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2005年10月21日(金)—12月25日(日)ギャラリーA,B,5Fロビー,エントランス・ロビー
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展示作品(会期中,一部作品の展示替えがあります.) |
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飯村隆彦
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《くず》
"Kuzu (Junk) "
1962年
R8ミリ/16ミリ, モノクロ, 12分
音楽:小杉武久
《視姦について》
"On Eye Rape"
1962年
16ミリ, モノクロ, 10分, サイレント
《AI(Love)》
1962年
R.8ミリ/16ミリ(ブロー・アップ),モノクロ,15分
音楽:オノ・ヨーコ
《リリパット王国舞踏会》
"A Dance Party in the Kingdom of Lilliput"
1964年
16 ミリ, モノクロ, 12分, サウンド
これらは,いずれも飯村がフィルム作品を発表しはじめた頃に制作された作品である.
《くず》では,東京の晴海海岸に捨てられていたゴミや動物の死骸が,カメラで拾い集めるようにして撮影されている.風や波によって崩れていくモノの形だけでなく,さまよい歩く作家が影として映り込んでいる.断片的な表現の手法からは,当時飯村が詩に強い関心を寄せていたことも感じとれる.
また,《視姦について》は,中西夏之が拾ってきた科学映画のフィルムに丸い穴を穿っているために見るべき対象が失われ,鑑賞者は光の点滅を見つめることになる.フィルムを物質的に扱う「メタ・メディア」的な手法がすでに試されている点が興味深い.さらに一方で,生物の生殖というテーマを秘匿するポルノグラフィが意識されている.
絡み合う男女の肉体を至近距離で撮影し続ける《AI(Love)》は,官能的な詩のような作品で,オノ・ヨーコが窓からぶら下げたマイクの捉えた音を使っている.
この頃盛んだった前衛芸術家たちの「ハプニング」を想起させる《リリパット王国舞踏会》は,ユーモアに満ちているが,既存の価値観へ抵抗する態度にシュルレアリスムやダダなどの影響を色濃く認めることができるだろう.
まだヨーロッパの前衛実験映画が日本では充分に上映されていない頃から,社会の周縁部へ着目することや,個人の疎外感を描くこと,メディアの物質性を露わにすることによって作品を制作していた点が興味深い.
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《シャッター》
"Shutter"
1971年
16ミリ,モノクロ,25分,サウンド
外部の世界を撮影し,それを上映するはずのフィルムから再現する内容を取り払ってしまった作品である.これ以前には,文字を直接フィルムに書いた《ホワイト・カリグラフィー》(1967)でも似た試みをしている.フィルムの入っていない映写機がそのままスクリーンに投影する光を,カメラで撮影している.撮影されたフィルムには,映写機と撮影カメラのフィルム回転速度とシャッター開閉がずれるために,フリッカーのような光の明滅が生じる.あいだに挟まっている黒い余白の部分に反応して音が同期するようになっている.
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《タイミング 1,2,3》
"Timing 1,2,3"
1972年
壁に各100フィートのフィルム3本が平行に貼られている.1本目は無音のフィルムで,1秒24フレームの間隔で黒のマーカーによる線が引かれている.但し,上映/展示フィルムはそれが反転され黒バックに白い線となる.2本目は2秒ごとに,つまり48フレームごとにサウンドトラックにも線が引かれている.3本目で引かれる線は,画像は毎回1フレームずつ間隔が延びてゆき(24,25,26……フレームずつ),音は最初と2番目だけ1秒24フレームが繰り返され,その後,同様に間隔が延びてゆく.そのため,画像と映像の間のずれは少しずつ大きくなってゆく.さらに,これら壁に貼られたフィルムの上に,同じフィルムが実際に投影される.
映像を再生するメディアが内包する〈時間〉は,本来「経験」するものであるが,それを投影すると同時に,壁に留めることで可視化させている.
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