ICC

インターネット・リアリティ研究会「インターネット・リアリティ」

インデックスページへ

「[インターネット アート これから]」展 内覧会

日時:2012年1月27日(金)

出演:渡邉朋也
谷口暁彦
千房けん輔
畠中実(ICC)

畠中:「[インターネット アート これから]」展の会場の一角に用意されたステージから中継してます.さきほどレセプションが終わって,展覧会場に戻ってきたところです.今回の展覧会は,「インターネット・リアリティ研究会」という研究会を立ち上げて実施したわけですけれども,去年の7月の座談会では「インターネット・リアリティ」と呼んでいたものが,この展覧会の副題では「ポスト・インターネットのリアリティ」と変更されています.その変化について,あるいは「ポスト・インターネット」という概念が「インターネット・リアリティ」とどういうふうにつながっていくのか,という話をしていけるといいかなと思います.

渡邉:こんばんは,「インターネット・リアリティ研究会」メンバーの渡邉です.去年の7月に,ICCで「インターネット・リアリティとは?」という座談会をさせていただきました.そこでは,来たるべきインターネット上の美術作品の在り方とか,それを鑑賞するための展覧会の枠組み,さらにはそれを支える感覚,美学のようなものがあるとすれば,どういったものになるだろうか,そういうことを議論させていただきました.で,そのままの流れでいけば,インターネット上で展覧会を企画するのが妥当に思えるわけですが,今回,そのときの議論を出発点に,こういう実空間でのフィジカルな展覧会をやることになりました.

畠中:ひとつ大きな違いとして,「インターネット・リアリティとは?」の座談会では,「インターネットにあるものはインターネットにあるべきだ」っていう考えがありました.今回,展覧会をやるときに,インターネットに最適化されているものを展覧会場っていう現実空間にもってくるっていうことに意味はあるのか?ないのか?という問題がひとつの大きなポイントだったような気がします.「インターネット・リアリティ」というのは,つまりそっち側の方向性,「インターネットである必然性」や「インターネットであるべき表現」みたいなものを考える,そういう方向性だったということです.だけど,会場内に水野勝仁さんに寄稿してもらった「ポスト・インターネットの質感」というタイトルのテキストがありますけれども,そこではインターネットっていうものが非常に日常化したり一般化したりしているなかで,「インターネットである」とか「ない」とか,「インターネットに最適化されている」っていうことすら言う必要がないのではないかという観点が打ち出されています.
 だから,われわれが「インターネット・リアリティだ」と言った後に,「ポスト・インターネット」と言われると少々,疑問に感じてしまう.つまり,研究会において「インターネットの中で輝いているものは,インターネットで体験するのが一番いい」と言った後に,「いや,インターネットの中だろうが,現実だろうが,同じなんだから,区別する必要ない」という観点が出されたということです.それから,一挙に「インターネット・リアリティ」だったものが「インターネットであろうがなんだろうが関係ないリアリティ」になってきた.で,それを「ポスト・インターネット」っていう名前を借りてやってみたっていう感じです.
 そのオリジナルみたいなものを参考にして,「ポスト・インターネット」という考え方とか動向があるということを意識しつつ,でも,対象としているものはそれとはちょっとずれてきている.それは何かというと,われわれが「インターネット・リアリティ」と呼んで考えてきたものの延長線上でそれを考えたい.つまり,どっちも同じなんだよ,並列なんだよ,っていうことと,「インターネット・リアリティ」が最初にあってその先に,インターネットもなにも関係のない地平がある,っていうのはちょっと違うと思うんです.
 だから,この展覧会を考えていく中で,ブログの「ポスト・インターネット」で紹介されているいくつかの作品,それこそパーカー・イトーの作品も入っているけど,そういう作品だけを並べると,単なるオモシロ美術館になってしまうのではないかという懸念がありました.たとえば,日常の風景となったからといって「ブラウザで画像が表示されない時に出てくる?マークとか,リンク切れの画像を絵画にしました」といったような作品だけだと,これまでのポップ・アートの延長と考え方が変わらないのではないかということです.(ただそこに,インターネット・リアリズムとでも言い得るような表現が現れる可能性もなくはないと思ってます) で,そうしたときにやっぱり,「インターネット・リアリティ」だっていうことの出発点を変えないで「ポスト・インターネット」のフレームを借りられないか,っていうのが,たぶんこの展覧会の出発点だった.

谷口:そうですね,座談会のときは,インターネットの中にあるリアリティの話をしていたんだと思うんですね.だけど,その話を突き詰めていくと,インターネットが日常化した地平が見えてくる.するとそれは単純に「インターネット・リアリティ」じゃなくて,ただの「リアリティ」なんですよね.だから今回この展覧会の問題というのは「インターネット以降のリアリティ」なんだと.

畠中:「インターネット」というものに対する,われわれの捉え方の度合い,みたいなものが,以前とはだいぶ変わってきた.で,その変化というのは,向こう側とこちら側という区別があるとして,向こうもこちらも同じように自分たちは感じているんだから,区別自体があまり意味をなさなくなってきたということではないのか.でも,同じようだけど,ちょっと違うような気もするんですよね.
 「ポスト・インターネット」のように,インターネット以後に生まれたいろいろな文化の中で同時多発的に考えられているのは当たり前で,それをなぞらなきゃいけないことはないと思ってもいます.それはそれとして,われわれ研究会で継続的に考えて,何か出してみようということです.まだ,答えが出ているわけじゃないし,それはもしかしたら数年経った後には,何かあっちもこっちも変わってきているかもしれない.いまは,そういう変化の最中にいる感じがあります.変化というか,動いているものの真最中にあるという感じなんですよ,感覚としては.

谷口:重要だなと思ったのは,水野さんのテキストの中で,「Internet Aware Art」っていうキーワードが出てくるんですが,それを提唱したガスリー・ロナガンが,「Internet Aware Art」っていう言葉が出るくらいに,まだ,アートにおいてインターネットっていうのが特別なものとして機能しているという側面もあると指摘しています.「(アートはまだだけど)」とカッコ書きで指摘している.でも,それを今回こういったかたちでインターネットの外に出せたということは,その特別さを外すというか,より陳腐なものにするという意味で結構大きな一歩かなと思いますね.

渡邉:この展覧会は明日からオープンですし,いま,この中継を見ている32人の方々には,「インターネットの外に出せた」と言われてもよく分からないんじゃないですかね.お茶の間のみなさんに向けて簡単に説明しておくと,明日以降,会場にいらっしゃったら,またはひと通り見終わったら,あることに気づくと思うんですね.
 それは,基本的にインターネットにつながっている作品が存在しないということです.今回,展示に一番インターネットを使っているのはおそらくぷりぷり君だと思うんですけど,こうしたこともいま先ほど2人が話していたことの裏付けにもなっているような気がします.
 ちょうど水野さんも引用しているマリサ・オルソンという人の発言に,インターネットがこれだけ生活に影響を及ぼしているのであれば,その日常から立ち上がってくるアート作品などもその影響下にあってしかるべきだろう,といったようなものがあって,せめて,そういった現状が見えてくるといいなと. いま「ポスト・インターネット」の解説もないまま,いきなりフルスロットルで核心に迫りつつありますが,先ほど畠中さんが指摘されたような状況,問題について,会期中レクチャーとかシンポジウムとか座談会とか,様々なイヴェントを通じて切り込んでいくつもりですし,状況に応じて作品の追加とか,会場構成の更新もあると思います.

畠中:もうひとつ特徴として挙げられそうなのは,たとえば「ポスト・インターネット・アート」とか「Internet Aware Art」と呼ばれるものを見てみると,インターネットに対して意識的になっているとは言うものの,モチーフがインターネットの中にあるだけという域を出ていないものが多いように思います.会場に掲出されている解説にも書いてある通り,たしかにインターネットにあるものはもうある種,日常的な風景になっていて,それはもう美術のモチーフのひとつになり得る.たとえば,静物画というものがあります.いろんな美術の中でモチーフになってきたものがあって,それはいろいろ社会的な状況に応じて変わってきました.たとえば,キャンベルのスープ缶もモチーフになった.あるいは,今回のエキソニモの作品のように,Googleのトップページもモチーフになっている.でも,それだとインターネットの世界っていうものが,現実世界と同じように美術のモチーフのひとつになったんだ,っていうところに留まってしまっているような気がします.もちろんまだ先があるはずなんだけど.
 今回やってみたかったのは,インターネットで起こっている出来事とか現象とか,それを通じて育まれた感覚というものは,現実にフィードバックされている.そういう回路が存在していると考えると,今回,展覧会の更新,会期中に変わっていくというのは,意味があるとも言える.もちろん,シャレみたいに見える部分もあるでしょう.たとえば,キャプションにver1.0などと書いてあるのは,この展覧会をやっている会期中にいろいろ研究会の中で考えが変わっていって「このキャプション,違うなぁ.全然違う,となることもありうる,つまり,展覧会自体もそういう思考プロセスの中にあるということを言いたいから,あえてそういうネット的な言い回しとかスタイルを取り入れたりしてるんです.

渡邉:向こうの「ポスト・インターネット」の界隈でよく言われることのひとつに,インターネットにおけるしきたり,慣習のようなものを,アートの世界のそれと相互に貫入させる必要がある,というものがあって,そういう話に近いのかなと.カオス*ラウンジが言う「流儀」の問題も彷彿とさせますが.

畠中:声が小さくなっていっている(笑)

渡邉:いやいや,そんなことないですよ.視聴者数がどんどん増えていく一方で,それに気をとらわれていました.

畠中:ここにリアリティがある(笑).思い出横丁もっとしゃべったほうがいいよ.

谷口:こんな,マジレスにマジレスの応酬になると思っていなくて,なにから話したらいいのか(笑)

渡邉:やりすぎると,このあとの座談会で話す内容がなくなってしまうので,いま会場にいない,この中継を見ている人たちが会場に足を運んでくれるような話というか……

谷口:やっぱり「インターネット アート これから」と言いながら,インターネットにつがなってないっていう.

渡邉:これは先ほども少し話しましたけど,この展覧会はその展覧会名のせいで,微妙に誤解を招いてしまっている部分があると思うんですね.その誤解というのはつまり,この展覧会が「ネットアート」の展覧会だと思われているのではないかということです.そういう誤解を招くような展覧会名を付けているわれわれが悪いという向きもありますが,ちょっと注意して見てください.この展覧会名の「インターネット」と「アート」の間に半角スペースが1つ入っているんです.決して「インターネットアート」とつながってはいません.だから,ひとつひとつの検索語の間に,何が入るのか.その可能性はいろいろあるわけです.そこに所有格の「の」とか「を使った」が入れば,「ネットアート」になるかもしれませんが,「について」が入ってくると,また様相が異なってくる.その半角スペースに何が入るのか,そういうことに意識を向けてもらえるようになるといいなと思っています.とにかく,これまでのICCの展覧会で言ったら「アート.ビット コレクション」とか,ああいうタイプの展覧会ではないんです.そうしたものを期待される方が非常に多いみたいで,Twitter上では「ぷりぷり君はインターネットに関係ないだろ」とか,そういう話が出ているのを見たことがあります.

谷口:でも,ああいうタイトルをつけておきながら,展示作品がインターネットにつながっていないというのは本当に大きな一歩だと思うんですよ.

渡邉:先ほど会場で,思い出横丁情報科学芸術アカデミーのロゴをデザインしてくれたNNNNYの林(洋介)くんに会いましてね,彼はK-POPやインターネット上のクリエイションに対して非常に造詣が深いのですが,その彼も「インターネットもここまできたか」と感慨深げに言っていました.要するに「ポスト・インターネット」という言葉は,「インターネット以後」ということでしょうが,過度な日常化を契機として,いわゆる日常化を超えた大きな影響,その後に意識されるであろう,大きな転換点を通過しつつあるということです.
 「メディア・アート」の英語での呼び方のひとつに「New Media Art」がありますよね.何か新しいメディアを利用した美術ということです.で,この「ポスト・インターネット」において,インターネットはもはやニューメディアではなく,ニューが取れたただのメディアに成り下がった.こうした瞬間に起きる現象については,過去の美術史などを参照していくと,いろいろ面白いのではないかと思います.

畠中:いま「New Media Art」という言葉が出たけれど,「メディア・アート」というのは,たとえば80年代ぐらいだったら,「マス・メディア・アート」だった.それでいま,「インターネットはマスなのか」,言い換えると,「インターネットの世界と現実の世界とではどちらが広いのか」という問題系があると思うんです.その,どちらが広いのかという問題を考えたときに,それこそインターネットの中にあるマッシヴ・データっていうような膨大なデータの塊はマスなのかどうなのか,という疑問が沸き上がってきます.マスという概念を支えるものは単に数の多さなのかどうか,揺らいでくる.

谷口:たとえば,川島さんの《10000セント》もそうだと思うんですけど,旧来の(マス)メディアっていうのは,陳腐な言い方になってしまいますが,一方向ですよね.ある1カ所から発信されて,それをみんなが受容するっていう.そうするとそこで想定される受容する主体の在り方がどうしてもマスとしてしか立ち上がらないわけですよね.だけど,いま,インターネットで活動している人たちって,これまたものすごく陳腐な言い方になってしまいますけど,双方向ですよね.ただし,それぞれが一方向であるという意味での双方向ですが.で,そうなってくると,それぞれがマスとしても存在するし,かつ,個人としても存在していくっていう両面ありますよね.それがまさに今回のキャプションの中にも書いてある,APIを介した人間のデータへのアクセスの仕方っていうか,そういったところにつながってくるのかなと思いますね.人間のスケールや形が可変であるとも言えるような.

畠中:《10000セント》の制作に用いられた「Amazon Mechanical Turk」も,なんだかんだいって人力じゃないですか.「メカニカルターク」の由来というのは,18世紀にあったチェスをするトルコ人を模したロボット(もどき)ですよね.そのロボットがどんなやつも負かせてしまうんだけれど,その中身を調べると,人が入っていたという.その話ってすごいインターネットとも近いなと思うんです.つまり,マッシヴ・データっていうのはどうやって作られているかというと,実は人力なわけです.いまではユーザーのいろいろなふるまいによって,インターネットの中での情報が動いているっていうことが起きているわけだから,インターネットにつながってる/つながってないっていうのは「ポスト・インターネット」の状況ではあんまり関係ないということになるのかな.

渡邉:今となってはそもそもつながっていない状況をつくり出すことのほうが難しいわけで,その難しさはこれからどんどん増していくでしょうね.

畠中:なんか「接続する」という行為に対する感覚も変わってきて,かつては接続したときに世界が生まれるような感じがあったと思うんです.接続しないと,(インターネットの)世界は存在しなくて,接続したときに,世界は現われる.でも,今は,接続する/しないに関わらず,それはもうあるんだよね.常に情報のレイヤーとして存在してて,接続する/しないっていうのは,単にそれを見ない/聞かない,というレベルの話だと思うんですね.そういう違いは出てきたかなっていうふうに感じます.

(千房登場)

千房:どうもこんにちはー. 急に飛び入りしたので,ぜんぜん話の流れを理解してないんですけど(笑) 今日っていろんなおもろいやつらがいっぱい来てるんで,もっとココに巻き込みたいんですが.

渡邉:いまTwitterでハッシュタグを追っていたら,アニメのキャラをアイコンにした匿名アカウントがスパム的に投稿していました.この展覧会は呼び寄せてしまっているみたいですね.人間なのか,データなのかわからない存在たちを.

谷口:あと,サザエBotという,サザエさんの体をなして説教臭いことをつぶやくTwitterアカウントがあるんですけど,さっき「ICCなう」とつぶやいていましたね.Botが来てるのかよっていう.

渡邉:この内覧会を機にBotも人間も区別なくハッシュタグに群がり始めてきていて,非常に幸先が良い,良い流れですね.この展覧会の展示作品って,インターネットにつながっていないこと以外にも,インタラクティヴ性が皆無であることと,どれもプロセスが前面に出てきている,という共通点がありますね.たとえば,二艘木さんの作品は会期中,描き足されていくわけだし,ぷりぷり君やタイプトレースもそう.それに,《10000セント》《ナチュラル・プロセス》みたいな特殊なプロセスが作品に織り込まれているというものもある.そのせいか,全体的になにか会場に気配のようなものを感じますね.

谷口:そういった問題と,Botがいっぱい集まってくる感じがなんだか近しいのかな.

畠中:あと,ちょっと言い忘れてたんですが,この展覧会,1回チケットを買うと,何回でも入れます.たしかにいまの状態は,あるはずの絵が無かったり,パーカー・イトーの《インターネット史上最も悪名高き女性》も3枚しかない.でも,会期中にいろいろ届いて,様子がどんどん変わっていくはずです.

千房:うちの展示も進展があるかもしれないですよ.和解が成立すれば.

畠中:時間も迫ってきてるんですが,とりあえずここでのトークは前振りみたいなものですから,ここで話されたことっていうのはこれから座談会なのか,あるいは会場でなのか,あるいはシンポジウムでなのか,なんらかの形で議題になっていくはずです.

渡邉:今後もここでずっとイヴェントをやっていくわけですよね.こういうしつらえを用意した以上は.

畠中:そういえば「インターネット・リアリティ研究会」って名前変えるの?

渡邉:なんでですか?

畠中:展覧会の副題が「ポスト・インターネットのリアリティ」になっているし.

渡邉:いやいや「インターネット・リアリティ研究会」でいいんじゃないですか.だってそっちのほうが裾野は広いと思いますし.

畠中:そうそう,だから,最初の目標に戻って,いや,戻る必要はないか,つまり,インターネットにあるものはインターネットで見るのが一番だっていう…….

千房:つまり,インターネット展もやるぞってことですよね.

畠中:そっちの方向を突き詰めて行くとどうなるかっていうのをこっちではやるわけよね.

千房:そうですね.実はインターネット展の話をみんなでしている方がいっぱい作品例が出てくるんですよ.みんなネット・ジャンキーなんで(笑)

畠中:やっぱり,今回こうやって難しかったのは,空間という条件ですね.

千房:だから今回のセレクションはそういう意味でほんとに空間性っていうのをちゃんともっている作品っていう,それに限定して探していくとやっぱりなかなかないっていうか,難しいんですよね.

畠中:にしても,まぁ,この短い間でこういう作品が選べて良かったなと思います.そして,これから先,誰かほかの人の作品が現われるかもしれない.

千房:youpyとかね.

畠中:そうそう,youpyみたいなね.

【終わり】