ICC
ICC メタバース・プロジェクト
Vol.7市川創太×松川昌平 [メール対談]「建築とメタバース」(中編) 聞き手:畠中実(ICC学芸員)
第11信:松川昌平

 多数意見のアヴェレージ,民主主義的なプロセス,人気投票など.僕自身は,これらを強調したつもりは全くなくて,これらのプロセスを経て建物が作られるべきだとも考えていません.むしろ,主観的な感性や経験,ユーザー固有のプロファイリングなども含めて,次への創作のためのシミュレーション・データのひとつとして等価に扱いたいと思っているのです.「等価に扱いたい」という僕の意識と「もっとも対極に置いておきたい」という市川さんの意識の相対的なズレによって,結果的に,民主主義的なプロセスなどが浮かびあがったことは,両者の差異性として興味深いですね.市川さんは第2信で「インスタレーションCiSの現ヴァージョンでは,環境情報だけを頼りに作ってみる」と同時に「人間からの要求を入力できるようにすることも,アイディアとしては持っています」と書かれていました.僕は人間からの要求も環境の一部として捉えたいと思っています.
 前述したAARの「都市2.0」(第3信の[※03]参照)においても,マルチバース化した都市像を,「わたしの都市像」と「あなたの都市像」,それらを重ね合わせた「みんなの都市像」,そして「実際の都市像」というふうに,様々な都市像を自在に渡り歩くことができるようなシステムとして描写しました.そこでも強調したように,各都市像の確率を重ね合わせた「みんなの都市像」を実現したいと思っているわけではないのです.量子力学における波動関数のように,可能態が現実態となるための確率分布はシミュレーション・データとしては有意義です.しかし確率が高いものだけが実現するわけではない.ロングテール部分にある可能態も実現し得る.

 本来自由であるはずのメタバースがユニバースと連動するということは,ユニバースの劣化コピーに留まってしまうことではない.時間軸のツマミを回してみたり,膨大な回数のシミュレーションを繰り返したり,群衆の集合的無意識が可視化されたり,メタバースだからこそ実現できる各種シミュレーションの可能性を否定も肯定もせずにまずは拓いておきたい.メタバース上のそのようなシミュレーション・プロセスを等価に並べることが,作り手と使い手両者のリテラシーを高め,建築の分野においても「学習の高速道路」(『ウェブ進化論』梅田望夫著/ちくま新書,2006)を少しずつ整備していくことになるのではないでしょうか.

 これは「人間の側が変われるのか」という問題についても関連します.「なめらかな複眼」から「Super Eye」そして《CiS》に到るまで,市川さんに通底する問題意識ですね.「architectural body」や電気自動車の例のいずれにおいても,すべての人間が「変わらなければならない」という状況を実空間に作ってしまうのは,僕にはちょっと窮屈に感じます.変わることもできるけれども変わらないこともできるという選択の間を動的に行き来することによって,少しずつリテラシーを上げていくことができるということこそ,メタバースの特性なのだと考えます.その上で実空間も人間も漸進的に変わっていけばいいのだと思っています.

 もう少し具体的な話に戻しますと,僕が,「建築プロパーではない人も設計プロセスに関わることができる」とか「ユーザーも切断できる」という場合,端的に言えば,建築の可能性がメタバース上にカタログ化されていることを想定しています.細かな実装は置いておいて今あるWebサービスで例えると,Google MapやGoogle Earth上のある敷地に建つ予定の建物が,Amazonのサイトで商品として並んでいるような状態です.いわばメタバース上の建売ですね.

 メタバース上に建売を構築するコストは限りなくゼロに近づいていくでしょうから,現実空間の建売と比較して,多くの建築の可能性をストックできます.もちろん,クリアしなければいけない技術的な問題はたくさんあるし,どれも簡単な問題ではない.物理シミュレーションによって,どの建物もエンジニアリング的なスペックを満たすことはできるのか? あるいはヴィジュアライゼーションによって,誰でもその可能性を見ることができるのか? さらにヴァーチャル・リアリティによって,その空間性を身体的に体験することができるのか? などなど.しかし大きな流れとして,メタバース上に建売の建築が構築されるような方向に向かうのは,たとえ僕がやらなくとも時間の問題のように思えます.

 確かに公共建築のように不特定多数の人が関わる建物においては,市川さんが仰るように「切断や凝固こそ建築家・専門家によって」なされるべきでしょう(少なくとも今のところは).しかし住宅のように,その建物を使うユーザーがあらかじめ決まっているような場合においては,そのユーザー自身がカタログ化された建築の可能性の中から切断していい.もちろん,その切断は従来の意味でのデザインではない.Amazonの商品棚からひとつの本を選ぶのも,ユニクロのWebサイトから服をひとつ選ぶのもデザインではないのと一緒です.その意味で「ユーザーも切断できる」.そして,その切断の結果が,別のユーザーの切断に対して影響を及ぼすという意味で,「建築プロパーではない人も設計プロセスに関わることができる」.このような状況においては,その選択(切断)された結果が残念かどうかは,設計者の側からは判断できないのは明らかです.

 「切断」や「凝固」が意味する状態は,二段階あると思いますが,(1)メタバース上に生成された建築の可能態の中からひとつの可能態を選択するという意味での切断も,(2)選択された建築の可能態を,現実態の建物として実空間に落とし込むという意味での切断においても,残念なのかどうかは,切断の仕方や切断の結果に問題があるのではない.むしろ残念な切断も行なえてしまうシステムの側に,そしてそのシステムを設計した建築家に問題があると考えるべきなのではないでしょうか.

 もしも市川さんが,切断される個別の建物にこそ,建築家としての作家性が現われるのだと考えているとすれば,クリストファー・アレグザンダーが「盈進学園東野高校」[※16]を設計した時のような厄介な問題に直面するような気がしています.個別の建物を見る限りにおいては,「パタン・ランゲージ」というシステムから切断された建物と,主体的な建築家の「感性と経験」によって作られた建物との差異が分からなくなるという問題.さらにCiSにおいては,不断に環境を観測し続ける動的なシステムから個別の建物が切断されてしまうと,結局は動的な環境から切断されてしまうという矛盾をどう考えるのかという問題.先の(2)の切断においてデジタルファブリケーションが普及したとしても,現在の枯れたマテリアルでは静止せざるを得ない.市川さんは「プロセス」と「凝固」を別々に考えざるを得ないと書かれていましたが,これらの関係性こそ,僕も,そして読者も最も興味のあるところではないかと思います.

 誤解を恐れずに言えば,僕の挑戦は,切断の仕方や切断の結果に建築家として署名するのではなく,システムの構築自体に署名することができるだろうかということです.市川さんがメタバースを建築の可能性の墓場,ジャンク場と表現されたのは非常に興味深い.しかし僕の視点から見れば,メタバース上のシステムこそが動的な建築なのであって,システムから切断された建物は,(あえて過剰な表現をすると)システムから代謝された排泄物と言えるかもしれません.

 「ヒラルディ邸」や「バラガン自邸」は,確かに素晴らしい.しかしアノニマスな民家やハウスメーカーの住宅に多くの人が価値を求めるのもまた事実です.どちらに価値があるのかと問うこと自体が間違っているような気がします.僕の関心は,ヒラルディ邸とハウスメーカーの住宅などを,同じシステムから生成された異なる現われとみなすことができるだろうかということに向いています.両者の同一性を探ることが,同時に両者の差異性を浮かびあがらせるのではないでしょうか.「Topological Grid」は,一見全く異なる建物の背後にある同一性を可視化するシステムでもあります.
 そしてこのことは,市川さんが,CiSの現ヴァージョンを「洞窟や木の枝に使えそうな空間を見出して,居住したり社会活動を行なったりする,というようなこと」と仰るのと,ある意味では同じようなことなのではないかと思っています.洞窟は自然の物理システムによって生成されるけれども,人間が居住しやすい洞窟をあらかじめ狙って生成したわけではない.同様に,「Topological Grid」においても,建物として成立しない不可能性を排除しながら,まずは多様な可能性を動的に産出し続けます.ビラルディ邸を素晴らしいと思うような価値をあらかじめシステムに組み込むのではなく,その可能性の中から観測者が事後的に意味を発見するのです.それはつまり「建築の可能性を生成するシステム」と「建築の可能性を淘汰するシステム」に他ならない.

 有限のカタログの中からひとつを選択するのはユーザーでもできる.カタログの数が膨大だったときにどのように選択するかというデザインは,確かに無限に専門分化していくでしょう.しかし,そのカタログ以外の可能性を発見し,その可能性をまたカタログ化するのは,建築設計としてのアーキテクチャと情報設計としてのアーキテクチャのどちらにも精通していないとできない.
 僕がオートクチュールのように特別な建築を設計するのは,その個別の建築を作るためなのはもちろんですが,まだカタログ化されていない可能性を探索するためだとも言えます.そして同時にそれぞれの特殊解に通底するような法則性を探りたい.それはまた,可能性を淘汰するための評価基準を洗練することにも繋がるでしょう.「同じシステムをキープ」するのではなく,システム自体も漸進的に進化させていきたいと思っています.




[※16]盈進学園(えいしんがくえん)東野高校:埼玉県入間市にある男女共学の全日制私立高等学校.1985年に竣工した校舎の設計をクリストファー・アレグザンダーが担当.おりしも建築界の注目を集めていた「パタン・ランゲージ」を実際の建築設計に踏襲したことで,さらなる話題をよんだ. http://www.higasino.ed.jp/