ICC





はじめに
入場料
参加作家
第一週「テクノロジーと音・音楽」




第一回「音の科学 歴史から未来へ」
第二回「聞こえの世界はいかに創られるか」「聴こえは世界と身体をいかに創るか」
第三回「自動演奏, 合奏システム, 演奏の表情付け, 音楽的な意図の理解」「音楽史の視点からみた自動作曲」
第四回「新しい音合成ツールOtkinshiとその音楽 への応用」「音楽とテクノロジーとの関わりに於ける新 しい音響の追求」
第五回「Otkinshi参加型ワークショップ」
第二週「音楽・テクノロジー・作曲と演奏空間」




第一回「ナンカロウを通して考える西洋音楽と日本の僕ら」
第二回「演奏,聴取,テクノロジー」
第三回「即興と音楽を体験する空間」
第四回「このワークショップで演奏される作品の分析」
第五回「記録媒体と時間芸術の体験」
第三週「コンピュータ・ミュージッ ク・コンサート&パーティ ー」




第一回「演奏される音楽」
第二回「記述される音楽」
第三回「コンサート&パーティー」
 
1999年1月19-23日・2月7-12日・2月18,20,21日 [終了しました.] 4階ロビー,カフェ,ギャラリーD





第一週 テクノロジーと音・音楽


第二回
 「聞こえの世界はいかに創られるか」
柏野 牧夫
 「聴こえは世界と身体をいかに創るか」
伊東 乾

日時:1999年1月20日 (水) 19:00 〜 21:00 [終了しました.]
会場:4階ロビー,カフェ,ギャラリーD


「聞こえの世界はいかに創られるか」

すこし前にヒットした恐竜映画があった.立派な音響設備 を備えた劇場で鑑賞して,相当のスリルや恐怖感を体験し た方も多いに違いない.しかし,あの背後から迫り来る地 響きのような足音や,恐竜の咆哮などが一切なかったらど うだろう.臨場感はたちまち消え失せ,よくできた特撮を 客観的に眺めている自分に気付かれることであろう.聴覚 の最も基本的な役割は,自分がいまどういう状況に置かれ ているか,どこで何が起きているかを把握して,適切な行 動を導くことである.狭い範囲の精査に適した視覚と異な り,聴覚は常時・全方向に開かれている.しかも,ひとた び異変が察知されれば,それは直ちに緊張・弛緩,昂揚・ 鎮静といった身体的な反応へと結びつく.したがって,聴 取者を取り囲む場のリアリティは,実は視覚よりも聴覚に よるところが大きいのである.ともすると記号的側面のみ が取り上げられがちな言語音声や音楽にしても,その本質 はこのような聴覚の特性抜きには論じられない.

では,リアルな聞こえの世界は,どのようにして創り出さ れるのであろうか.音が耳に届いてから,聞こえが成立す るまでの情報処理の過程は,音を単に受容し記録するマイ クやテープレコーダのようなものとは根本的に異なる.む しろ,新聞記者が膨大な断片的事実を取材し,時には脚色 も加えつつ適宜編集して一貫した記事を仕上げる過程とよ く似ている.このような無意識の編集作業の結果,聴取者 の意識に上る聞こえの世界は,耳に入力された音の物理的 特性とは単純に対応しないものとなる.講演の中で実演す る通り,同じ音が文脈によっては全く別に聞こえたり,物 理的には存在しない音が存在するかのように聞こえたりす る.このような音の物理的特性と聞こえとの乖離を空耳と 呼ぶならば,聞こえの世界は空耳に満ちている.

しかし,こうした空耳は,単なる処理の錯誤ではない.そ れどころか,絶え間なく変化する環境の中で,刻々と入っ てくる大量の情報を効率よく安定して処理し,状況に即し た適切な行動を可能にするための脳の戦略の現れなのであ る.脳は,さまざまなスケールで環境と相互作用しなが ら,ダイナミックに音の情報を処理していく.こうして得 られた,耳に届いた音の最も確度の高い解釈が,聞こえの 世界に他ならない. 聞こえの世界を創り出す脳の戦略を理 解することは,脳科学,知覚科学の枠内にとどまらず,哲 学,技術,芸術など広い範囲への示唆をもたらす.本講演 では,作曲家・指揮者の伊東乾氏をゲストとしてお招き し,とくに音楽との関わりについて,実践を踏まえてお話 ししていただく.リアリティを構成する不可欠の要因であ る身体の問題についても言及される.

柏野牧夫


「聴こえは世界と身体をいかに創るか」

初めは,少し別の角度から考えてみる.

画家のパウル・クレーは,自宅では暇さえあれは室内を片 している掃除魔だったという.身の回りの片づけや小物の 整理の性癖.そんな逸話が彼がバウハウスで展開した精緻 な理論構成を想起させる…? これを少し視点を換えて,ジ ェームズ. J.ギブソンの提唱した生態光学,アフォーダンス に代表される行為の認知科学の視点を援用して解釈してみ よう.ギブソンは「自己」の受容器を身体の外部に措定す る.あなたが「いま・此処」で見ている世界,その世界像 によってのみ,あなたの視覚的意識という知覚現象は定位 される.目を瞑れば外界の視的世界像は取り敢えずは消え る.見ること,それによって視覚的自己が時々刻々に定ま り,更新されて行く.ギブソンはセルフを身体の内部に切 断するデカルト的世界観に背を向け,身体,行為が世界と 関わり合うことで出来事としての私,現象としてのあなた が立ち現れ続けることを主張する.

セルフあるいは自我が,身体と関わりあう環境世界の像と して瞬間瞬間に構成されるものであると考えるとき,食卓 を片づけるクレーはその行為を通じて一面セルフ=自らの世 界像を構成し直していたと言えるかもしれない.少なくと も彼の作品,砂糖など食品までをも含む破天荒な画材や, 平面性をとうに逸脱した在り様と対峙すれば,掃除魔クレ ーが世界を何と見ていたか,想像を逞しくしたくなるので はなかろうか.なんとなれば,世界が分節され,同時に身 体〜自己も分節されて,作品という世界の劈開面が顕れる と思われるからである.我知らず,クレーの身体はそんな 生活と仕事 の営みを獲得したのだろう…「我知らず」,意 識にそれと気づかれる以前の行為,気付きに先立つ身体の 営みが重要である.このことを,以下では音と身体に関し て考えてみたいと思う.

クレーがバウ・ハウスで教鞭を執った1920年代は,ラジオ 放送などを通じて生活環境へ音声マスメディアが導入され た時期でもある.それらを通じ人々の耳の生活の中に,従 来と全く異なった音や声がもたらされ始めた.史家は,も しラジオ放送やニュース映画等が無かったら,20世紀前半 の人類史にファシズムの創発は見られなかったと指摘する (*1).掃除魔クレーも家の中に土足で乱入してくる音の訪 問者,ラジオなどの音声メディアの音を「片づけ」たと思 われる.

先に「我知らず」と書いた.意識現象を中枢神経系の生理 学から観るとき耳からもたらされる情報の取り扱いが,い ささか面倒な事実に注意したい.外耳道から鼓膜,耳小骨 を通じて蝸牛にもたらされた音情報はそこでアナログ・デ ィジタル変換され,蝸牛神経以上では神経発火のインパル スとして中枢系へ上向伝達されると理解されている.この 信号は延髄などを経た後,「悟性の場」とされる領域(た とえば前頭葉連合野)に導かれるが,それ以前に,信号は 扁桃体など,内分泌系と直結した中継核に入力されてしま う.このことは,意識より先に「体が変化してしまう」こ とを意味する.具体的に考えよう.すぐ真後ろで爆発音が すれば,多くの人間は《それが何か》などと考える以前, まず「反射的に」逃げたり伏せたりするはずである.別の 例を挙げるなら,文字づらで見ればどんなに素晴らしい言 葉でも,それを怒鳴り声で聴かされるなら,まず「怒鳴ら れている」ことが理性に先だって知覚され,情動回路その 他が先に発動し始める.耳は二重に無防備である.一つは 目のように瞼を閉じることができないこと,遮断の自由を 持たないという意味で.いま一つは,いま耳にしている音 を理性的に分析しようとする瞬間には,すでに身体はその 音によって内側から変化させられた後であるという意味 で.音にあっては意識の「気付き」は必ず行為に遅れる.

私たちは,音や行為に関して「気付きが走る」あるいは意 識が立ち上がるより以前に,環境に導かれて既にある音や 声に,とりわけ注意しなくてはならない.最晩年のクレー は身体の自由を失い,台所のテーブルで膨大な数のデッサ ンを遺した.仕事の合間にクレーはラジオ放送を聞いたと いうが,スイスでも受信可能なナチス・ドイツの公営放送 ーーゲッベルスらの仕掛けた「退廃美術展」と同様の情報 戦略に基づくアジテーションーーはクレーの耳にどのよう に届いたか,あるいは届かなかったかは興味あるところで ある.

私たちは自らを取り囲む世界によって「我知らず」つまり 不可避的に自らの意識する以前,身体から先に調律されて しまう.時に人は,そんな「祭りの後」に何かに気づくこ とがある.ハンナ・アーレントは「アイヒマンについて問 題となるのは,彼が倒錯者でもサディストでもなく,驚く ほど正常で,私たちと同じであるということなのだ」と記 した.後から気づくこと,充分な緩和時間を経てから気づ くことは難しいことではない.問題は行為のさなかにあっ て,私たちの意識が何に目を留めるかということではない のか.ラジオ放送とファシズムの創発は過去の寓話に過ぎ ないのか.

1933年と99年と,ヒトの身体の遺伝,器質的特徴にどん な変化があったと言えるのか.実際90年代以後でも,アル ジェリアやルワンダの内戦など,音声の関わるメディアが 私たちの内なる暴力を励起して,我知らず「行為」へと駆 り立てる例には枚挙のいとまがない.先のギブソンの立場 からは,そのように導かれる音,響きの現象が環境として の自己を定位して,意識は気づかぬまま身体が行為へと導 かれて行くことになるのである.本質的に言語で「語り得 ない」そんな行為が,パフォーマティヴな一つの問題系を 自ら紡ぎ出す.私自身の仕事では,昨年はマース・カニン グハム舞踊団とのコラボレーション「オーシャン」でこの 問題を正面から扱った.NTT基礎研究所およびICCの協力 を得て1999年1月28,28両日に行われる大野一雄+磯崎 新+一柳慧+筆者のイヴェント「テロスを消去…1999」で は,作曲家は作曲できず,建築家は建築設計できず,舞踏 家を含めた身体が「結界ゲーム」の可変ルールに縛られ, あるいは縛られずに,既に与えられた時空間を身体をもっ ていかに引き受けるかという,問題の一つの核心を正面か ら取り扱おうとするものである.このような身体〜身体と 音楽〜時空間の問題への「動力学的な」アプローチは,そ の緒についたばかりの段階にある*2).

本日は,このような視点に関わって制作した幾つかの具体 例(テレヴィ放送などで実際にオンエアされているものを 含む)のデモを含めた話題を準備しています.

*1) 例えば吉見俊哉「声の資本主義」 講談社 1994 及び 同書記載の文献を参照. *2) 伊東 乾「音楽-均衡から流れへ(仮)」青土社 (Music as Dynamical System, Faber & Faber, London, UK. in preparation. ) (刊行準備中.学位論文を改めたもの.)
伊東乾