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ICC メタバース・プロジェクト
Vol.7市川創太×松川昌平 [メール対談]「建築とメタバース」(中編) 進行:畠中実(ICC学芸員)

松川昌平
「Topological Grid」
1第7信:市川創太

 こちらの《Corpora in -Mexico City- Si(gh)te》は,一旦インストールとオープニングを終えました.一日だけ観光する時間を得たので,ちょうどメキシコでも有名なテオティワカン(「神々の都市」の意.http://ja.wikipedia.org/wiki/テオティワカン)というピラミッド遺跡を訪れていた時に,このメールを受け取りました.端末が不便だったので,その場でご返事を書くことができず,日本へ戻る飛行機の中で書いています.書き終わるまでは電源が持たないでしょう(汗).

 この遺跡は世界で三番目に大きいピラミッド・古代都市で,世界遺産に登録されています.ここは当時20万人以上が暮らしていたという(同時期のヨーロッパの最大級都市コンスタンティノープルでも,やっと2万人以上)巨大な都市らしいです.とにかく圧倒的なスケールで神々しいことこのうえないです.宗教と政治がまだ分離されていなかったであろう社会が作り出したこの都市は,儀式などが自動化された巨大な機械とでもいいましょうか.まだ分かっていないことも多いらしいのですが,とても線形数学的というか,なにか明快な意図を感じさせます.かつての80年代的なメタバースで表現しやすいような空間かもしれません.とてもかっこいいのですが,生贄の儀式などのダイアグラムがそのまま建築となっている様子は,寒々しささえ感じました.

>>これまで僕が市川さんの活動にとても共感しながらも,心の奥底で抱いていた疑問が一気に氷解していくようでした.しかしそれは決して見る人の解釈の余地を狭めてしまうようなことではなく,むしろ市川さんの思考を知ることで,作品のより深い可能性を視るためのキッカケとなるような気がしています.

 そういう点でも,このような質問をベースに対談ができることはいい機会であり,私たちの努力不足で伝わっていない部分を補っていただく,とても良い機会であると言えます.やはり展示物としてディスプレイされることが前提のものは,作品の前に5分も立ち止まらない多くの鑑賞者を意識せざるを得ません.そのために意図的に瞬間の変化を大きく見えるように設定することで,表面的にはセンサーからのデータを別の形としてリダイレクトしている単なるデータヴィジュアライズ,もう少し踏み込んで,プロセスを付加したgenerative建築,という捉え方を促してしまっているかもしれません.それらは昨今の流行ですし,もちろんそういう接し方や捉え方もありですが, 空間の読み書き,リテラシーの問題まで意識が及ぶことはとても重要です.

>>市川さんの返答に対する個別の応答もしていきたいのですが,まずは,僕が設定した「メタバース vs ユニバース=情報環境 vs 実環境」という大きすぎる枠組みをお詫びさせてください.(中略)ただ,大きな枠組みで話をするというのはわりと意図的にやっていました.たとえば,ユニバースを観測可能な世界としてしまうと,人間中心的で傲慢なニュアンスを個人的には感じ取ってしまいます.世界は常に我々が感じているよりも豊かでしょうし,我々が観測できない世界も含めた森羅万象をユニバースとしたほうが僕にはしっくりきます.

 なるほど,実際ユニバースの方が,分かっていない仕組や有様が多く,難しい現象を観測するしか術がないような代物で,それを記述することも可能なものとして,自由度の大きいメタバースがある,ということですね.自由であるということは,都合よく作れる,必要に応じてシンプルにも作れる,ということでもありそうですので,あえてそれを構築する意義は大きく感じます.
 やはりユニバースはその語の通り,宇宙そのものであって,その最先端はポアンカレ問題などで議論されたユニバース自体の形状やその果てへの疑問が支配するような,より深遠な印象を持ちます.このレヴェルの話は,なかなか建物までたどり着かなさそうなのですが,畠中さんから提示していただいた「計算可能空間などの現実空間に対する実験場」というのは自由度があり,本来の意義を失なわず,松川さんやdNAの展開を内包してくれそうな感じを受けました.『スノウ・クラッシュ』[※12]からのコンテクストにこだわる必要も,もはやないですね.

>>濱野智史さんが『アーキテクチャの生態系』(NTT出版,2008)のあとがきで,「ネットは社会から逃避する場所なのではなく,むしろ社会空間の原初的な生成という場面に,ナマで遭遇することができる場所だったのです.」と書かれていたことに僕はとても共感します.同様にメタバースも,ユニバースから逃避する場所ではなく,ユニバースの原初的な生成という場面に,ナマで遭遇できる場所であってほしい.

 『アーキテクチャの生態系』は今手元にないのですが,ネット上で「社会空間の原初的な生成」に立ち会うことは十分可能なように思えます.メタバース上で「ユニバースの原初的な生成」に立ち会うことが一般化されるのはとても難しそうで,その点を高いプライオリティに設定することが良いことなのかどうかも分かっていませんでした.でも,多くの人がそれに立ち会えるということが,松川さんやdNAのコンセプトが実物の建物などに降りてきたという結果なのかもしれません.とても高い理想ですが,めざす価値はありそうです.

>>CiSは,『建築家なしの建築』(バーナード・ルドフスキー著/鹿島出版会,1984)にあるような自然発生的な都市を,それでも建築家がどのように生成するのかという矛盾を孕んだ問題に対する,偉大な挑戦のひとつではないかと個人的には思っています.その試行錯誤のプロセスの実験場として正にメタバースが相応しいと思ったのです.(中略)そういう意味では僕も,畠中さんが仰るように,「メタバースを計算可能空間などの現実空間に対する実験場,コンピュテーショナルな空間のようなものと捉えること」に可能性を感じています.つまり,メタバースをユニバースに存在するモノの可能態の集合と捉えてみるということです.

 『建築家なしの建築』“Architecture Without Architects”は,本文中では実際には特に何も論じられてなく,「建築家なき建築」というよりは「無名の建築」と言えるようなものまで,ただただ収録されています.この本は膨大な旅行の実地撮影がほとんどです.しかしそれを全て補う程の強烈なタイトルが,「建築家に見えていない何か」を無言で訴えているような気がします.とても好きな本です.この本に誘われて,トルコ・ギョレメ,モロッコ・カスバ街道,ペルー・モライ,マチュピチュ等は,実際に見に行ってしまいました.
 で,この本が振り下ろした「Without Architects」という厄介な部分への挑戦ですが,建築家を否定するのではなく,建築家という立場から,拙くてもメタバースに計算母体のようなものを設計して,種を植えて育てる,見守ってやる,ということでしょうか.そうすることで確かにメタバースが実験場所として機能し,「Without Architects」とはいかないまでも「Without Central Architects」というステージには行けるかもしれません.

>>ちょっと飛躍するかもしれませんが,例えば,英語で書かれた本の可能態であれば,ホルヘ・ルイス・ボルヘスの「バベルの図書館」をメタバースとして捉えてみるということだと思います.

 バベルの図書館と聞くと「宇宙を封じ込めてある」,記述可能性自体をも巻き込んでいる,観察主体がどのように含まれるのか,何か扱うものが巨大すぎて,建築へのアイディアの元になっていると聞くと,確かに飛躍があるように感じました(個人的には飛躍は必ずしも悪いものではないと思っている上で).「Topological Grid」の資料を構成している図版や出力されたマップを眺めていると,とても科学的なアプローチで,幾何学的な処理や結果に留まらない何かを内包しているように感じます.確かに可能性を封じ込めているという点で,バベルの図書館ですね.
 自分にとっては,gridというものが近代建築を表象するもののように,ある意味越えるべき存在と意気込んでしまっていた節がありますが,あえてgridということ,gridが多くの場合,設計の指針となっていて,設計を導くものであること,などといった点が,このシステムが建築を意識しているという方向に頷けます.
 gridといえども均質ではない,要求に対する価値を含んだ,場面場面で必要な空間の歪みを生み出すようなもの,不可能な部分を動的に排除し,探索マップ・可能性マップとして集合を提示するもの,というように見ました.このような理解で概ね間違っていなければ良いのですが…….
 仕組や目的,期待される結果を理解して,出力されたものを眺めると,とても楽しそうです.このソフトウェアの開発者であれば,破綻しているものがキチンと×になっているかを確認するだけで満足してしまいそうです(笑).より建物に展開できる,そしてそれが意識されたシステムのように見えますし,スタイルやファッションとして語られる多くの建物とは無縁の,強いコアを作れそうです.そしてこれは早く建物になりそうですし,クライアントの説得にも一役買いそうですし,生産性も高いように思えます.

>>「Topological Grid」は,まだまだ発展途上のシステムですが,ありうべき可能性を生成するシステムと,その可能性を淘汰するシステム.その両方のシステムをメタバース上に築いてみたい.そのシステムの進化過程で,2Dが3Dになったり,インターネットに接続したり,各種シミュレーションを行なえたりしたときに,よりメタバースと呼ぶに相応しいシステムになっていければいいと思っています.

 インターネットに接続しなくても,このシステムは設計ツールとして十分面白いような気はします.あえて閉鎖した系で実験を繰り返すことを良しとし,本来のメタバースっぽさを意識しなくても良いような…….

>>お互いに最終的に問題になりそうなところは,市川さんが仰るような「建物などのプロダクションとしての「凝固」」,あるいは磯崎新さんの言葉をお借りすれば,メタバースからユニバースへの「切断」になりそうですね.

 自由度をひとつ落とす,ということを残念な結果として「凝固」とするのか,単なる最適化ではなく,何をもって最適とするかということさえも流動的に扱えるのか,「Topological Grid」で広がっているような可能性マップ,それぞれの可能性を「どうやって視るか」などといったテーマになってきそうです.膨大な可能性を全てチェックできるのか.世界中に設置された監視カメラを一瞬も逃さずに人が見続けることができないように,ソフトウェアのサポートを受けつつ,複数の眼が同時に視ている状況をコントロールする,そのためのautonomous,watch dogのようなものを建築家がさらに設計し使用するのか.

[※12]『スノウ・クラッシュ』:アメリカのSF作家ニール・スティーヴンスン(Neal STEPHENSON)が1992年に発表したポストサイバーパンクSF小説.「メタバース」や「アバター」といった概念を最初に提唱した作品であり,Linden Lab創業者にして元CEOのフィリップ・ローズデールが本書を読み,「セカンドライフ」の構想を思いついたというエピソードも有名.日本語版は日暮雅通訳で,アスキー出版局/1998年→ハヤカワ文庫SF/2001年.