ICC
ICC メタバース・プロジェクト
池上高志 可能世界としてのメタバース 聞き手:畠中実(ICC学芸員)
メタバース内における,新たなコミュニケーション機能の可能性

池上:分かった,分かった! 「可能世界空間論」展やこれまでの話に対して,僕が一種の違和感をずうっと持っていたのは,「(その世界の中に)なんの違和感もない」ということだよね(笑).つまり,ひとつの世界で作っちゃうと,どんなことをやっても整合的にできちゃうから,ある違ったコンテクストに突っ込んでみないと,意外性や違和感は現われない.
 例えば地下鉄の中に突然カエルがいて,みんなが「あ,カエルだ!」ってビックリするみたいなことって仮想空間内にはないじゃない? 違うコンテクストをそこに突っ込むことで,可能世界の中に恐ろしい現象を現わすことができる.そういう突発性みたいなものを織り交ぜていかないと,(それは世界の一元論的な構造にも繋がっている話だけれど)今の自動生成による可能世界の観測の仕方だと,きれいすぎちゃって,どこかもの足りない.以前,うちの小さい子どもがパソコンのキーボードにいきなり醤油をかけちゃって,「えーっ」みたいな……(笑).そういう外からやってくる予測不可能性が何らかの形で出てこないと,単にコンピュータブルな可能世界を探索したって「オモロないやんけ」というのが僕の正直な意見ですね.

──それってインタラクティヴな仕組みに対する批判として,ずうっとあったものですよね.つまり「プログラマブルなもの」は,結局その外側の要因が入り込む余地がない.その世界は全部プログラムされているわけで,そこで引き起こされるアクシデントでさえ,プログラミングされているわけですよね.だからプログラムされた世界の外側は,あるようで,実はない.でも逆に言うと,コンピュータ・シミュレーションというのはそもそもそういうものである.でも,「クラス4」[※05]のようなオートマトンの現象のように「突発的に何か変化が訪れる」ことも起こりえますよね.

池上:そうです.内部的にもビックリするような現象は起こしうるんだけれど,同時に,全くの外部性というのは差し挟めない.僕が最近人工生命をコンピュータから外の現実世界に出そうとしているのは,その「外部性」についてもうちょっと考えたいということがあります.あと,畠中さんが言っているように,「クラス4」によって内部的に生成される複雑さというものをどう考えるかも,問題ではある.
 とりあえず設計をした時に,可能世界の内部を徹底的に探究するのであれば,どこかに「クラス4」的な要素を持ち込まないと,いわゆるビックリはないし,単に外のシステムをカットすると,ビックリというのは破局的なビックリしかない……さっきの「キーボードに子供が醤油をぶっかける」みたいなね(笑).だから,その後に続かないようなビックリが多い.

────なるほど,そのメタバースという仮想空間の中に,どれだけ外部性みたいなものを取り込めるかが,ひとつのポイントになるわけですね.

池上:外部性ってさっき言った可能世界の意味で,「自分の外側があったんだ!」みたいなことが分かるっていうのが,一番深刻なわけですが,そのとき「外側」をどういうふうに考えるかが,可能世界の全てだと思う.
 元々エヴェレットの量子的多世界解釈という意味での可能世界の話というのは「量子力学は確率的に世界を解釈する」ということで,同じ対象を観測するときは,波束が収束してひとつに決まる.であるならば,「それを観測しているお前はどうなんだ? お前も量子力学的存在だろう」と問われたら,では,自分(という意識)は収束しているのかしていないのか,という問いが立ち上がって,量子力学的に「たくさんの自分があってもいいのではないか」という話が始まった.
 だから,ここでの話の骨子は「例外を設けない」ということで,自分だけが量子力学的実体でないなら,問題はない.しかし,自分も見ているものと同じ世界にいるということから,可能世界が生まれている.自分は観測する側で,観測される側の方にだけ色々な可能性があるんだったら,その嫌な感じから逃れてしまう.その世界での操作が自分にも及ぶところに可能世界の面白さの全てがあると,僕は思うんだよね.

──今のお話で思い出したのが,音楽学者の細川周平さんが書かれた『レコードの美学』(勁草書房,1990)という本に書かれていたことです.そもそもレコードは記録されたものだから,何回聴いても同じで変化がない.レコードで音楽を聴取する経験は,単なる繰り返しであり,再帰性に基づいている.そういう音楽の形を一個に固定してしまうレコードというメディアをジョン・ケージは嫌っていた.
 でも,たとえ同じ音楽を何回聴いたとしても,聴いている自分がそのつど変わっていれば,それは違う体験である.毎回同じレコードやCDをプレイバックすることは,決して同じ音楽を聴いているわけではないのだ,というわけです.つねに同じであるかどうかは,主体の問題ですが,それが常に変わっているわけですよね.

池上:『順列都市』(ハヤカワ文庫SF,1999)というグレッグ・イーガンのSF小説が素晴らしくて,簡単に要約すると,オートマトンの中に世界を全部コピーしちゃおうという話なんですよ.自己複製オートマトンを大量に作って,その中に人間世界を全部コピーできるか,というところから話が始まる.それって,現実世界の中にコピーするという意味で,可能世界に満ちみちていると僕は思うし,そういうやりかたはありだと思う.
 全部決定論的なオートマトンの中の可能世界を考えよう.だとしても外的には,状態が時間的にパッパッと変わっている,明滅しているだけじゃないですか.先ほどの河を流れてくる葉っぱの話と同じで,それがシミュレーションできたとしても意味がないでしょ? 本当は,この世界のルールでは白いものが(その世界では)黒にならないと意味がない.その思考そのものも同じルールに従っているわけで,「外側を考える」ということは,誰かが外側からそのルールを変えるしかないわけです.その,何て言うのか……「変えられないところがある」ことについて,どう考えるか.
 だから,先ほどの話を繰り返すと,人間の主体によって同じ音楽を繰り返し聴いても違って聞こえる,というのは確かにそうだけれど,可能世界の怖さは,実はそれとも違っていて……もしかすると人間も繰り返しで動いているかもしれない.その場合は本当に変わらないわけですよ.でもそれを聴いている意識は,同じものだと思わない,ということもあるのか.自分の認識自体が繰り返しになっている,ということには原理的に気がつきえない.つまり,何に飽きるかということと,自分が帰属している,あるいは自分が従っているデフォルトの仕組みが関係している.

──たしかにそれって「同じ音楽を聞いていて,だんだん飽きてくる」というのと同じですよね.

池上:でも,僕が言っているのはもっと原理的なこと…….例えば「朝トイレに行くこと」って,飽きないでしょ?

──まぁ,生理現象だし(笑).

池上:じゃ「ドアを開ける」ということはどうですか? 玄関のドアを開けることは,飽きないでしょう.人間ってけっこう同じことを繰り返しているんですよね.でも……飽きないじゃないですか.そこで「なんで飽きないのか?」が問題になるわけです.あるレヴェルでは,人間は完全に機械と同化しているから……でも,あるものに対しては,飽きたりするわけですけどね.
 前にも色々なところで話したことだけれど,僕,テレビの大量のピクセルがとても面白くて……時々テレビの画面にすごく近づいて,ワーッとした画面上のピクセルの動きを見ているんですが,あれは飽きないですよね.情報量が多すぎると,人間の知覚では処理しきれないから.そうすると全てのことが明らかになってくる……というか,僕がアート作品を作っていて思うのは,けっこうわけの分からない抽象的な作品を作っても,人間って,慣れてしまう.かといって,その「朝のドア」みたいなものも,なかなか作れない.

──そういう普遍的なものをめざしているのですか?

池上:自然現象って,飽きないですよね.そういう「飽きないもの」を人為的に作るというのは,なかなか難しいです.だって海の音を聞いて「飽きたよ!」とはならないですよね.「また風の音か!」とかも言わないし「また桜が咲いて,この風景うんざりだ!」ということも,あまりない(笑).それらは作られた音や画像とはちょっと違う気がする.
 渋谷慶一郎さんと僕がやっている「第三項音楽」というのも,そういうことが気になっていたことがそもそもの発端となっている.コンピュータ音楽って,いかにもコンピュータ音楽っていう感じがあるし,コンピュータの画像も,似たような印象がある.それはアイディアとテクノロジーの問題だと思うけれど,それらがシームレスになった時に初めて,可能世界というものが立ち上がると思う.「何も変わらないじゃないか」ということから,変更可能性について考え出すようになるのではないか.実際に人生やり直しがきくと思った場合,可能世界の問題はなくなるかと思ったら,どう思いますか?

──やり直せたとしても,常にあると思いますよね,きっと.

池上:ということは,可能世界性というのは選択肢の問題じゃない.「やり直す」ということを含めて,ひとつの軌道があり,その外側に「やり直すことのできない世界」というものを考えてしまうのが,可能世界性だと思う.つまり「可能世界とは,アルゴリズム的に書けるものではない」ということなのかもしれませんね.




[※05]「クラス4」:アメリカの理論物理学者スティーヴン・ウルフラムが発表した研究論文内で,彼は1次元セル・オートマトンの時間発展の仕方を4つに分類した.最初の「クラス1」は,セル全体がほどなく同一状態になり,変化しなくなるもの(秩序状態).「クラス2」はセルの時間発展につれて,最終的には周期的な変化に落ち着くもの(秩序状態).「クラス3」はセル全体がランダムな変化を際限なく続けるもの(カオス状態).そして4番目の「クラス4」が,規則的なパターンとランダム・パターンがいつまでも共存する結果,より複雑なパターンを形成するもの(カオス状態).この(秩序状態とカオス状態の間に位置する)「クラス4」こそ,生命現象のような複雑な自然現象を引き起こす源だとウルフラムは考え,これが「複雑系」と称される新しい科学分野の確立につながってゆく.