ICC
ICC メタバース・プロジェクト
Vol.7市川創太×松川昌平 [メール対談]「建築とメタバース」(後編) 進行:畠中実(ICC学芸員)

ダブルネガティヴス アーキテクチャー
《Tama Art University Algorithmic Wall》
撮影:和田惠
1第12信:市川創太

>>多数意見のアヴェレージ,民主主義的なプロセス,人気投票など.僕自身は,これらを強調したつもりは全くなくて,これらのプロセスを経て建物が作られるべきだとも考えていません.

 否定していただきたいという淡い期待があり,あえてあのように書きました.すこし意地の悪い書き方だったかもしれません.これまでCiSインスタレーションを各地で展開してきて,様々な意見や感想の中には,「多様な入力情報の許容と処理=民主主義的なプロセス云々……」そのように誤解されるケースは良くあるのです.
 多様なインプットのひとつとして,ratingというのもそのひとつということですね.人々がなぜ評価するのか,ということは分析されるべきですし,むしろそれらはマーケティングという形で,既にデザインのプロセスに取り込まれています.採用するかしないか,どのデータを使うのか,それぞれの影響力をどのように設定するのか,ソースコード自体をオープンにするのか,というところは「建築家≒プログラマー」の意思にゆだねられる.それをユーザーが設定できるようにするかしないか,ということも.つまり様々な情報を入力処理するということが,状況を平等に扱うことと同義ではないということです.

 テクニカルには,多種多様なインプット,定量化できるものであれば,何でも扱えることは確かです.実際にソフトを作って,動かしてみて,いつも思うところは,インプットが多いとアルゴリズムがきちんと動作しているのか分かりづらい,個々の機能をデバッグ,テストしたとしても,多層すると? それは量的な問題だけなのかもしれませんし,当然現時点でのソフトやアルゴリズム,自分のスキルが未熟であることから来ているとは思いますが,できそうで,実際はできていない.それぞれのデータをどのように解釈して,どのように利用するのか,変換するのか,リダイレクトするのか,という部分を抜きにして,データだけを並べても何もならない.全部入れられるけど,ゴミしか出てこない……,こんな場面は共有できる経験だと思います.恐らく松川さんも感じられていることと思いますが,この対談の場では具体的なものがなく,これからやろうとしていることを抽象的に話しているだけなので,空論になりかねない.お互いにここで発言したことに今後の活動が縛られてしまうのは何か嫌ですね.

>>前述したAARの「都市2.0」(第3信の[※03]参照)においても(中略)強調したように,各都市像の確率を重ね合わせた「みんなの都市像」を実現したいと思っているわけではないのです.(中略)変わることもできるけれども変わらないこともできるという選択の間を動的に行き来することによって,少しずつリテラシーを上げていくことができるということこそ,メタバースの特性なのだと考えます.その上で実空間も人間も漸進的に変わっていけばいいのだと思っています.

 コンピュテーションの実験場としてのメタバースの捉え方は,全く異論はありませんし,まさにそうなっていくでしょう.松川さんは新しいテクノロジー,新しい社会的状況,背景を評価し,さらにそれらを積極的に創作に受け入れようとしているように見えます.でもこれから出てくる(出てきそう)なものが人々に与える影響に対して,少し及び腰なのは(というより,他者に優しく慎重なのは)なぜでしょう? それは,松川さん自身とその他大勢というものが別の次元で存在し,同じ集合の中にはいない,ということなのでしょうか?

 自分は「荒療治大歓迎!」というような意識をいつの間にか持っているのかもしれません.前回挙げた例と関連していますが,10年以上前に荒川修作+マドリン・ギンズのプロジェクトにかかわったことがあり,その際にご本人のお話を近くで聞く機会がありました.ご存じの通り,荒川さんは独特のアジテーションを携えて,常に「こうしなければ人間は変わらない!」,「こうしなければ世界を変えられない!」と,その意気込みたるやすごいものがありました.さすがに現代は可能性が多すぎて,ひとつの方向に向かう強いモチヴェーションはないけれど,僕の「荒療治やむなし」といった感覚はそのような鬼気迫った空気にふれてきた影響かもしれません.特にダーウィン進化論を信奉しているわけではありませんが,やはり変化・進化していくものが,世界を生き延びていけるのだと考えます.そして僕らの世代が生きているこのほんの数十年の間でさえ,様々なテクノロジーが人間側を否応なしに変化させてきました.これは窮屈さを感じている暇などなく,人間は驚くほど,あっという間に適応してしまっている.その事実は見逃せないし,自分もその動きの中にいることを強く感じます.そして自分もその変化を見たいと思っています.実際は漸進的に変化に対応しているのかもしれませんが,僕にはそのように大人しいものには見えません.

 「変わる」ということに関しては,松川さんとはちょっと違った認識かもしれません.全ては絶えず変わり続けていると考えます.史実でさえ.モダニズムと非モダニズムを行き来できたり,選択できたりするのではなく,今のコンテクストから作れば,それらは全く別のものです.「再現」は,当時と違う「今」という時間と解釈が含まれているので,別物です.現時点から見た解釈が,歴史に影響を与えますし,現時点からの見方で歴史も変わってしまうんです.
 メタバースに関しては,まだそのように,人間側が変わらざるを得ないような存在にはなっていないと感じます.使い方や使われ方が,予想を超えた現象には至っていない,という状況なのでしょうか.実は建築や情報に精通していて,「このように使ってやろう」といった使い方のヴィジョンを持っている人達とは別の人達,「建築設計としてのアーキテクチャと情報設計としてのアーキテクチャのどちらにも精通していない」人達の間から,思いがけない現象が起こってくるのかもしれません.

>>もう少し具体的な話に戻しますと,僕が,「建築プロパーではない人も設計プロセスに関わることができる」とか「ユーザーも切断できる」と言う場合,端的にいえば,建築の可能性がメタバース上にカタログ化されていることを想定しています.(中略)住宅のように,その建物を使うユーザーがあらかじめ決まっているような場合においては,そのユーザー自身がカタログ化された建築の可能性の中から切断していい.もちろん、その切断は従来の意味でのデザインではない.(中略)そして,その切断の結果が,別のユーザーの切断に対して影響を及ぼすという意味で,「建築プロパーではない人も設計プロセスに関わることができる」.このような状況においては,その選択(切断)された結果が残念かどうかは設計者からは判断できないのは明らかです.

 それはその通りですね.僕はもう少しテクニカルな面で,非建築プロパーな人々の参加,というようなものを想像していました.でも「カタログから選ぶ」ということが「切断」の一種であって,それがプロセスの一部というふうに捉えられるのであれば,現状でも建築プロパーではない人が設計プロセスに十分参加していますし,「カタログから選択する」以上の深いかかわりがあるのではないでしょうか? 実際,むしろ建築家以外の参加者の方が多いです.

 そして市場原理も含めた経済的な振る舞いが,結果的にプロダクションの種類を限定したり,新たな開発を促すということを見れば,カスタマーが商品を選ぶ(切断する)という行為は,実際にはデザインに参加していることになるのかもしれません.「商品を選ぶことがデザインすることではない(〜であってほしくない)」というのは,実は微妙なことかもしれませんよ.システムという言葉でさえ,どの範囲をシステムと呼べるか,設計思想(architecture),デザイン,プロダクション,ファブリケーション,マーケット,カスタマー,マーケットリサーチ(特に広告業界を見れば,市場調査もデザイン作業の重要なプロセスの一部),全て含めて,ひとつのフィードバック・ループシステム,という見方もできますから,これは作り手と受け手,という単純な二項構造ではないのかもしれません.

 全て一元的に記述表現できる,管理しやすいシステムに吸収されて,Google, Amazon,IKEA,UNIQLO,というような大きな流れに積極的に合流していく,大雑把すぎる捉え方ですが,これはとても現代的な考え方ですね.僕にとってはそれがとても愉快なことには感じられませんが,ここは柔軟に変えていくべき意識なのかもしれません.

>>「切断」や「凝固」が意味する状態は,二段階あると思いますが,(中略)個別の建物を見る限りにおいては,「パタン・ランゲージ」というシステムから切断された建物と,主体的な建築家の「感性と経験」によって作られた建物との差異がわからなくなるという問題.さらにCiSにおいては,不断に環境を観測し続ける動的なシステムから個別の建物が切断されてしまうと,結局は動的な環境から切断されてしまうという矛盾をどう考えるのかという問題.(中略)市川さんは「プロセス」と「凝固」を別々に考えざるを得ないと書かれていましたが,これらの関係性こそ,僕も,そして読者も最も興味のあるところではないかと思います.

 「……主体的な建築家の「感性と経験」によって作られた建物との差異がわからなく」なっても良いのではないのでしょうか? そこに顕著な差異を見ることはそれほど重要でしょうか.いや,それこそ比較できるレヴェルまで,コンピューティングやアルゴリズムが作り出したもののレヴェルが上がってきたということでしょう.もちろんそれ以上のものを期待していますが,現時点ではまだまだ未熟で,常に「感性と経験」の上を行っているようには見えません.
 例えば,安藤忠雄さんの作品群を前にすれば,一目でそれとわかるような作家性があり,はっきりしている.建築家固有の言語が行き届いているということです.そしてこれはコンピューティングを介さないまでも,非常に柔軟で強固なアルゴリズムと言えないでしょうか.僕は建物に個別に現われる作家性を否定しません.それは見ていて楽しいものですし,逆にそれが無いとつまらなく感じてしまいます.
 といいつつも残念ながら,自分にはこの辺りがよく見えていなくて,はっきりとしたことは言えません.はっきりと自分としての結果を出していないので,何とも言えないのです.

 またCiSに関しては,少し認識の違いがあるようですね.CiSはあくまでインスタレーションです.環境変化の一瞬一瞬に対してプロセスが結果を出し,その結果に対して自己評価し,また次のプロセスに入っていく. しかし,これから建築物を切り取る,とは考えていません.数ヶ月間に及ぶ,プロセスのアーカイヴを集計して,ひとつの結果に集約する,などといった集積を捉えるために,別のプロセスに投入する,ということが必要で,このインスタレーションの次のステップとして動き始めています.

 そして「凝固」と「プロセス」が別々にならざるを得ない,というのは単に技術的によります.この辺りは説明不足でしたが,僕らのCorporaプロジェクトはセル・オートマトンがベースとなっていますので,同じアルゴリズムを基底とするソフトウェアでも

(1)プロセスそのものをエンドレスに見せる目的なのか,
(2)何らかの条件を満たしそれ以上のプロセスに進めない状態を探す,「game of life」で例えて言えば,Block,Beehive,Loaf,Boat,のような状況を探し当てる,

……という目的によって,まったく性質が違います.Corporaのベースエンジンは同じアルゴリズムで,設定を変えることで(1)も(2)も扱えるようにデザインしてあります.この目的としての二面性は,プロジェクトを立ち上げた時点から認識していたものでした.前者がインスタレーションで展示するもの,後者がなんらかのプロダクションとして変動しないものを作る基となるもの,ということです.後者はあまり結果を出せていませんが,dNAが多摩美術大学情報芸術コースに設計したインテリア・家具《Tama Art University Algorithmic Wall》[※17]は,後者の数少ない実現例です.しかしここでも,それほど多様な入力情報を扱っているわけではありません.非常に簡単な少ない条件から生成されています.最初のブロックにも書きましたが,膨大な情報を扱うことはできそうであるが,それが顕著にアウトプットに表われるのか,という部分には,現時点ではあまりリアリティを感じられないのが,正直なところです.

 セル・オートマトンはTierra project[※18]などを生みましたが,その振る舞いや量をコントロールすることは非常に難しく,いまだに科学者の間でも解明されていない問題なのです.そのような基盤が,本当に建築設計に使えるのか,ということはそれ自体も大きな問題です.

>>誤解を恐れずに言えば,僕の挑戦は,切断の仕方や切断の結果に建築家として署名するのではなく,システムの構築自体に署名することができるだろうかということです.

 松川さんはシステム自体を提供する(第三者に使ってもらう)ということも念頭にあるようですので,それは当然システムに署名すべきでしょう.そして出力されたものに対し「これは××によって出力されました」というサブクレジットがつくべきですね.自分はシステムを提供することはあまり念頭に置いていませんが,システムにも署名するだろうし,出力されたものにも責任を持つと言う意味で署名するでしょう.まあ,署名するかしないかは,単にfameのためだけでなく,作者がそれを自分の作品として誇れるのか,その作品に対して自分が責任を持てるかどうか,というところに左右されてしかるべきですが.
 ソフトウェア(システム)を誰が使うのか,というところは,ソフトウェア・エンジニアリングの観点からは,かなりアーキテクチャが違うように思えます.自分のためだけのソフトか否かというのは,技術的にもコンセプト的にも大きな違いに思えます.いずれの場合もソフトを使いこなすのにそれなりのディシプリンが必要となってきます.

「……そのカタログ以外の可能性を発見し,その可能性をまたカタログ化するのは……」ということは,これまでも脈々と続けられてきたことのように思えます.それがメタバース上に立ち上がるのか,あるいはドローイングとモデルで表わされる計画,建設されて実空間に立ち上がる計画なのか.メタバースの方が,ストアできる情報や閲覧方法に無限の可能性がありそうですが,考え方自体は,手で書いていた図面をCADで描くのと,さして違わないのではないでしょうか.確かに情報アーキテクチャに精通していないとできないかもしれませんけど.

 「カタログに載せるために作る」というのが,どうもモチヴェーションにつながりません.これも,現代の量販システムを作り手側として受け入れきれていないという,自分の状態から来ているのかもしれませんね.松川さんはおそらく「カタログ」という単語をバベルの図書館のような超越的なカタログとして使われているのだと思いますが,「カタログ」という単語が自分に想起させるのは,非常に陳腐でスタティックな収納,というようなものです.もちろん,現在のAmazonなどの商品Webカタログのように,カテゴリや傾向が随時プロファイリングされて,関連項目などにハイパーリンクしているようなものは,とても動的で優れたカタログになり得ます.建物として成立しない不可能性ということ自体,変化するかもしれない.「システムを進化させていく」と述べられていることは,その基準変化にも対応できる,ということだと推測しますが,そうであれば,システム=カタログとなるべきで,わざわざメタバースなる陳列棚に乗せる必要はなさそうに思える.そのシステムこそが全てを包容しているから.単に閲覧性の良し悪しということであるのなら,またそれを見ることの量的な不可能性に行きあたる.

[※17]《Tama Art University Algorithmic Wall》: http://corpora.hu/hu/wp-content/uploads/2008/07/press_kit/algorithmic_wall/ [※18]Tierra project: http://sites.google.com/site/geneuobc/home/uobc-gene/tierra http://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_S._Ray