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ICC メタバース・プロジェクト
池上高志 可能世界としてのメタバース 聞き手:畠中実(ICC学芸員)
”生命のような建築”とは何か?

──話題はちょっと変わりますが,先日Twitterで池上さんがつぶやかれていた言葉でちょっと気になったことがありました.こんな流れだったかと思います.つまりいわゆる「アルゴリズム建築」が,生命みたいなものをメタファーとして扱っている.すると,何だかんだ言って色々な実験を続けていっても,結局のところ,建築として実体化するのは,「何かみたいな形」とか「生命が進化をしたように見える空間」みたいなことでしかなくて,単なるメタファーでしかない.だから実際の建築はそことは全くつながりがなくて,単なる形態的なアナロジーとしてしか語れないのではないか,と.さらに,それに対して(別の観点から見た)お話を,改めてお聞かせいただけませんか.

池上:生命の有機的な形をみて,「生命的」というのであれば,くだらない.そうではなくて,僕が最初に思ったのは,生物の「なじむ」という現象についてです.それを,どういうふうに考えていったらいいかということ.どんな人工的なシステムでも,新しい場所に持ってくると最初はなじまないから,色々と調整をしなくてはいけない.で,僕らが意識的・無意識的に行なっている調整というものが,その場のシステムにだんだんなじませていく.
 でも,人間だってそうじゃないですか.新しい場所に行った時って,なんかしっくり来ないけれど,時間が経ってくると色々となじんでくる.人と人との関係にもそういう「なじみ」があるわけだけれど,何が変わるのか.別に表向きはお互いに変わらないように見えるのだけれど……そういう,その場における「なじみ」みたいなものが面白いなと思っていたので,例えばそういうことを建築に持たせるにはどういう要素を備えていればいいのかということを,提案したのです.
 例えばそのひとつが時間であり,もうひとつがホメオスタシスとかホメオ・ダイナミクスみたいなものでしょう.ある種の恒常性ができ,それを維持する仕組みができる.あと,そのシステムの「今」といった時間構造によって,どういう環境にどのようになじむことができるかが決まってくる.逆にその環境においてうまく時間が構成できたら,そのシステムがうまく動き出すと思うのだけれど,まだその辺りのことは解決されていませんね.
 時間の構成といえば例えば……建って1万年経っている建物と,30年経った建物と5年経った建物とは,何が違うのか? 例えば100年前の東京と今の東京で同じように成立しうるものを考え,それに適応していくような建築というものは,かなり生命的だと思うんだけれど……そういうのを僕は「生命のような建築」と考えたわけです.
 それに対する一番簡単な回答は,住む人がいくらでも変えられるような建築ですね.壁に穴を開けられたり,元々書庫であった部屋を別の用途に変えられたり,とか.「これはこういうふうに使いなさい」というファンクションが最初から与えられていても,後からいくらでも変えられる.そういう改築可能な建築物は長いこと使えるかもしれないですね.例えばヨーロッパだと400年とか平気で使っている建築もあるでしょう.

──たしかにヨーロッパに行くと「16世紀に建ったアパート」に住んでいる人とか,普通にいますよね.5階までエレベータもなくて狭い石の階段があるだけで,けっこう住みにくいけれど,現代的にリフォームされていたりもするから,今でもちゃんと機能している.

池上:荒川修作さんあたりを引き合いに出すと,建築系の人にはあまり賛同を得られないのですが,とかく建築理論って構造や機能について云々されがちだけれど,そもそもそこに人が住むわけじゃないですか.だから生活観や人間主義に基づくことなしでは,建築って成立しえないと僕は普通に思う.つまり建築は,それ自身では自動的なシステムになりえず,そこに住む人間とカップルすることで初めて自律的なシステムとして動くわけです.そういう視点があれば,構造と機能みたいな分け方にはあまり意味がないのでは?

──それこそ荒川さんの作品のように,ある種の建築はそこに住まう人間の意識をも変えようとしますよね.それが,池上さんが考えられている”生命のような建築”でしょうか? それってけっこう現実界に根ざした考え方ですよね.それこそメタバースという話でいえば,そこでは色々な実験が可能になる.
 例えば市川創太さんの作品のように,あたかも生命のように周囲の環境情報を取り込んで,どんどん形態を変えていくような建築も構想できます.それを建築と呼べるかというと,実際には難しいところもあるでしょう.そうだとすると,形態変化のある瞬間を取り出して,例えばそれを実空間に持ってくる……というような,言わば「設計過程のスタディをそのつどやっている」という言い方をされていたような……「自然環境に設計をやらせて,その時々の形態を取り出すことができれば,それを建築化する」というような話だったと記憶しています.そういう意味ではメタバースというのは,本当に生命みたいに振る舞う建築を,とりあえず構想できる空間ですよね.

池上:ちなみにその「メタバースにおける建築」というのは,そこで変更可能なのは形状だけ?

──と,いいますと?

池上:アートってエフェクトやエステティックのことを,すごく気にするじゃないですか.「ここはもっと黒くしたい」とか「大きな面が必要だよね」とか…….たぶんそれは,建築もほぼ同様だと思っていて「もっと広い空間にしたほうがいい」とか「壁はもっとこうしたほうがいい」とか「パターンは……」とか「テクスチャーは……」とか.
 それに対して僕なんかは,ある革新的なシステムを作った結果として,その後で形を整えるのはいいかもしれないけれど,システムそのものは自然現象として作っているという立場です.それで十分アートとしても成立しうると思っているから.だけど,エフェクトというのはそうじゃない.例えば犬を造る際に「この犬の耳,3つあった方がいいよね」とか「茶色い毛よりも斑(ぶち)の方がいいよね」とかいう「意見」は,たしかにその方が可愛らしい犬になるかもしれない.でもそれは,犬の見かけの問題,エステティックじゃないですか? でも犬を造りたかったら,とりあえず犬それ自身を造りたいですよね.僕の視点は常にそちら側にある.
 メタバースにおける建築の話も,さっき言ったような「斑の犬」とか「毛が短い」とか,そういう見かけの変更はいくらでも可能だろうけれど,”自然現象としての建築”なるものを考えた場合に,メタバースがそれに寄与することがあるかどうか,が気になる.むかしチューリングがシマウマの縞が生まれるメカニズムを今で言う反応拡散系で説明したとき,みんなすごく喜んだ.「これぞ生命の理論だ!」と.でもチューリングはそれを横目に「シマウマの「しま」の部分はいいけど「うま」の部分はどうすんだ」,そういうことです.

──デザイン変更という機能でいえば,一番顕著なのは「アバター」ですよね.アバターというのは,服とか体型を自由自在に変えられる.でもそうじゃなくて,たとえば人というものを定義しようとすると「二本脚で,手が二本あって……」とか,そういう最低限の条件だけでいいわけですよね.
 そういう機能を使って「人のようなもの」を(仮想空間内に)作るというのはありうると思いますし,市川さんがやっているような試みは,まさにそうだと思います.構造として成立する条件を与えてあげるわけで,それを飛び越えるような形には決してならない…….