ICC
ICC メタバース・プロジェクト
Vol.7市川創太×松川昌平 [メール対談]「建築とメタバース」(中編) 聞き手:畠中実(ICC学芸員)
第10信:市川創太

 残念な結果であるかどうかは設計者,あるいはそのシステムを稼動させたオペレータの立場からでしか認識しにくい.そうだとしても(自分で書いておきながらですが)凝固や切断が残念な結果であってはいけないでしょう.可能性を保っていることは,確かにリッチです.決めなくて良い,変数として保っていられる,ということはある意味楽です.しかし,捨てられないというありがちな状況,そのような決められない(決まらない)という状況はネガティヴに感じます.淘汰(selection)はそもそも,捨てるというより選抜するという意味が強い.量子コンピュータによって全ての可能性を保持できる前提とすればまた違ったヴィジョンになるのかもしれませんが,選抜や収束・凝固を経て,次の作動に入ることをしなければ,オートポイエーシス的なシステムを体現できないのではないでしょうか.そうでなければシステムが自己言及することもできないように思います.

 オートポイエーシスに関しては,dNA側で特に意識していたものではありませんでしたが,色々なところでCorporaについてレクチャーした際に,あるいはプロジェクトの感想として意見をもらう機会に,度々その概念が例に挙げられました.Corporaの特にプロセス的な側面,CiSなどのインスタレーションで,プロセスが入力と出力の関係だけ決定されていないという点,連続作動によって成立しているという点などの説明として,その概念がよく挙がります.自分が正しく理解をしているかはいささか不安ですが,オートポイエーティックマシン,あるいはオートポイエーシスはとても興味深く,そして深淵です.
 松川さんが,オートポイエーシス的,システムが自己言及できるシステムを作ろうとしていることはとても興味深いし,ぜひ開発を継続・成功させてほしいと思います.その上で気になる点は,こういったシステムに対し,第三者(クライアントかもしれないし計画説明を受ける周辺住民かもしれません)から,入力に対してはっきりとした出力を求められないでしょうか.彼らはなんらかの問題を解決してくれる万能関数のようなものを期待しているように思えます.松川さんはなるべくこのような設計プロセスをオープンにしようとしているように感じますが,オートポイエーシスの作動や継続の関係を彼らに理解してもらえるでしょうか.最低でもそれを見せることができるでしょうか.

 もう一点は,そのシステムの使い方の展望は,はたして建築設計を一般化する方向なのでしょうか.建築プロパーでない,一般の人が設計に参加できる,という件を指しますが,誰もが使えるテクノロジーとして予想外(以上)の創発を期待するというのは,わかります.“Without Central Architects”の指すところの一形態として,一般参加を許容する設計・計画ということですね.それによって民主主義的なプロセスを経て建物を決定することができるかもしれません.

 しかしながら,建築家はそれほど公正な立場にいなければならないのでしょうか.

 自分としては切断や凝固こそ建築家・専門家によってなされてほしいと思ってしまいます.実際それは非常に難しい判断を要求されるでしょう.そうだとしてもratingすなわち投票システムのようなものによって切断されるのは,あまりに残念な気がします.Amazonなどにみられるレビューや商品に関する口コミ情報は大いに役に立ちますし,体験者の意見に耳を傾けるという点で,自分もそのratingシステムの恩恵にあずかっています.しかしこれから立ち上がるものに対して,未体験,未知のものに対して有効でしょうか.自分としては,多数意見のアヴェレージというものはもっとも対極に置いておきたいものです.実際に,鋭い先見性の上で対象を評価できる目というのは,とても少ないんです.そしてそれは特殊な少数意見の中に埋もれていることが多い.大衆の選ぶものってロクなものはないし,一般論から抽出できるものにイノヴェーションは皆無でしょう.
 「統計が語るものは大きい」ということは事実ですし,様々な分野で立証・実装されています.Amazonなどのデータマイニング,レコメンド機能などの身近なものをはじめ,現代のプロファイリング技術はかなりのものでしょう.あるクライアントがいたとして,その人が個人的に買ったもの,視聴したものをプロファイルすることでクライアントの感じるかっこよさとか心地よさ,というものを抽出できるのではないでしょうか.それほどSF的なヴィジョンではなく,かなり現実的な線として.おかしな感じもしますが,建築の設計に入る前に,精神鑑定テストのようなものを受けるとか.プロファイリングしていくということは統計・データマイニングの可能性として大きいと考えますが,人気投票的なものには質を感じません.

 メキシコ出張中に,ルイス・バラガン[※14]の設計した家,を2つ見ました.あまり時間がなかったので,「ヒラルディ邸」(遺作)と「バラガン自邸」というメジャーな選択だったのですが,どちらもすばらしいものでした.住むためのダイアグラムと空間構成,光,がそのまま建物になっていて,とても知的な操作であるという印象を受けました.それらは非常に特異な選択の上に成り立っているように思えます.「Topological Grid」的なもので,あのような空間の可能性を生成・淘汰していくことはできるかもしれません(できるように感じます)が,はたして,最終的にあのような形で切断されるか(される可能性はあるか),というところは相当難しいように感じます.建築プロパーでない人が,建築を選ぶ眼がない,と言っているのではありません.むしろ逆の場合もあり,建築家が気づかないところまで指摘できる(あるいは全く別の視点で評価できる)人だっています.ですが,満遍なく他者をシステムに取り込むことが見える形で結果に現われない場合,かえって他者が排除されているように見えないでしょうか.

 松川さんに対する勝手な思い込みですが,プロジェクトのために専用のソフトウェアまで開発し,究極の一点もの,車で言えば,特注デザインのスーパーカーのような建物を設計してくれる建築家.実際かなり特異なスキルとヴィジョンによって,松川さんにしかできない設計がある.「AlgorithmicSpace[ Hair_Salon ]」などでそれは明らかです.それなのに(それゆえに?),むしろ一般化を成し遂げる方向にベクトルが向いているのでしょうか?
 「Topological Grid」のようなシステムが,建築家だけのものであってしかるべし,とは思っていませんが,一般化するためには,いずれシステムに一般の人が参加するためのインターフェイスも必要でしょうし,専門的なリテラシーを取り払うための新しい言語も必要です.それは言葉というよりは,感覚的に扱えるなんらかの表記方法かもしれません.一方,プログラミングの経験があれば,lowレヴェルでカスタマイズがしたくなる,というのと同様で,細かくカスタマイズしたい人もいるでしょう.数値入力したい人もいるはずです.結局広いレンジで使用可能な言語が必要になる.そしてより巧妙にカスタマイズできるほど良いものができる,ということになったら,またそこに専門性が生まれる.これには終わりがありません.

 建築にはもちろん社会性があり,多くの人を納得させる必要があります.計画を説得するために議論で勝つことも必要な場面もありますので,設計作動を行なう(あるいはサポートする)システムは,その解説のためのツールでもあり,それはそのまま設計のツールでもある,ということは理解します.それとも建築家が振りかざす高尚な概念にウンザリする,とか,頭ごなしなデザインの押しつけ,といった声に対する反面教師でしょうか.あるいは,自分ならではのユニークさは出せるけども,それは前時代的な不遜な建築家像として受け入れがたい,といったようなアンビヴァレントな気持ちから来るのでしょうか.これは建築家としてのステートメント的なことに関わるのかもしれませんが,素朴に聞いてみたい質問ですね.

 システム展開の展望についてですが,同じシステムが切断するものが数千にものぼっていくにしたがって……と聞くと恐ろしいような気がしますが,システム自体が自己評価して,あるいはシステムの設計者が新たな要素を加え改良し続けることで,多様性を保ち,システムが生き続ける,と想像・解釈します.これまでCiSをシリーズのインスタレーションとして各地でインストールしてきた経験から言うと,やはりどんどん改良したいし,パラメータの設定に対するアイディアも膨らんでくる.作り手として,果たして同じシステムをキープできるのか,ということは常に疑問です.もちろん一過性,その場限りのシステムを作るよりは,長い使用を考慮した方が意義がありますが,システムが使われていく上でシステム自体の切断が行なわれるのかもしれませんね.
 出力されるものが多様性を保ちながらも,必ずしもランダムではなくある種の意味ありげな「何か」が浮かび上がらせる,例えて言えば,スティーブン・ウォルフラムが見つけた一次元のセル・オートマトンにおけるクラス4のようなものを期待する,ということですよね.分かるような気もしますが,正直……気が遠くなります.多様性の中の法則が,出力が純粋でない(色々なマテリアル作られる)建物に現われるのは,かなり微妙だと思いますが,直接人がその法則を感じなくとも,何らかその場所の時間・空間を再構成していて,ゆっくりと人が変わっていく,という意図なのでしょうか.いずれにしても実験場としてのメタバースにいったんシステムを築くというのは正しい方向かもしれません.

 メタバースがある種実験場にとどまってしまったとしても,その果てに様々な野心的な案の墓場になる.墓場というと聞こえが悪いのでジャンク場とでも言いましょうか.建築家が一生懸命考えたものを簡単にジャンク場に放り込むか,っていうとなかなかそういう気持ちにもならないかもしれない.だから捨てる=即パブリックドメインとしないまでも,クリエイティブ・コモンズのような使用方法に関するタグをつけて,そこ(メタバース)に置いておく.この場合メタバースがある種の公共空間である前提です.
 ジャンク場というのは,見る人が見れば宝の山,ということもありますからね.メタバース上のジャンクを組み合わせて新たな発見をする.新たな創発の場となるかもしれません.あるいは一度捨てられた案が,全く別のコンテクストで復活・実現する可能性もゼロではありません……やはりほぼゼロに近いけど.

 これまでのやり取りであまり触れられていなかった,僕がもっとも気になる点は,果たしてメタバースやそれを前提とした設計システム,コンピューティングにサポートされた知覚によって,人間の側が変われるのか,ということです.
 荒川修作+マドリン・ギンズの作品では,「architectural body」と銘打った身体としての建築を作ろうとしている.極端すぎる例かもしれませんが,中に入るや否や直ちに使用者側が変化せざるを得ない,知覚や身体の使い方の変更を強要されるんです.それは作品の意図が,直ちに効果を発揮するための演出かもしれませんが,確かに瞬間的に変化が起こり,そしてそこに居続けたらどうなるか,ということはとても興味深く思いをめぐらせます.僕の知る限り,まだ結果・結論が出ていませんが,箱が変わったのではなくて,人間側を変える箱(変えることを意図した箱)という点は,ものすごいインパクトです.

 先週モスクワで行なわれていた「Lexus Hybrid Art」[※15]というイヴェントに参加していました.dNAも展示のインストールのためにCorporaプロジェクトのコア・メンバーが集まりました.Hybridカーにちなんで,プラグインカー,電気自動車の話題になったのですが,これらの車,エンジン音がしないということが,歩行者等にとって危ないということで,そのために車に付帯させる新たなサウンドのデザインを行なっているチームがあるとか,ないとか.その場にいたメンバーは,「せっかく音が消えたのに,わざわざ付加するのか」と懐疑的な意見でした.
 エンジン音のしない静かな車,テクノロジーの副産物ではありますが,なんともすばらしい,都市を革命的に変容させる要素だと思います.もちろん静かに近寄る高速の移動物体は,当然危険ですが,それに対して人間の方が変わるべきだと思います.通行者も運転者も.とりあえず別の音をつけるという付け焼刃な対応ではなく,車に対する認識自体を変えること.注意の方法,視覚が使えない人に対する再認識,そのためのデバイスの発明など, クリアしなければならない問題,過渡期における混乱はたくさん予想されますが,人の側が変わってこそ,という気がしています.




[※14]ルイス・バラガン・モルフィン(Luis BARRAGAN MORFIN,1902-88):メキシコ人の建築家・都市計画家.水面や光を取り入れた,明るい壁面を特徴とする住宅や庭園の設計で知られる.その設計の大半は,バラガンの手によるイメージスケッチを元にアシスタントらが実際の図面を描いたという.ここで触れられている「バラガン自邸」(1947-48)と遺作の「ヒラルディ邸」(1975)は,いずれもバラガンの代表作. [※15]「Lexus Hybrid Art」:会期:2010年4月2日—4日.http://www.hybridart.ru/