光に触れる意識 |
佐々木── 最近出会った脳卒中の60歳過ぎの女性が,2年前から右側の手足が麻痺していて,目では知覚できても触覚ではものを認知できなくなったんですが,見ればわかる大きな皿に手で触れてもわからないらしいのです.そうなって何が変わったかというと,ものを視覚で捕らえていないと体が消えてしまうような感じがするそうです.暗闇が非常に怖くなったと言うんです. タレル──暗闇は非常に柔らかいもので,人はその中に溶け入ってしまうような感覚をもつときもあります. 佐々木──その人に会って,暗闇と光がそれぞれ独自の身体感覚を伴っていることを改めて知りました.もう一人出会った別の女性は弱視でほとんど視力がなくて,片眼に少しだけ光の感覚がある.視野が狭くて,その片眼のほうも下方しか見えない.その人が地下街だとまっすぐに歩くことができるのです.どうしてかを調べましたら,彼女は天井にある蛍光管が床に映ってできる光の配列を使っていました. タレル── 日本では歩道に黄色のブロックを置いていますね. 佐々木── 彼女の視覚はコントラストが十分でないと,歩道のブロックが見えないほどなのですが,地下通路だと「光の川」が見えるのです. タレル── 私にとって興味深いのは,われわれは感覚をあたりまえのものとして捉えていますが,感覚に障害のある人たちこそが,感覚について多くを教えてくれるということです. 佐々木── 前回のインタヴュー[★1]でも僕は,盲人のナヴィゲーションの話をしたのですが,そのときタレルさんが話されたことで一番印象に残ったことは,「perceptual jump(知覚の跳躍)」ということです.タレルさんは上空でのパイロットのナヴィゲーションの例をもちだされて,パイロットは地上での身体感覚を無視しなければ新しい航法を習得できないとおっしゃいましたね.すべてが見えているのに一旦は道を失うと. タレル── 文化的な側面においてわれわれはなんらかの跳躍をすることがあるし,信念/信仰についても同じことが言えます.それは必ずしも進歩というわけではなく,人生において新たに必要とされていることからしばしば起こるのです. 佐々木── 僕は弱視の人とか手の麻痺した人からそれまで知らなかった光とか暗闇の意味について学ぶことができたのだけれども,水戸芸術館でのタレルさんの個展[★2]に行って,《ゾーナ・ロッサ》や《バックサイド・オヴ・ザ・ムーン》を見たとき,「自分ではない身体が見た世界」がそこにあるなあということに気づきました. タレル── そう言ってくださるのはうれしいですね.私はあなたに,そして他の人たちのために,体験する場をつくっています.そしてそれが「何か」であること,体験する価値のあるものとして真剣に受け止められることを願っているのです. 佐々木── 今日最も伺いたいのは「知覚の跳躍」と言うことです.身体を一度無効にすることについてです.人はあなたの作品を前にするときにまず,怖いという感じがするかもしれません.いままで見たことも体験したこともない世界に足を踏み入れるからです.そして見ることのジャンプを体験することになるのだと思いますが.
タレル──怖い思いをさせてしまっているとは申し訳ない気持ちです.人に対して有害な体験であってほしくはないのですが.しかし,そこには私がいうところの「入場料」というものも存在しますね.この入場料というのは,自分を任せて従うことなのです. 佐々木── タレルさんの作品は,遠くから眺めるのではなく「目で触れる」ことを求めている.光と目のとても弱い接触をつくっていらっしゃる. タレル── 以前にもお話しましたが,私は光の明度を低くすることを好みます.人をオープンにすることを促すからです.そして人がオープンになったとき,感情は目から接触のように流れ出します.もちろん自分をオープンにしたときにはゆっくりとした調整が必要です.そうしないと,午後の早い時間に映画を観て出てきたときにまだ陽が高く,光を粗暴なものに感じるでしょう.だから,人をオープンにさせるときはとても気をつけないといけないのです. |
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