ICC





はじめに
入場料
参加作家
第一週「テクノロジーと音・音楽」




第一回「音の科学 歴史から未来へ」
第二回「聞こえの世界はいかに創られるか」「聴こえは世界と身体をいかに創るか」
第三回「自動演奏, 合奏システム, 演奏の表情付け, 音楽的な意図の理解」「音楽史の視点からみた自動作曲」
第四回「新しい音合成ツールOtkinshiとその音楽 への応用」「音楽とテクノロジーとの関わりに於ける新 しい音響の追求」
第五回「Otkinshi参加型ワークショップ」
第二週「音楽・テクノロジー・作曲と演奏空間」




第一回「ナンカロウを通して考える西洋音楽と日本の僕ら」
第二回「演奏,聴取,テクノロジー」
第三回「即興と音楽を体験する空間」
第四回「このワークショップで演奏される作品の分析」
第五回「記録媒体と時間芸術の体験」
第三週「コンピュータ・ミュージッ ク・コンサート&パーティ ー」




第一回「演奏される音楽」
第二回「記述される音楽」
第三回「コンサート&パーティー」
 
1999年1月19-23日・2月7-12日・2月18,20,21日 [終了しました.] 4階ロビー,カフェ,ギャラリーD





関連イヴェント


第二回
 Algorithmic composition
 「演奏,聴取,テクノロジー」

日時:1999年2月 9日(火)19:00 〜 21:00 [終了しました.]
会場:4階ロビー,カフェ,ギャラリーD

佐近田展康

ゲスト:佐近田展康, 高橋アキ
演奏:高橋アキ
コンサート&パーティー: I. クセナキス Mists,または,Herma 一柳慧 ピアノメディア 三輪眞弘「東の唄」

2nd day: Algorithmic composition
「演奏,聴取,テクノロジー」

技術とよばれる人間の営みは,どんな時代であれどんな文 化であれ,必ずある.けれども,いまぼくたちがテクノロ ジーと呼んでいる技術の在り方は,歴史上ほんのわずかな 期間に,極めて限られた地域(つまり18世紀のヨーロッ パ)で立ち上がり,それ以後たちまち世界中に広がってい った「特殊な」技術の在り方だ.面白いのは,これと前後 してヨーロッパでは,学問,政治,経済,宗教,日常生活 等々,生活のあらゆる領域(もちろん音楽も例外ではな い!)で,同じような「特殊な」変化が起こり,いわゆる 「近代」という文明が誕生することになる.これらを掘り 下げていくと奥深くにおぼろげながら共通した何かが見え て来る,それを「機械をめぐる信仰」と呼びたい.

世界を機械だと捉えてみよう.そう,デカルト風に.人工 的・物理的な機械だけでなく,社会制度も,思考も,生命 もみんな機械なんだと.こんな話しは,使い古されたSFの モチーフならいざ知らず,今は流行らない.が,しかし, こう言い換えたらどうだろうか?社会,身体,精神,生命 等は,ひとつのコミュニケーション・システムであり,わ れわれはそのスナップショットを形式的な構造として抽出 することができると.別に奇異には聞こえないだろう.

さて,これらシステム,構造,体系,形式といった抽象 は,いったい何だろうか? これらはみな多様な観点から眺 められた「機械」なるものの別称ではなかったか? 西欧的 ロゴスと呼ばれる知の営みは,まさにあらゆる対象のなか に機械を見い出し,機械のごとく論理的に思考し,その結 果を機械のごとき体系的な理論として紙のうえに書き連 ね,さらに機械を作り出し,現実の世界を機械で満たして いく一連の行為だと考えば分かりやすい.であれば,この ロゴスは現代でも生きている.「世界は機械である」とい う主張は,流行らないかもしれないが,ちゃんと生きてい る.

機械をシステム,構造,体系,組織,形式等々と言い換え ようが,とにかくシステマティックなものを世界から抽出 できるためには,実際に世界がシステマティックものとし て最初から作られているという論証不可能な想定から始め ざるを得ない.なぜ世界はシステマティックなのか? なぜ 正しい論理的思考がこの世に存在し,それは機械のごとく 作動するものでなければならないのか? それは問われるも のではなく,信じられるものなのだ.つまり,信仰だ. 「世界は機械である」という主張は,以上のことをあから さまに述べた「機械をめぐる信仰」の告白に他ならない.

機械をめぐる信仰は,その背後に究極の美としての機械に 魅せられた情動を伴っている.矛盾のない合理的体系,個 人を超越した普遍的システム,夾雑物をいっさい含まない 純粋な形式,すなわち機械のイデアは,それ自体が美であ る.この美意識がなければ,西欧的ロゴスはひとつの文明 にまで成熟するほど,自己を追求できなかっただろう.精 緻を極めた対位法,透明な数学の体系,冗長さを含まない 美しいソフトウェアの構造,これらはみな機械の美に魅せ られた精神が作り上げた機械イデアのさまざまな表現なの だ.

機械イデアが発露する仕方には2通りある.つまり機械の 美に魅せられた人間が,それを表現する方法は2つあるわ けだ.ひとつは,文字どおり物質的な機械としてそれを組 み立てること.もうひとつはテクストとして紙のうえに機 械を組み立てることだ.歴史的には前者がテクノロジーと なり,後者が科学となる.どちらにも共通しているのは, 機械/テクストは,それが生み出された瞬間に,作者から 切り離され,無限に再生産が可能であること.それが,つ ねに他の機械/テクストと連結し,無限に引用されるとい うこと.したがって,機械/テクストは個人を超越し,時 間や場所を超越する普遍的なものだということ.だからこ そ,作者が自分とその作品をつなぎ止めておくためには, 署名,著作権,特許権といった外部の規範の力を借りずに はおれないのだ.

機械とテクストの区別,すなわちテクノロジーと科学の境 界は,いま曖昧になっている.しかし,現代の基軸である コンピュータが,機械/テクストが合体したものだとする なら,曖昧になってきている理由も理解できる.コンピュ ータとは,現段階で最も機械イデアそのものに近付いた機 械なのだ.それは,どんな目的にも奉仕し役立つものとし て,逆に目的やユーティリティの観念を無化している.不 思議なことはない,機械は本来そのようなものとは無縁の 存在だったはずである.

18世紀のヨーロッパ精神が取り憑かれた機械イデアは,そ れに先行する時計への異常な執着の中で熟成されたものだ った.中世からルネサンスまでの技術的な英知,高度な手 仕事の技は,すべて時計の制作と技術改良に向けられてい たと言っても過言でない.時計はまず教会の大規模なから くり時計として発達し,ついで市庁舎や市の門に据えら れ,権威の象徴,神によって作られた宇宙や世界の象徴と して不正確な時を刻み始める.その後,時計は小型化し富 裕な市民にも普及していくわけだが,この時計が与えた影 響は計り知れない.西欧的ロゴスを特徴付ける機械への偏 愛は,すべてこの時計をモデルとし,その一点から放射さ れている.分析と総合という科学の方法は,時計の分解と 組み立てに他ならず,世界が機械であるという時の機械と は時計のことなのだ.

重要なのは,この過程を通じて,時計は決して実利的な道 具として認識されてはいなかったということ.つまり,機 械とは,役に立つ手段などではなく,神,占星術,宇宙の 不思議と結びついた,それ自体が神秘的でまがまがしい魔 術的な存在として長い間作動し続けていたのだ.純粋な体 系性,個人を超越する普遍性,永遠の再生可能性,これら を美と捉える態度の源泉には機械のまがまがしさがある.
いままで機械について述べてきたことを,音楽の領域にそ のまま当てはめることは,困難ではないだろう. ヨーロッパの音楽伝統は,楽譜というテクストと,ピアノ という機械の上で,まさに機械/テクストとしての「作 品」を産出する歴史的なプロセスだ.これが,ヨーロッパ の音楽を,他の音楽文化に類を見ない特殊な伝統に仕立て てきたポイントになる.

和声的,対位法的な音楽は,何もヨーロッパにだけ見られ るものではない.しかし,機械イデアに魅せられ,矛盾な き体系性の美に達するテクノロジーとして,和声法や対位 法を問題にしたのは,唯一ヨーロッパだけなのだ.こうし て機械/テクストとしての音楽作品と,それを産出する作 曲家を中心にした「作曲中心主義」と呼ばれる特殊な音楽 伝統が生まれることになる.

純正律に含まれれる非合理性を均質な単位に合理化した平均律,機能和声に含まれる目的論の残り香を解体した12音 技法,音現象を完全に等価なパラメータに還元したトータ ルセリー主義,これらすべての過程が,機械の本質にした がって方向付けられており,機械としての音楽作品を純化 していく過程だと見ることができるだろう.そして,近年 のアルゴリズミック・コンポジションは,コンピュータに おいて機械とテクストが合体したのと軌を一にして,いよ いよ音楽作品がテクスト上の機械という地位を超克して, 本来の機械として作動する段階に到達したことを示してい るとは言えないだろうか.

しかし,ヨーロッパの音楽伝統には,もうひとつ忘れては ならない系譜がある. それは機械ではなく,道具と身体を 使う技術の系譜である.ヨーロッパ音楽は,音楽にまつわ るすべてのものを機械のごとく合理化しようとしてきた. しかし,唯一演奏という領域だけは合理化できなかった. ピアノがいくら機械として合理性の極みを求めて進化して も,ピアニストの系譜は,口承の伝統に属しているのだ. パスカルが自分の発明した計算機と自分とをつなぎ止める 究極の手立てとして,「この機械は口頭によってでしか伝 えることができない」と言ったのは示唆的だ.声や手,顔 は機械と対立する存在であり,世界に個人を刻印する.機 械はいつでも,どこでも,誰のもとでも同じように作動す ることを本質とする.しかし,声や手,顔は,いまここに 特定の人間が存在するアウラの証しであり,機械への根源 的な抵抗なのだ.
さて,これから音楽家は何を問題としていくのだろうか?
ひとつの儀式を想像してほしい.

本来機械が持っていたはずのまがまがしさを,現代におい て取り戻す儀式だ.そこにある機械は,儀式の中で初めて 作動しはじめる.そして儀式の司祭は,取り替えのきかな いアウラをもった存在として,その名において,機械から 美を抽出して見せる,そんな一回性の儀式を.

佐近田展康