えていた.「シアターについてもっとも私に関心を抱かせるものは,時間の流れである.私にとって時間は素材的なものだ.(中略)それは他の自然的な出来事を描写することを可能にする.(中略)描写は,経験という言葉で行なわれるのである」[*3]. ホイットマンは,作品を一つの環境であるとして,シアター・ワークでは,パフォーマーと観客を包み込む環境を入念に構成した.そこは人々が望めば,自由に参加できる劇場的環境や状況であり,1960-61年に彼の行なったハプニングと軌を一にしていた.重要な点は,観客自身が自分の経験の責任を引き受けることであり,それは大阪万博のペプシ館に行列する観客に対する指針とも響き合っていた.「群衆のコントロールはしない」「人々を人間として扱おう.彼ら自身に考えさせ責任をもたせればいい.列に並びたいのなら並ばせよう.しかし,彼らが待っているあいだもできるかぎり面白くしよう」[*4].あたかも「不思議の国のアリス」のように,迷い込んだ訪問者が突然,道を発見するような神秘的な場所をホイットマンは,「作品(=一つの環境)」と呼んだのである. [上神田敬]
*1──ニューアーク美術館(ニュージャージー州)のホームページを参照 *2──Chrissie Iles, Into the Light: The Projected Image in American Art, 1964-1977, (New York: Whiteney Museum of American Art, 2001), 86. *3──Robert Whitman, "The Night Time Sky: A Statement", rewritten from a recorded interview by Michael Kirby and Richard Svhchner, eds., Tulane Drama Review, XX, (winter 1965), 134, In Norma Loewen, Experiments in Art and Technology: A Descriptive History of the Organization (Ph.D. diss., New York University, 1975), 14. *4──Nino Lindgren, "Into the Collaboration", ed. Billy Kluver, Julie Martin, Barbara Rose, Pavilion by Experiments in Art and Technology, (New York: E. P. Dutton & Co., Inc., 1972), 14.
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