ICC
ICC メタバース・プロジェクト
池上高志 可能世界としてのメタバース 聞き手:畠中実(ICC学芸員)
特異点にこそ普遍性が認められる

──反アルゴリズムか……つまりアルゴリズムは多様性を作るけれど,そのアルゴリズムだって「ある理想論的な解を導くために決定する」ものだったりする.だから,まるっきり予想もつかなかったり,とんでもない例外を生み出しちゃうようなことはあまりなくて,ある範囲の中にヴァリエーションを作ることを得意とする.だから,人間が手作業でスタディするには限度があるものに対して,もっと数を与えるようなケースには,確かに有効なのかもしれませんが.

池上:一番いい例がコンピュータで,「四色問題を証明せよ」とかね.だから,それ以後の複雑系などのコンピュータ実験は,その拡大にはなっているけれど,アルゴリズミックにすませられないとしたら,どうしたらいいのかは分からない.そういうのは計算可能じゃないから,一個一個,調べていかなければいけない.システマティックに対応できなくなる.
 システマティックに調べることによって見つけられるものもあるし,特異点的なものが普遍的なことを含んでいるということは重要で,たまたま見つかった「変なこと」は普遍的ではないとみんな思いがちだけれど,一個でも変なことがあるんだったら,その変なことはシステムの本質を突いていることがある.だから特異点を見つけるべく…….

──その「特異点」というのは,例えばビッグ・バンじゃないですけれど,もうわけが分からないから,とりあえず収拾をつけるために仮定するというようなもの?

池上:いや,そんなに難しい話じゃなくて,例えば「猫が逆立ちをした」という事実が一回あったとしたら「猫が逆立ちをしたことは,ある」ということです(笑).「それは例外だから関係ない」とみなすのか,それとも「逆立ちする猫もいるんだ」と思うか,そこがけっこう重要な気がする.
 例えば普通の一気圧だったら,0℃で水は凍るけれど,10℃だったら凍らないし,−10℃ならすでに凍っています.この「0℃」という温度にだけ,水が氷に変わるポイントがあるわけじゃないですか.ちょうど0℃なんていうのは,ほとんど見つからないようなことだ.これは例外的で意味がないか? そうではなくて「変わる」点が見つかった,ということが重要なわけです.その「ほとんど起こらないこと」でも,システムの本質を突いていることがある.
 例えば,ダーウィンが世界各地に行って,言わば種の可能世界について調べて,生物の種の進化論を作った.それに対して南方熊楠は,粘菌を一生懸命に調べて,独自の進化論に達した.粘菌って普通にはあまりいないし,そんなものを調べても進化論じゃないんじゃないかというのだけれども,植物でも動物でもない,中間の粘菌をいっぱい調べることによって,その観念が進化して,別の意味の進化論を考えたわけです.
 だから理論を作るために「いっぱい集める」ことが大事なのではなくて,粘菌という特異なケースを調べることによって,生物界全体が分かるということもある.特異的な生物が持っている構造の中にこそ普遍性を見る,ということです.なので「アルゴリズミックにしらみつぶしに」ということと「どこかで特異点的なことが起こる」ということとは,けっこう表裏みたいな関係性があるのではないかと思う.

──ちなみに,そういう特異点をどうやって作品に組み込んでいくことに有効性があると,池上さんは思いますか?

池上:一概には言えないけれど,アルゴリズミックに書けないことがどうやって織り込まれていくか,だと思う.前に僕が提案したのは,半分は僕がデザインして,もう半分は来場者の動きによって初めて成立するような作品というアイディアだったのだけれど……でも,そういうのって,作るのがなかなか難しい.人が来て,ただ単なるインタラクティヴなアートになるか,それとは全く無関係なペインティングになるか,ですよね.その中間的なものが成立するならば,面白いと思うけれど.
 そのためにはやっぱり「作品を鑑賞する時間」について考えなくてはいけなくて,すごくプラクティカルな問題かもしれないけれど,作品が展示されていても,人がそこに留まるのってせいぜい3分ぐらい.だとしたら,いくら遊んでいても,そんなに長くはいないことになる.10分もいたら長いほうじゃないですか.だから,その(時間帯の)中で鑑賞して分かるものしか作品として成立しないわけだけれど,例えばその作品が,1日とか何ヶ月もかかって変化していって,その時間の変化が織り込まれていることが重要である,と.そういうことが可能になるような作品プランがないか考えているところですけどね.そういう時間の要素とかが入ってきたら,さっきの特異点的なことも追えるんじゃないかと期待したいんだけれど.

──お話をうかがっていると,池上さんが想定されているような「可能世界」そのものを提示することは,簡単なことではないのかもしれませんね.

池上:システムの外側,というのはアート作品のテーマとしてはけっこう面白いし,そういう展示の方向もあると思うけれど……つまり整合的に作ったシステムの中に,予期しないハプニングが起こることは,立派な可能世界なのだけれど,それを単なるハプニング・アートとしてやったら,面白くない.

──その場合,それ自体としては作品化できなくて,何か予期せぬことが起きた一瞬に対して観客が,その作品のまた別の可能性みたいなものを想起した時に,可能世界が生まれるというお話でしたよね.だからその可能世界そのものが作品になることはありえない,ってことですか?

池上:どうでしょう.ちなみに今年の1月に東大の駒場キャンバスで,河村美雪さんというアーティストのホストをやりました.そこでは一種のパーティー・アートをやったんですよ.

──《Dropping by》[※06]というポスターが,あそこに貼ってありますよね.その話もうかがっておきたかったのですが.

池上:ある場所に100人ぐらいの参加者が,友達とか家族とか恋人とかが集まってきて,普通にパーティーをやる.ケーキを食べたり,ビールを飲んだりして……するとその100人の中には,あらかじめ10人ぐらい仕込まれた人がいて,時々変なスピーチを始め,今度はそのスピーチを真似する人が現われたりして,さらにそのスピーチを真似するのを真似する人が現われて……みたいなことが起きる.
 そこは仕込みなのですが,その仕込みの人の振る舞いをそこに来ていたお客さんで真似する人とかが出てくる.また,現在ぼくが,YCAM(山口情報芸術センター)で展示している《MTM [Mind Time Machine]》(主観的な時間を組織化してつくるシステム)のプロトタイプを提供しました.基本的には,リアルタイムでフレームの時間順序をいじったりして映像を作り出すシステムで,例えばその映像の前でジャグリングをしたりすると,たちまちボールが増えた映像が映し出される.そういうことがパーティー会場の一部で起こると,その影響がさざ波みたいに会場全体に広がっていっては,消えていく.つまりその会場そのものは,何も起こらなくて,ミクロなイヴェントがコンティンジェント(偶有的)に生じる.それを来場者は観察する……というか,参加しちゃうわけです.
 そういう作品なわけだけれど,僕はそういう仕組みも,今の可能世界の話とけっこう関係があるのではないかと思う.つまりアルゴリズムでは書ききれないけれど,進行はするわけです.ただ作品として強度のあるものを提示しているかというと……そのつどそのつどで違うし,二日間やったのですが,一日目と二日目でも全然違ったし.あるところは作り込んであるけれど,だからといって決定しているわけではない.そうした時間の進行そのものが観察できる,という作品なんですね.
 もう少しあれをパーティーとして面白く設定すれば,普通のパーティーとしても十分に面白いのだけど,どこかでちょっと違和感がある.その「違和感」というのは,それだけで閉じていないような感じがするということです.自分の思っているものとは違うところで動いている,システムが進んでいる,自動的なアルゴリズムがあるようなことを感じてしまう,常に期待が裏切られ続けるような作品……というか,そういう自分が川の葉っぱであり,岸辺から見る人であり,という形の進行があるということだと思う.

──たとえば,人力アルゴリズムみたいなものがあるとして,さっきのパーティー・アートの話も,それに近いと思うんですよね.伝達がうまく行なわれないけれど,何となくアルゴリズム的に機能しているようには見える.だけど,先ほどのパーティー・アートみたいなものでいえば,エラーみたいなものを普通に誘発するシステムがあって,それがまた何か違う「伝言ゲーム」の間違いみたいなものを生んでいく,っていうことですよね.

池上:そうですね.そこでのエラーというのは……その世界の内部にとってはエラーなんだけれど,閉じている世界にとって「エラーとエラーでないもの」の区別はない.これもTwitter上で流れていた話題だけれど,「悪い天気はない」という(笑).あれがまさにそうで,そもそも自然現象にいいも悪いもないわけですよ.
 あと,パーティー・アートの話だと……コンピュータでアルゴリズミックに書くと,どうやって広がらせようかが問題になる.だけど人間を使う場合は,どれだけルールに則ってちゃんとやらせるかの方が大事になってくる.だって,必ずミスをする人がいますからね(笑).
 結局,そういった人力アルゴリズムみたいなことをコンピュータに取り込みたいということが,あるんだけれど.それを,いきなり乱数を使って適当にゆらぎを入れて,作品の見えに対するエフェクトとして作っていこうとすると,よくないわけです.だから,ある種,持続可能な自律性というのを,提示したい.それがYCAMでの《MTM》という作品のモチヴェーションになっていたわけです.僕が最初にスイッチ・ポンで,あとはシステムに何も触らないようにしているのは,そういうことなのです.「場」と来場者だけで作品が成立できればいいなぁ,と.でも,実際には難しいですけれどね.

──なるほど.まさにそれが,インタラクティヴィティを巡るこれまでのメディア・アート批判でもあるわけですよね.

池上:それは,あからさまにインタラクションするのって面白くないと,僕は思っているからです.例えば中学─高校の時,ある女の子が好きになって,色々仕掛けようとすると,たいがいかえって事態は悪くなりますよね(笑).むしろ,そう意識しない時の方がうまくいったりするじゃないですか? 要するに「あからさまな志向性が見えること」がかえってインタラクションを妨げている.だからどうやってインタラクションを切るか,その「インタラクションを切るシステム」が大事なんですよね.
 これは《MTM》でのアーティスト・トークの時も話したのだけれど,インディアナ大学の友達,マティアス・シューツ(Matthias SCHEUTZ)がやっている,あるロボット実験があります.惑星上でロボットが人間といっしょに働いていて,その惑星の周回軌道を回っている人工衛星にデータを送るのがそのロボットの仕事だとします.しかしロボットの燃料がどんどんなくなっていったら,彼はどうするか.人間はひたすら「データを集めて転送せよ」と言う.だけどそのロボットは「ちょ,ちょっと今,エネルギーがないから……先にエネルギー確保のことを考えさせてくれ!」と考え,そっちを優先する.一方,それがないロボットは,ピ・ピ・ピとかいって停止してしまう.前者のロボットには任務遂行と自己保全の2つのロジックが走らされていて,どちらを優先させるかは人間には教えられていない.だから,エネルギーが切れてくると,人の命令は聞かなくなる.にもかかわらず,共同作業の結果は,前者のロボットとの方が高いということです.
 要するに「(ある時点から)インタラクションを止めちゃう」ロボットのほうが,却って協調的/共インタラクティヴな行為が派生しやすい(笑),という矛盾があるわけです.それってけっこう,人間の世界では本質的なことだと思う.多くのメディア・アートは,インタラクションしすぎるんですよ.
 だから僕は,コンピュータの中や外に出したアート作品や実験にしても,一貫して自律システムを研究するという志向が強いです.自律的に自分のロジックをもって動いていくシステム.ある場合はインタラクションしてもいいし,そうでなくてもいいのだけれど,そのことが一義的にあるのではなくて,とにかく自分で動いたり考えたりするシステムを作ろうということが,まず第一にある.それはずっと揺るがないでやっているわけだけれど,その場合,アートではそういうことがあまり取りあげられないですよね.「自律音楽を作ってもつまらないだろ」とか「自律システムを作ってどうすんの?」とか言われますもの(笑).でも,サイエンスとしては,そこが分からないから,いつまで経っても生命の仕組みとかが分からないと思うのです.

──人工知能というのは,そういうことでしたよね.

池上:でも人工知能は結局,「自分で」ということはなかったですよ.つまり人間と同じような振る舞いをし,人間と同じ知能を持つためには,どういうメカニズムがあればいいかを探して,結局のところ,人間よりも賢く,画像の中からある人物の顔を見つけるようなシステムはできたけれど,今のところ「人間のような知性」そのものはできなかった.それは,自律的なシステムを全く作れていないから,という意味です.カオスとかランダムネスにすれば自律的かと言ったら,そんなことはない.ただ関係なく動くシステムはできるけれど,それでは生命的な意味で自律的とはいえない.そこでインタラクションしたり,しなかったり,みたいなことがどう生まれるかということを考えるわけです.そのあたりは研究として,全然残っちゃっている.でも,そういうことを思いつくところまでは来ましたけれどね.まさにメタバースはそういうことですよ.システムがそれ自身で自律的でなかったら,面白くない.




[※06] 《Dropping by》:『Dropping - by 触れられる以前に消える自由を持っている.』日時:2010年1月22日(金),23日(土) 会場:駒場小空間(東京大学多目的ホール) ⇒ http://utsukushiyuki.com/サイト/index.html