InterCommunication No.15 1996

Feature


第三の美術館 4/6

在のネットのなかの美術館について何を言えば良いだろうか? 美術館のディレクター,キュレーター,また画商も,インターネットがひょっとしたら100万人の人々に作品を見せられる場所であるということは知っている.実際,今やおびただしい数の公立美術館,大学のアート・センター,民間のギャラリー,アーティスト集団,文化事業に関わる企業家,個人経営のディーラーなどがWeb上にサイトをもち,オンラインの展覧会を開催し,カタログや批評を公開し,ネットのデータベースにアーカイヴやコレクションの場を作り上げている.オンラインでアートを眺める行為は,現実の生身の身体をもってアートを見る行為に取って代わろうとしているかのようだ.そしておそらく,さらに意義深いのは,ヨーロッパのもっとも古いギャラリーの絵画コレクション,つまりアルデーシュのコンブ・ダルクの先史時代絵画が発見されてから1カ月もたたないうちに,フランス文化省のホームページでその素晴らしい全容に触れることができるということであろう[☆1]
実の物質性を備えたアート作品をネット上に載せることに関しては,言うべきことはあまりない.もちろん,具体的な形をもつアート・オブジェから儚いデジタル・イメージへと移行すれば,そこに歪みも生じてくるだろう.しかも画像解像度は今のところあまり高くない.だが,シャルトル大聖堂を設計した人々は気づいていたことだが,透過光を通して眺めるイメージは反射光による表面よりも,はるかに人の眼を捉えるものなのだ.そしてさらに,公立私立を問わず世界中の美術コレクションに収蔵されている歴史的産物の偉大な遺産は,植民地時代の窃盗や略奪の結果得られたものであることが少なくない.地球規模のアクセスの可能性に向けて解放することで,それを世界に返還できるのであれば,これは決して些細なことではない.ヴァーチュアル空間でのネットワーク・ナヴィゲーションは使いやすくなってきている.地理的にどこにいようと,大英博物館やマドリードのプラド美術館,コナーラクの寺院,カラカスの近代美術館を訪問するのに距離が妨げとなることはない.この現状はデジタル・ミュージアムの第一段階だとも言える.
して,第二段階として,デジタル・ミュージアムに相応しい類のアートもまた存在する.それは顔料やキャンヴァス,スティールといった物質から生まれたのではなく,最初からコンピュータのスクリーンのために生まれ,ピクセルで構成されている作品である.こういった作品の場合,即時的な世界中の消費に向けてネットに載せることはた易い.美学的に言えば,こういう作品は伝統的な意味における絵画やドローイングとさほど違っているわけではない.一つの絵がレンダリングされ,形態が構成され美的合目的性に従った作品が生み出される.こういった作品を操作することはできるが,基本的にこれは閉ざされた世界を形成している.第一,第二のいずれの場合でも,ネットは配送システムに過ぎず,資料保管所や所蔵品のカタログの域を超えたものではない.伝統的な造型芸術に対する挑戦でもなければ,それらの伝統的作品がただの余剰品であることを明らかにもしない.今までのギャラリーのメカニズムでは到達しえなかった地球のさまざまな部分に手を延ばしながらも,こういった類の美術館は単に美的イメージや概念の貯蔵庫を拡大しているに過ぎないのである.これらのプロジェクトを「デジタル・ミュージアム」と呼ぶのが昨今の流行らしいが,こうした用語は暫定的なものでしかなく,実際には撞着語法なのである.「デジタル」という語は,流動性,一過性,非物質性,そして変容を意味するのだが,「ミュージアム」という言葉は常に,固体性,安定性,永久性の側に立つ言葉だからだ.


[前のページに戻る] [次のページに進む]
[最初のページに戻る] [最後のページに進む]