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ICC メタバース・プロジェクト
池上高志 可能世界としてのメタバース 聞き手:畠中実(ICC学芸員)
「世界の揺らし方」を実験する

──今のお話で思い出したのですが,東浩紀さんが「InterCommunication」に連載していた「サイバースペースは何故そう呼ばれるか」という論考[※01]の中で,フィリップ・K・ディックの小説を引き合いにしつつ,今,池上さんがおっしゃったようなことを論じられていたように記憶しています.
 また,『時は乱れて』(サンリオSF文庫,1978)というディックの長編SF小説があって,言わばそれが「リアル・メタバース」みたいな話でした.うろ覚えですが,小説内世界で新聞の懸賞クイズばかりやっている登場人物が出てきて,実はその彼が外側の世界で本物の戦争を指揮していた……みたいなあらすじだったかと思います.
 今思い返してみると,それってかなりメタバース的な……というか,まるでメタバースが逆転したような世界の話で,ストーリー自体は内部から描かれているわけですが,エンディング・シーンで(まさに寺山修司やA・ホドロフスキー的な展開ですが)世界がパカッと割れて,その外の世界では戦争が行なわれていることが発覚する,みたいな話でした.

池上: あと,デイヴィッド・リンチの映画にも,そういう主題がけっこう多くないですか? 例えば『マルホランド・ドライブ』.

──「メタバース研究会・第二期」の別のコンテンツである,市川創太×松川昌平対談「建築とメタバース」の中で,市川さんがちょうどその映画の話をされていました.

池上: 僕もあの作品が大好きで,あるヒロインが殺人を犯したのか/そうでないのかが絡み合いながら進行し,交錯する……それこそ可能世界だと.「殺していたかもしれないし,殺していなかったかもしれない」ということが混じり合いながら進行していくわけだけれど,それを考えている主体の意識も,どちらに帰属しているのか分からない.
 その行為者であれ,それを思う主体であるということと不可分にしか進行できなかったということが,可能世界を考える面白さになっていると思います.でもそれは「組み合わせ的に多様だ」ということとは一種無縁ですよね.「組み合わせが多様である」ということと,さっき言ったような「一元論的な宇宙に住んでいるのだ」ということが,どうして結びつくかを逆に考えないといけない.可能世界の場合,そこの部分を消しちゃうと,可能世界の面白さも消えてしまう.

──たしかに先日の「可能世界空間論」展では,特に田中浩也さんたちの作品《オープン・(リ)ソース・ファニチャーver.1》などは,計算可能性に重きを置いていて,コンピュテーショナルな空間というふうに(可能世界を)捉えていたのですが,言ってみればそれはシミュレーション空間です.その「シミュレーション」という態度にも2つあると思っていて,あるアルゴリズムを与えると,このようにモノが多様性を帯びる.その多様な可能性からどれかを選び取るために多様性を生み出す手法が,シミュレーションのひとつの目的だとします.
 かたや池上さんが実際になさっているような理論生物学を検証するための,セル・オートマトンのようなコンピュータによるシミュレーションがもうひとつ.コンピュータを導入してシミュレーションが可能になったことで,複雑系科学が発展していった経緯もありますよね.その2つの違いって,何なのでしょうか?

池上:ひとつには,現実にはなかった可能性を追いかけるものとしてのシミュレーション.実験の範疇が拡大した色々な形での実験をするようになったことが,この方向のシミュレーションを考えていく上でも大きいと思う.ちょっとずつ条件を変えてみて,ものごとの本質に迫ることが実験の基本的なあり方で,温度を変えたり,光の明るさだけ変えたりして実験した結果,何々が分かる.そこでの実験が可能世界なのかというのは,そうかもしれない.先ほどの意味では違うけれど,言わば「世界の揺らし方」について考えるということが,今の「実験」に対するシミュレーションの例です.
 もうひとつには……数学は定理・証明だけれど,数学にも実験数学と理論数学というものがあったとすれば,前者の立場がシミュレーションですよね.ある数学の式があったとしても,実際にそれがどういうコードを作るか,パターンや意味があるのかというと,それを理論数学として考えても分からない.例えばオートマトンみたいなものがなんで数学と言われるのかというと……オートマトンって自然界の何とも対応していないじゃないですか.メタファーは作れるけれど,実際には,自然現象から導かれたわけではないルールによってパターンが生成されるだけです.ああいうものをどう考えるのがいいのか.つまり代数的に考えるだけでは分からないことが,目でパターンを見て,実験をすることで,その規則の意味が分かったりするわけです.その発展したパターンができたら,それを元に理論数学を作っていくわけです.つまり理論数学を作るために,実験数学が必要とされている.その意味では自己充足的なわけですね.オートマトンを走らせてパターンを作ることによって,新たな数学を作っていく.
 そういった意味では,シミュレーションすることで現実世界の可能世界を追いかけていたわけではなくて,むしろシミュレーションすることによって人工世界の中の多様性を考える,ということになっていたと思う.つまり自然を説明するのではなくて,あくまでも多様性を生成したいのだ……ということですね.
 そこには前からひとつの謎があって,現実世界はかくも多様で不安定で発展的なのに,人工世界は常にある一定のパターンに落ち着いちゃったりする,それはなぜか? ということです.カール・シムズの人工生命システム[※02]だって面白いけれど,展示期間中365日,あのシステムをずうっと回し続けたら,最後の方には変なものが出てきた……なんてことは起こらない(笑).プログラマが想定していた範囲を越える可能性があるのは,例えば,とても長い時間(シミュレーションを)やるとか,途轍もなく大きなシステムでやるとか,そうすることで初めて見えてくるものがあるとすれば,その意味で,シミュレーションを走らせることに意味があるわけで,決して「いっぱいやってみて,そのうちのどれか」ということではないと思います.つまり,長く走らせることで見えてくる世界,ということですね.
 これは,さっきから言っている可能世界論の解釈とつながっています.つまり,もしも過去に戻れたとして,そこで「こっちの道はよくなかったから,今度はこっちの道を行こう」って変更ができた場合,果たしてそれでも可能世界かどうか? (過去と現在を)行き来できるのだったら,可能世界じゃないじゃないですか.選択肢があるぶんやり直せるとしたら,それは可能世界じゃなくて,それも含めてひとつの世界になっていると思いません? つまり,そういう選択肢がない世界があったとしたらどうなっているのだろう,というのが可能世界じゃないですか.
 だから可能世界というのは常に「自分にはどうしようもない世界」としてしか立ち現われないと思います.どうやっても選べないのだけれど,ある可能性について考えざるをえないものが,自分の外側には常にまとわりついていて,そのことについて色々な理論を考えることが,可能世界なるものの譲れない基盤だと,僕は思います.
 例えば,計算論の世界は可能世界なのだけれど……それも「色々な計算が可能だ」ということではないんですよね.元々アラン・チューリングが書いた論文は「計算できない数」について書かれた論文[※03]だった.なんで計算論の本なのに,そんな「計算できない数」について書かれているのかって思うかもしれませんが.計算できない数があるのかどうかを問うのには,まず「計算できる数」を定義しなければならない,とチューリングは思ったわけです.それが計算可能なもの.その外側に「実は計算できないものがある」ということが立ち上がる.その証明として彼は考えた.
 大事なのは,ある形式を作っていると,常にその外側に,その世界では行きつかない領域が立ち上がってくるということ.そちらこそが可能世界の芽を持っているわけです.だって自分が可能世界の中でいくら暴れたって,世界は変わらない……にもかかわらず,この世界の外側があるかもしれないという恐怖があり,その外側をちょっと拡張したら,常にまたその外側が生まれる.元からあったのではなくて,この世界を作ることによって「この世界から行き着けない世界」が出現する.そこが可能世界の肝要なところだと,僕は思うわけです.

──今の話で思い出したのが,以前,池上さんがS・J・グールドの『ワンダフル・ライフ』(早川書房,1993,2000)を引き合いに,バージェス頁岩の話をされていたことです.たしかにあの頃の生命の多様性は,現在の生物学では説明がつかない.なぜかというと,今現在の生命には見当たらないような形や構造を持っているからで,いったいなぜそれがありえたのかが判明しない.でも,あれは可能世界ではなくて,本当にあったとされている世界ですよね.だけどあれらカンブリア期の生物が淘汰されずに,仮にその後も進化を遂げていたとしたら……それも想像できない.

池上:カール・シムズのようなシステムを作っていけば,どうなるかはある程度推測できるかもしれないけれど,それをノーマルなサイエンスとして認められる形でやれるかというと,たぶん相当困難でしょうね.
カンブリア紀の動物群の多様性が生まれた根拠を,DNAという「生成システムとしての言語」の進化的性質……つまり塩基配列の組み合わせによって,様々な生物の形を生成する言語システム,それ自体のヴァージョンアップ,という観点からちょっと考えてみます.
要するに先日の「可能世界空間論」展で展開されていたことも,言語の生成的性質によって爆発的な多様性が作れるということであり,それは(あそこに展示されていた)「建築折紙」にしても,シムズにしても,バージェス頁岩にしても同様です.『SPORE』[※04]のような生命シミュレーション・ゲームで生成されるクリーチャーを,彫刻師が掘るようにそのつど掘って作っていたら大変な手間じゃないですか.オートマティックに自動生成するには,何かしら言語的な生成能力が必要で,それがありさえすれば,その組み合わせで爆発的な複雑さを作ることができる.
 そもそも人工生命(Artificial life)の面白さは,可能性としての生命,であり,その人工生命を作るためには何かしらの言語が必要である.オートマティックに生成する規則群.そうすることで,生命の多様性や進化を,物理化学の問題から言語の問題へと解放したとも言えます.一方で,この現実に他の形態の生命が生まれたかもしれないことを,まじめに考えるならば,物理的な大きさや時間のスケール,そうしたことを追求すべきでもある.その中で,別な進化や生命の可能世界が見えてくる.これはノーマル・サイエンスになりつつある部分.
でもここまで話してきた可能世界とそれは別の世界です.可能世界というのは,このようなことをやっている我々の世界の外側に別の形式があったらどうしよう,ということですからね.与えられたひとつの形式を元に,その外側に別の世界を作れちゃうという恐ろしさがあるわけです.




[※01]東浩紀さんが「InterCommunication」に連載していた「サイバースペースは何故そう呼ばれるか」という論考:「InterCommunication」22号〜32号に掲載.後に『情報環境論集—東浩紀コレクションS(講談社BOX)』(講談社,2007)に採録された. [※02]カール・シムズの人工生命システム:http://www.karlsims.com/ などを参照. [※03]「計算できない数」について書かれた論文:アラン・チューリングが1936年に発表した“On Computable Numbers, with an Application to the Entscheidungsproblem”(「計算可能数,ならびにそのヒルベルトの決定問題への応用」)のこと. [※04]『SPORE』:エレクトロニック・アーツ社のリアルタイム生命シミュレーション・ゲーム.製作指揮は(『シムシティ』や『ザ・シムズ』等を生み出した)ウィル・ライト.プランクトンのような原始生物の誕生から,高度な文明を築く知的生命体までの進化過程を幅広くシミュレーションするゲーム.⇒ http://www.japan.ea.com/spore/