InterCommunication No.15 1996

Feature


第三の美術館 5/6

ットのなかだけに,ネットのために,そしてネットによってのみ存在するアートがある.第三の美術館の一部となる運命を担ったアートである.それは,美術作品を眺めるためのデジタル回転プロジェクターのようなビデオ端末機としてコンピュータを使うのではなく,操作するためのスクリーン,つまりひとつのインターフェイスとして使う.そしてイメージ,テキスト,サウンドの操作と変容のプロセスのまっただなかに入っていくことを可能にする.形態の動きや外観の審美性に関わるのではなく,むしろ行動の形態,出現や生成の美学に深く関わるものである.あなたという参加者のインタラクションは,マルチメディア化された形態と意味の多重性とともにあり,まさにこれは,意味の創造を通してアートの創造に積極的に参加する観客のための美術館なのだ.ネットのなかでは,見ることは所有することにほかならない! ネットのどこからかあなた固有のインターフェイスに届くものは,それがイメージであれ,テキストであれサウンドであれ,全てはあなたという参加者が自分のために保有してよいものである.さらに重要なことは,それはあなたが変容させるべきものでもあるということだ.見る人の手による変容こそが,この美術館にとっては基本的機能の決定因子となるのである.
ァーチュアル・リアリティは,随分長い間,21世紀の美術館の規範として取り沙汰されてきた.現在の美術の状況は無味乾燥で味気なく,しかも何故か湿潤な自然と比較されることが多い.だが,アーティフィシャル・リアリティの出現をほのめかす兆候が表われてきている.私はそれを,「超自然的リアリティ」ないしは「第二の自然」と呼びたいのであるが[★4],それは本質からして湿り気を帯びている.人工生命のテクノロジーや,原子および遺伝子工学により操作された分子を扱うナノテクノロジーに根ざしたこの湿り気を帯びたリアリティ,つまりポスト生物学的リアリティにおいてこそ,生命に近い振る舞いが立ち現われてくるのだ.私たちは,今までは決して扱ってこなかったさまざまな力を扱い,以前には感じることのなかった物事を感じとる,そういう地点に近づきつつあるのかもしれない.ここで再び軽部征夫氏の言葉を引こう.「気功術が流行しています.私でさえも,自分の力を使って静止した紙の切れ端を動かすことができるのです.ほら,こんな具合に! このエネルギーは,ひょっとすると全く異なった理論を基礎として作動する量子センサーを使えば,測定することが可能かもしれません」[★5]
ートとサイエンスが真に収斂する場とは,私たちの時代の文化のこの段階にこそある.そこでは私たちもまた単に表現する者,分析する傍観者としてではなく,アーティストたちと同じく革命的変革の共同作業に参加するようになるだろう.私たちの脳から漏れて流れ出し,地球という惑星のあらゆる部分にまで入り込んでいくかのように,知性が浸透した世界.ここにこそ人工的なエージェントとアルゴリズムによるアセンブリー,セルラー・オートマトン,デジタル共同体によるアートが存在する.それは,ネットの混沌とした連結性から自発的に発生する組織から生まれた,いかなる「各部分の行動の責任をとるべき全体統括者の存在」もなく,クリス・ラングトンの人工生命の定義を使わせてもらえば,「ボトムアップによる自律分散的,局所的な行動の決定」[★6]とともにあるネットワークのなかで,成長し,拡大し,多様化し,拡散し,再生産していくアートなのだ.


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