ICC

インターネット・リアリティ研究会「インターネット・リアリティ」

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座談会「インターネット・リアリティとは?」

日時:2011年7月24日(日)午後6時

出演:エキソニモ
思い出横丁情報科学芸術アカデミー(谷口暁彦+渡邉朋也)
栗田洋介(CBCNET)
youpy
畠中実(ICC)

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前半

後半

「ゴットは、存在する。」——サーヴィスのもっている力を利用する

畠中:では後半といいますか,第二部かな? ひきつづき座談会をやっていきましょう.前半で,「ウェブ・サーヴィスによって形成されるリアリティ」という話がでましたけれど,後半はちょっと方向を変えて……みなさんが作品を作るにあたって参照される他の作品とかもあるでしょうから,そういったものも含めて,表現としての「インターネット・リアリティ」ていうかな? を感じるものとか,そのへんについて話しあってみたいと思います.どうしましょうか,千房さんから?

千房:表現……うーんなにがあるかな……

畠中:たとえば,さきほど《SUPERNATURAL》の話がありましたけれども.あとucnvさんのYouTubeの作品とか.

千房:じゃあれはどうでしょう,《噂》ってやつ.これは「ゴットは、存在する。」っていう展覧会をやったときに作った作品で.

千房:モニターが天井からぶら下がってるんですが,そこにTwitterの画面みたいなものが流れてます.それをよく見ると,「ゴット」ということについてみんながつぶやいている.見てると「ゴット」っていうのがあたかも存在するように見えるんだけど,なかでやってることは実は「神」という言葉をTwitterでサーチして,その「神」を「ゴット」に置き換えて出してるんですよ.つまり,この作品とは関係なく「神」という言葉をつぶやいた人たちのつぶやきが「ゴット」に置換されて流れているんです.やっぱりTwitterが(この作品を作るうえで)すごい前提になってて.(Twitterのサイトならば本来画面左上に出てくるべき)Twitterのアイコンが壊れてて出てないんですけど,それでもみんなこの画面を見た瞬間にTwitterってわかる.あと,この流れてくるスピード……このスピードの速さで感じる……ある感覚っていうか.ただ文字が出てくるだけなんだけど,ツイートをしたことがある人から見ると,こんだけの人がこんだけツイートしてるってことの,すごいザワザワ感みたいなのが感じられるじゃないですか.Twitterのストリームの“のどごし”みたいな.

(一同笑)

千房:その感覚が作品にできると思って,やったんですよ.あと,これただ「神」を「ゴット」に置換してるだけで,よく見るとほんとにおかしいんですよ.「ゴット奈川県」とか「東方ゴット起」とか(笑).ここでやってるのって,実は小説だと思ってて.つまり,ふつうに正しいTwitterのタイムラインが流れてくるっていうのは,いまのこの世界を反映してるじゃないですか.でもそこをちょっと書き換えるとフィクション……ゴットが存在する世界が,これだけで表現できちゃうっていうか.それだけで小説を一つ書くぐらいのことが実現できるっていう.だから,そういうサーヴィスのもってる力みたいなものをすごい使ってやってる.これもほんとTwitterみたいなことをみんながやってるからこそ,できるようになった作品ですね.

畠中:これそれぞれ書いている人は別になんの……他意もないですから(笑).自分の書きたいことを書いてるだけだから.

千房:そうそう.

畠中:「神」という漢字と,あとなんだっけ? 「God」もそうだったっけ.

千房:そうですね,「God」とか.「God」も「Got」に置換したりとか.

畠中:あとなんだっけ,ネ……

千房:あ「ネ申」(笑)? 「ネ申」も「ゴット」に置換される.ネットの世界で「神」ってすごいよく使われるじゃないですか.「神曲」とか「神動画」とか.それもすごいおもしろいなと思ってて.あと「ゴット」っていうのも引っぱってる.だから展示に来た人が「ゴットなう」みたいにつぶやくと,それも出てくるんです.

畠中:これは「ICCメタバース・プロジェクト」の展示のときに作ってもらったものですね.

千房:そうですね.つぎに《祈》という作品ですが……

千房:これはマウスを二つ合わせてあるんですが,マウスって手のイメージと結びつくじゃないですか.このようにマウスが合わさってると,祈ってるように見えちゃう.実際は,祈ってるということはまったくないですよね.ただマウスが二つくっついてるだけ.でもそこからイメージとして「祈る」ってことが起きる.しかも,これはほんとに偶然だったんですが,光学式マウスを二つくっつけたらカーソルが勝手に動き始めたんです.「祈りが通じて奇跡が起きた」みたいな(笑),その瞬間がつかまえられたっていう作品です.これは僕らのなかではオブジェなんですよね.置いてあるのはほんと,パソコンのふつうの機械だけなんですけど.でも情報のオブジェだと思ってます.
 この画面に映っているのは,「PRAY」でGoogleイメージ検索した結果です.いろんな人が祈ってる画像があって,その上をカーソルがピクピク動くんです.画像の上にくると指(のアイコン)になったりとかするんです.別にクリックもしないし,なにも起きないんですよ.インターフェイスって,本来はなにか反応するためにあるわけじゃないですか.マウスクリックして,次のページを開くとか.そういうのを全部剥奪している.製作中は試行錯誤のなかで,カーソルの軌跡で絵が描けるとか,マウスが乗ったら変化が起こる——音が鳴るとか——ようなのを,いろいろ試してみたんです.でも全然おもしろくなくて.崇高じゃないんですよ.ただ検索結果があって,その上を動いてるだけでその先がないのが一番崇高な感じがして(笑).「これヤバい!」って感じで……そういう感覚で作りました.

「ゴットは、存在する。」(を構成する作品のひとつ《化身》)……これは,メタバース空間に一人のアヴァターがただ立ってる.会場では,キーボードとマウスが誰も触れないようにケースに入れられて立入禁止のロープが貼られた状態で展示してあって……誰もコントロールできないアヴァターだけが立ってるという状態.これは彫刻作品だと思ってて.

畠中:笑

千房:いままでの僕らの展示は,電動工具使ってわーっとか,物質的なところをすごいいろいろ作って,表面がけっこう激しかったりしたじゃないですか.パワフルだったりとか.そうすると,観る人はそこに目を奪われて,実はその裏で情報空間でひねったりしてるということに気がつかれないっていうところがあって.「あれすごいカッコよかったよ……見た目が」みたいな(苦笑),そういうとこで終わっちゃうのがすごいイヤで.だから「ゴットは、存在する。」では表面を完全にとっぱらって,むきだしのコンセプトただそれだけをやってみたんです.これはけっこう賛否両論で.

畠中:以前は展示するときに,いろんな物質感のあるようなものを取り入れてたっていうのは,やっぱりなんかそういう……不安があったわけね(笑).

千房:そうじゃないですか(笑).

畠中:質感みたいなものが足りないっていう思いがあったってこと?

千房:そうじゃないですかね.どんどん過剰になってくのって,どっかに恐怖心とか不安があって,それを乗り越えるために展示会場でずっと徹夜してガンガンガンガン,モノ組み立ててっちゃうみたいな.

畠中:さっき強度という話があったけれども,ネットでだけ,あるいはコンピュータだけでなにかをやっているということに対するある種のものたりなさへの,一種のサーヴィスとしてやってたというわけですね.でももうちょっとその考えを深めていくと,もう「これでいいんだ」といい意味で開き直ったというか.メタバース空間に立ってる人,あれはまさに3Dのモデルだし,実際に3Dのデータを——とりあえずね——もった,人型でしょ.だからそれは三次元の……マッスはないけれども,そのデータは一種の彫刻だと.

千房:あとは,データつまりアヴァターとインターフェイスがネットワークでつながってる.そこまで含めた立体物っていう感じがしてて.

畠中:そこはもうつながってるもんね.空間のなかの人とね.

千房:接続されたキーボードやマウスまで含めた全体が,モノ,オブジェクトみたいな感じがしてて.それを誰も触ることができない状況にすることで,触れない,誰もコントロールできない人間みたいなものが,神のような存在になるんじゃないかみたいな(笑).

インターネット空間ならではの歩き回りかた

畠中:これからやろうとしてるのはさらに先にいった,もう展示空間がなくても成立するような展覧会.そういうインターネット・オリエンテッドな展覧会を,構想するとしたら? っていう話になってくるわけですよね.

千房:さっき,既存のネット展への違和感について話してくれって(TwitterのTLに)あったんで,ちょっと話しましょうか.普通の展覧会って,たとえば展覧会場に行った時点ですごい特別な空間に入ってる.そのうえで展示会場を歩いて,作品に出会うわけじゃないですか.そういうことのデザインがちゃんと練られているような気がしてて.歴史があるっていうか.で,観終わって会場から出てくると「ああなんかいい経験した」みたいなことになってるんですけど,ネット展だと,たとえば作家名があって作品(へのリンクを)クリックすれば見られる.それを見て,観終わって閉じて,また次クリックして見て……ということが,作品を見るうえで作品が特別なものに見えないというか,クリックするという行為の意味や重さと作品を観るということとの関係性がつりあってないような感じがしてて.やっぱり,作品とどこで出会うかみたいなこととかも全部含めて成立してないと,いい体験にならない気がするんですよね.

畠中:美術館を順路どおりに見ていくっていう現実世界の経験の代わりをインターネット上で展開してもダメで,そこではその空間なりの,つまりインターネットの空間なりの歩き回りかたがあるはずだっていうことになりますよね.

千房:そうですね.

畠中:それはなんなのか? っていうと,たとえばさっきから言ってるように,サーヴィスのあり方みたいなものとちょっと絡んでくるかもしれないし……

youpy:あとブラウザの拡張とか,そういうのもあると思いますね.

畠中:そこで,どういうことが考えられるんだろうっていうことなんですけど.

栗田:インターネットは自分の意思でクリックできて,基本的に自分の行きたいところに行けるけど,逆に他の人との共通体験を感じさせるのが難しい.展示だと,みんな同じ空間を歩くわけで,そういう設計がされてますよね.

千房:でも例えばTwitterのタイムラインで見たリンクをクリックするっていうのと,やっぱりちょっと違うじゃないですか.そこで急にブワッて出てくると,それはそれで特別な出会い方ができたりするとか.なんかそこらへんの……たぶんデザインのような.

畠中:なんかないですか,思い出横丁は?

渡邉:座談会の最初の方でも,これまでのネット・アートの展覧会は,実際の美術館での展覧会の劣化コピーだという話がありましたが,まさにそのとおりだと思うんですよね.美術館の成り立ちを改めて振り返るまでもなく,美術館はそこに行くこと自体がある種のイニシエーションのような体験ですし,そこから先,建物の中に入って,展覧会場で順路に沿って美術作品を鑑賞していく,といったこともイニシエーションだといえるでしょうし.それに比べてインターネット上でアートと呼ばれるものを体験するときの経験の強度はたしかに低い.もちろん,そういったイニシエーション的経験が必要なのかという問題もあります.そういえば,ICCの最初の企画で1991年に「電話網の中の見えないミュージアム」という展覧会がありました[※17].僕はリアルタイムで体験していないのですが,これは電話やFAXで専用の番号にアクセスしたり,パソコン通信で専用のフォーラムにアクセスしたりすると,アーティストが制作した楽曲や画像,映像,インタラクティヴ・コンテンツなどを体験できるというものです.電話はともかく,当時はFAXがようやく家庭に普及し始めた状態で,コンピュータも一般的に普及しているとはいえない状態ですから,結構体験の強度は高かったんじゃないかなと思います.
 僕としては,もしいまインターネットで展覧会をやるのだとすれば,TwitterとかFacebookのタイムラインにbit.lyとかの素性の知れない短縮URLを流して,なんとなくそれをクリックした人のブラウザで突如として何かが始まるとか,あるいは展覧会の出品作品となる画像や映像を放流するTumblrのアカウントや,「インターネット・リアリティ」的なものをリブログしまくるアカウントを用意して,それをフォローした人のダッシュボードを占拠する,とかそういう感じがいいのかなと思っています.要するに,そういったSNSを通じたコミュニケーションが普遍的な生活様式の一部になり,日常の一部となっている.そこに作品を埋め込むことで,日常と展覧会が交錯した状況を作り出すのがいいのかなと思います.セレンディピティに訴えるというか.
 とはいえ,実際,谷口くんがおもしろい小作品をTwitterで色々と放流していますが,ある種のネタとしてすぐに消費されてしまう側面があって,favoriteが20個くらい付いて終わりっていう刹那的な感じですよね.それはそれでよしとして,小品を大量に生産するための枠組みを考えるか,小品を延命させる仕組みを考えるか,というのもひとつのポイントでしょうね.

谷口:イニシエーションがあったほうが,作品の強度というか観る体験が増すんじゃないかって話がありましたが,音楽でいえば,昔はレコードをかけるまでに,ケースから出し,プレーヤーに設置し,そっと針を置いて……と,ある種儀式的に聴いてたんだけど,いまはもうMP3でiPodに入ってて,好きな場所から好きなように,曲順もランダムに流しっぱなしで聴くようになっている.そのように鑑賞体験が簡易化,変化していく一方で,平倉圭のゴダール論では,DVDをパソコンで再生して,1フレーム単位の精度で観ていって分析をしていったわけですよね.そのように,コンピュータとかクリックの軽さみたいなことから,ボトムアップ的に鑑賞の体験の精度/制度が変わるような……キーポイントを見つけられると,もしかしたら変わるんじゃないかなという気がします.それがなにかはまだわからないですが.

畠中:いまのゴダール論の話ってさ,(従来の)映画を観る経験,体験とは乖離した話だよね.映画館でそういうふうに観ることはできないから.昔だったら,映画館に入って全部通して観る.それを覚えて(あとで)書くということがあったわけだけど,いまはDVDなりなんなりで観て,1コマ1コマ分析することができる.でもそれは映画を観るという体験とはちょっと違っていて,それがものを分析する態度と鑑賞する態度は別だっていうスタンスを生んだともいえて.だから,観ておもしろいということと,それを考えるために違う観かたをするっていうのは,別のものとして用意しなきゃいけない.で,いま我々がしているインターネットのリアリティだとか,コンピュータにおけるリアリティって話は,どうやら後者のことを考えているような気がするんだけど.それは,ある種メタな態度じゃないですか.

谷口:そうですね.先に栗田さんが話されていた,Web上ではみんな見るもの/見かたが違うっていう問題もあると思うんですよね.Webに比べたら,映画はまだそういった視聴条件の多様さの度合いが低いと思うのですが,それでも今「映画を観た」と言った時にそれは必ずしも映画館ではなくて,レンタルしたDVDかもしれないし,違法にYouTubeなどにアップロードされた画質の悪いものかもしれないし,iPhoneなどの端末で低い解像度で観ているかもしれない.視聴条件が多様になっていて,しかもそれがオリジナルな視聴経験に対しての代替としてという意識も薄くなっているんじゃないでしょうか.で,Webの場合はそもそもブラウザごとで見え方が違うのがデフォルトで,視聴条件を完全にはコントロールできないですよね.接続速度が遅かったり,マシンのスペックが低いと,まさに平倉圭のようにコマ送りにならざるをえないというか…….それで思い出すんですけど,JODIのソースコードに原爆の図面がAAで描かれているwebの作品あるじゃないですか.あの作品の場合,通常のブラウジングではなくて,ソースコードを見ることで初めて作品の全貌が理解できるんですよね.それは先述した視聴経験の問題でもあるのだけれども,見え方が多様にならざるをえない状況の中で唯一,同一性を保つソースコードに作品のコアになる部分を託しているんだともいえる.また,そもそもwebブラウザってかなり初期の段階から「ソースコードを見る」って機能があって,Netscapeとかはhtmlエディタの機能がセットになっていたりもして,視聴とか受容のありかたが,改変,創作するということも含めて多様というか,曖昧ですよね.

畠中:それが,ネット展というものの正しいあり方なのか? ってことなんですよね.たとえばさっき話に出た「電話網の中の見えないミュージアム」で使われていた電話やFAXは,その先の類似するテクノロジーを予見させるようなものとして出てきていたわけだよね.で,実際にインターネットの時代になると,画像はFAXじゃなくて,もっといいものでダウンロードできるという世界がきたわけじゃない? やる(企画する)側はさ,もう確実にそういう時代が来るっていうのがわかってて,当時のテクノロジーでその先のことを仮に体験させてあげるっていう,そういうプロセスがあったと思うんですよね.
 だから,メディアのもっている性質に忠実な見せかたをするということを考えるとき,美術館で観るのとインターネットで展覧会を——展覧会という名前自体いいのかどうかわからないけど——観る体験が違うという大前提にたつと,それは,いまある展覧会の観かたを置き換えるということではなくて,その先の展覧会の観かたというものが含まれているべきなんじゃないかという気がする.そういうものを構想するっていうことでもあるかなと思うんだけど.

千房:たとえば僕らも,ふだん勝手にやってるじゃないですか.ちょっとおもしろいスクリプトを書いたら,Twitterで「こんなん作ったよ」ってつぶやいたり,すごい日常のなかに入ってる.だからわざわざ展覧会やる必要あんのかみたいな話もある(笑).

畠中:それを展覧会とわざわざね,銘打ってやる必要があるかどうかっていう.

千房:でもその流れていっちゃう部分を,ひとつ(筋を)通すっていうか,「これはこういうもんなんじゃないか」みたいなのをズバッと言って,まとめるみたいな.まとめサイト的な(笑).

谷口:Togetterにまとめといたよみたいな(笑).

渡邉:実際,去年ぐらいからソーシャル・メディア界隈で「キュレーション」というキーワードがブレイクしていますから,逆輸入的にTogetterとかNaverまとめをつかったネット・アートの展覧会というのはアリかもしれない.さっき言ったような小品のすくい上げとか,延命にもつながりますよね.

千房:それをやるのがICCでだったら,意味があるっていうか,なんかそういう……権威じゃないですけど,あるんじゃないですか.野良でやってるのを……

畠中:苦笑

千房:……ICCが,展覧会としてリンクしたりすると,「あ,これはこういう見かたがあって,こういう考えかたがあって,こうおもしろいものがあるんだ」ってことが見せられるのかもしれないですね.

インターネットという制度/制約にアプローチする

畠中:始まる前にいろいろ話をしたりアイディアを出し合ったりしたなかで,ひとつ中心になる話題だろうなあというものは——さっきもずっと話してるけど——インターネットで展覧会っていう形式を再現できるかという話じゃなくて,なにかもうインターネットそのものが表現されてるようなもの.それは展覧会じゃなくて作品でもよくて.だから,こういうデジタル,あるいはインターネットっていう,プラットフォームみたいなのを使う作品においては,別に,これまでの美術のモデルを継承しなくてもいいだろうっていう.でその,メディア自体がもっている条件に忠実な存在のしかたとか,プレゼンスがあるんじゃないか? っていう話が中心だったような気がするんですけど.

谷口:そうすると,さっきのクリック(するという行為)が軽いって話も軽いままでいいってことですよね? 軽いままで,その条件に適合した作品や展覧会の作りかたを新しく考えるべきだ,みたいなことですよね.

畠中:でも,もちろんそのクリックっていうのを疑ってもいいんだよね.

谷口:ええ

畠中:疑うにせよ従うにせよ,うん……

千房:iPhoneとかTwitterのおかげっていうか,インターネットってまったく別物になっちゃったって感じがしてて.自分の……たとえばパソコンの前に座ってないとできなかったものが,もうどこでもつながってる.それってほんと劇的な変化だから.

栗田:ネット展をどうやるかというのとは別に,インターネットを題材にした作品をどう見せられるかっていうところもあると思うんですけど.インターネットそのものを使った作品て,解釈が難しいっていうか一般の人には伝わりにくいと思うんですが,それを——ネットじゃなくて展示会場でもいいんですけど——どう見せられるか? 物理的なモノじゃないものとか,いまのところプロジェクターしかないっていうか.そのへんも,考える余地があると思う.

千房:あと,ネットがそれだけ普通になってっちゃうわけじゃないですか.美術ってなんか美術館だから成立してるみたいなところあるじゃない? 別にたいしたことないものも,美術館に置いたらすごく見えて(笑),そこで価値がついちゃうとか.そういう,ギャラリーで見せることに最適化された作り方がされてるじゃないですか.ネット展って全然そういうことじゃない.ふつうの美術展だったら,朝コーヒー飲んだり新聞読んだりしながら,作品見てるわけじゃないじゃないですか.わざわざ来て,「ありがたく拝見させていただく」みたいな.そういうのとは全然違いますよね.やっぱ,その構造が.

youpy:展覧会には「そこに行かなきゃいけない」っていう物理的制約があったから,しょうがなく美術館というのが存在していたけど,インターネットになってそういうのが必要なくなったから,まあそういうのなくてもいいかなっていうか,うん.なくても……必要ないというか.

畠中:まあ美術館にある作品は,美術館になきゃいけない必然もあるんだけど,その……「本物」とかね.そういうのが当然あるんだけど,インターネットだったら,本物がある場所に一点しかないっていうことは条件としてなくてもいいわけじゃないですか.そうなると,どっかのリンクからとんできてもいいわけで,それこそさっきの非・場所,非・物質っていう特性が生きてくるっていうことですよね.
 美術館が制度だっていうのは確かにそのとおりだけど,一方では,インターネットもおそらく制度だから.制度っていうものに対してどうアプローチしていくかっていう問題は,美術館だろうがインターネットだろうが等しくあると思うんです.

谷口:美術館に行かなきゃ見られないのは,作品が物質的なものですよね.同じように,インターネットだったら「クリックして見なきゃいけない」っていうルールとか制約があると思うんですよね.そういった制約というか,どうしようもなさを引き受ける形っていうか,もしくはそれに対して抗うみたいなことを,なんか考えられないかなと思うんですけど.最小単位からこう,積み上げていけないかな,と.○○しなくちゃいけないどうしようもなさっていうのは,物質的な質感とか抵抗だと思うんですよね.そういったものを正しく捉えるってことが,重要なのかなという気がします.

youpy:YouTubeやVimeoのシークとかも,そういう制約のひとつだと思う.そのサーヴィスごとにインターフェイスが決まってるという,ひとつの制約で.そういうのをいかにずらしていくかみたいなところが,おもしろいのかなって.

谷口:そういう一種の物理現象に近いようなところがある気がする.たとえば,堀尾(寛太)さんとか梅田(哲也)さんの作品であったり,もしくはフィッシュリ&ヴァイスの……キッチンのテーブルの上とかでいろいろ食器とかを組み合わせる作品あるじゃないですか[※18].これらの作品に働く,どうしようもなさというか,制約のひとつとして重力があげられると思うんですよね.こういうふうに組み合わせたらものが落下しちゃうから,こういうふうな組み合わせでいく……っていう,重力との戦い,制約に対する戦いみたいなのものがある.そういった重力に近いなにか,制度みたいなものがインターネット上にどのような形で存在するかっていうことに着目してくっていうことが,ひとつ方法としてありうるんじゃないかと思うんですよね.

千房:物理現象ってみんなに共有されてるじゃないですか.だからピタゴラ装置みたいの見てると,こう期待してこうなるはずがこう裏切られたとか,そこでみんなけっこうおもしろがってる.ネットのリアリティっていうのはそれにけっこう近いのかもしれないですね.たとえば,ブラウザの上って左上が一番重要じゃないですか.ウインドウが可変だから.そこ(左上)だけ絶対動かないんですよ.重要なロゴマークってだいたい左上にあったりとか,あと左上に座標の原点があって,そこからXYが始まったりとかする.だからそこにすごい重力がある気がして(笑).それをみんな感じてると思うんですよね.

栗田:ブログだと,いまだに前のエントリーが右の矢印なのか左の矢印なのかって統一できてない問題とか(笑).

千房:そうそう.紙とかは多分強烈に,そういうのがルール化されてデザインされてるような気がするんですけど.ネットにもそういうのがすごい確立されてるというのがあって.物理現象に近いもの(笑)が,もう立ち上がってきてるような気がするっていう.
そのうえでなにかを……たとえばVimeoのなかにYouTubeが入ってるとか,ツイートの順番が入れ替わっただけで時空が狂ったように感じるとかっていうのをやると,なんかこう……重力が狂ったような(笑),そういうことがいまできるって感じがするんですよね.(「神」が)ゴットに置き換わってると違う世界になっちゃう(笑)とか,ほんと簡単なことをちょっとやるだけで,リアリティが変わっちゃうって感じがするんですよね.

youpy:それはやっぱり,みんながインターネット使って,身近なものになってきたからって,こと……

千房:かな……?

畠中:ある程度の共通なその……リテラシーっていうか,そういうものをもってその……「触ってる」ってことだよね.

千房:さらにいくと「GIFとJPEGどっちが硬い?」みたいな(笑).それはかなりマニアックな感じだと思うんですけど.

インターネットでできること/インターネットそのもの

畠中:最初に立ち返ると,「インターネット・リアリティ」って話で始まったけど,30年ぐらい前に「コンピュータ時代の芸術って何?」と言われたりしたのと同じように,いま「インターネット時代の芸術ってなんだろう?」って提起することができるかなぁと思うんですね.インターネット時代以降の芸術のなかにはインターネットを表現するというやり方もあって,たとえばインターネットで起こっているいろいろな話——N次創作とか——を図式化するみたいなことも,ある意味ではインターネットが普及した時代に特有の,時代に影響を受けた表現といえるかもしれない.でも,図式化するんじゃなくて,もっとそれそのものをずばり使っていくというやり方もある.構造化されてるものをどうやって使っていくか.さらしていくかといってもいいかもしれない.構造はなかなか見えにくいものだから,それをオープンにする,さらけ出してみせるというような.インターネット・リアリティという話の前に,みなさんが実際にいま取り組んでいる,この時代に特有な表現とはなにか,っていう話でもいいかなぁと思うんですけど.

千房:最初はたぶん,インターネットでこんなことができるようになったということで,もの作ると思うんですよ.でも,「できる」,つまり技術的な可能性とはちょっと違う表現があってもいいんじゃないかなって.そのインターフェイスをずらすことで感じるのとか,そういうのは「できる」ことじゃないじゃないですか.いちおう「できる」ことではあるけど,そこは中心になってなくて……なんか,インターネットでできることっていうより,インターネットそのものが環境になってるみたいな.

谷口:確か,APMT6のときに江渡浩一郎さんが,初期は《WebHopper》(1996)のようにインターネットを視覚化するような作品であったり,《RemotePiano》(1996–97)のようにインターネットからピアノが演奏できるとか,そういう「インターネットでできること」をやってきたって,ズバリ本人が言ってたんですよね.90年代から2000年代前半ぐらいまではそうだったと.そこで「できること」はひととおりやっちゃった感があって,場所や空間というか,qwikWebのようなサーヴィスや仕組みを作るほうに移行していったんですよね.さっきFlickrとかVimeoなどのサーヴィスの質感が……平野として立ち上がってきたって話をしましたけど,じゃあいまはその質感から立ち上げるっていうふうな,そういう三つめの段階にきてるのかなって気はするんですよね.
さきほど,ブラウザの左上が重要で,そこに重力があるんじゃないかっていう話がでましたが,そういった基本的な物理現象みたいな事の単位を前提に,ネット上で作品を見せる場がどのように設計可能なのかを考えられるんじゃないかなと思います.

畠中:「質感から立ち上がる」っていうのは,どういうことですか? VimeoならVimeoの質感から発想していくってことなのかしら.

谷口:初期のインターネットを使った作品は,やっぱりインターネットでできること,つまりコンセプチュアルにインターネットを読んで用いてきたと思うんですね.だけどいまは質感のレイヤーになっていて,絵画とか彫刻に近いような感じが……ここで絵画とか彫刻をひきあいに出していいのかわかんないんですけど,まあ近いようなことが起きてると思うんですね.たとえば,真っ白なキャンヴァスにとりあえず赤い絵具をまず,一筆目に置くじゃないですか.そしたら,その隣に何を置いたら気持ちいいかっていう,快感の度合いっていうか強度がある.それに応じて次の色を置いてくっていうふうな感じでコンポジションをするっていうのが,絵画とか彫刻の基本的な構成の単位になってると思うんですよね.例えばもっとわかりやすいのは音楽.音楽の場合,一個「ラ」って音を出したら,その周波数に対して整数倍で倍音が出て,その倍音に,物理的に共鳴する別の音が……心地いい音として響いて,それで調性とかが理論的に体系づけられていく.絵画とかの場合そこまで体系づけられていないけれども,心地よさとか,もしくは逆に不快感,不協和音みたいなものの,そういう小さな積み重ねというか,隣になにを置くかみたいなことの強度や弱度の積み重ねで進んでくところがあると思うんですよね.で,たとえばucnvさんのYouTubeのシークバーをVimeoにもってくるっていうのは,方法論としてはすごいコンセプチュアルだと思うんですけど,でもそこで感じる体験は,そういった質感のコンポジションだと思うんですね.なにかそういったことが,質感から立ち上がるってことなんじゃないかと思うんですけど.

畠中:ああなるほどね.ちょっといま,二つの軸が錯綜してるように感じるんだけど.例えばGIFとJPEGが質感として区別できるようになる——絵を描くのと同じように,デジタルな方法論を使って,同じような体系化された気持ちよさだとか美しさだとかっていうものを再現することができるんじゃないかっていうことと,さっきのVimeoとYouTubeの話っていうのは僕のなかでは若干ズレがあるっていうか……

谷口:もしかしたらそうですね,GIFとJPEGを隣に置くような,話をしてしまったかもしれない.

畠中:あえてVimeoのなかにYouTubeの質感をもってくるっていうのはむしろ……デペイズマンじゃないけど,異なったもの同士のぶつかり合いっていうやり方ですよね.だからなんか……僕のなかでは一緒にならないっていう気がするんですけど(笑).どうなのかな?

谷口:二艘木(洋行)くんの絵画とか,Paint FXだったりとか,Computer Club……

youpy:Computer Club Drawing Society

谷口:……っていうのは,単純にGIFとかJPEGでできる新しい質感みたいなことを追究してる方向がありますよね.さっきの例えはちょっと悪かったですね.ただサーヴィスの質感という問題はちょっと錯綜してる部分ありますね.ただなんかそのあたりが,質感から立ち上がることのヒントにならないかなとは思ったのですが…….

千房:VimeoのなかにYouTube置くっていうので……実はVimeo自体がすごく不自由だっていうことが見えてきちゃう.やっぱああいうウェブ・サーヴィスって,「できること」が開かれていくって方向性に向かっている感じがする.「このサーヴィス使ったら写真がこんなふうにできる」とか,ああできるこうできるみたいな.それに対してYouTube(のシークバー)があるだけで,そこの部分だけはすごく不自由だったことに気づいちゃうみたいな……なんかそういう感じがすごくしたんですね.すごくコンセプチュアルな.

畠中:そうですね.さっきの「インターネットでできること」と「インターネットそのもの」っていう言葉は僕,ちょっとひっかかってて.それすごい重要だと思うんですけど.「インターネットそのもの」こそが,まさにその,インターネット・リアリティでありインターネット・アート……インターネット時代のアートっていう…ことだとしたらね,いまその二つはどう……完全に切り分けられるのかって僕のなかでちょっとあいまいになってて,あの……ちょっとそこが…僕の中でまだ整理がつかないところなんですけど.

youpy:たとえば,Photoshopのエフェクトをそのまんま使ったものが,Photoshopでできることをそのまま表わしてるという……みたいなこと?

渡邉:そうだと思います.それと冒頭のプレゼンでも少し触れましたが,ああいうのって作られかたを読む感じがありますよね.なぜここにこの要素を配置したのかとか,このエフェクトを使ったのか,どのような快楽が描き手にあったのか,そういうことが手に取るようにわかる「気がする」.そうしたことがあまりにも見えすぎてしまうのがおもしろい.ちなみにいま僕,二艘木洋行さんがデザインしたTシャツ着ているんですけどね.お絵描き掲示板で描いた画像のTシャツ(笑).きょう,どこかでPaint FXとかの話をしようと思って.
 とはいっても,あの手の絵画というか画像の発表の形式って,異常にオーソドックスだったりしますよね.Paint FXの場合,Tumblrを使ってはいるので,それ経由で見る分にはいいですが,公式ページにアクセスすると極めてWeb1.0的というか,真っ白なページにひたすらimgタグで画像を貼って,brでスペースをつくってレイアウトをして……とか全然気の利いたヴューアーとかじゃないし,ソーシャル・プラグインなんてものもついていない.二艘木さんにしてもそうで,どこかの画像掲示板のシステムをそのまま発表の場にしている.

youpy:画像掲示板というローテクな技術を使うことで,なんか……違和感が際立つというか,それをあえてやってるような感じがします.

渡邉:そうですね.あと,画像掲示板って見る側も投稿できるように開かれてる場合もあるので,アクセスするとちょっと緊張するんですよね.ここで俺が描いちゃったらどうなるんだろうって.クラシックのコンサートで演奏中に叫んだらどうなるんだろう,みたいな感覚に近い.

谷口:あと,画像掲示板がサーヴィスとして若干廃墟っぽいっていう……

千房:ちょっと緊張するよね.

渡邉:それにお絵かき掲示板は,JavaやActiveXを使っていることが多いので,やたらロードに時間がかかったり,何か許可を求めるダイアログが出てきたりして,妙に不穏なものを感じさせます.

千房:笑

栗田:そうなると,それをうまくやった形がpixivになる,みたいな.普通になっちゃうけど.

渡邉:なめらかなコラボレーションだとか,あるいは人気みたいな他者との関係性の可視化を欲求するとpixivみたいなSNSになっていくでしょうね.

インターネットそのものによって変わる美意識/コンピュータの身体性

谷口:さっきの,畠中さんが言っていた「インターネットでできること」と「インターネットそのもの」の切り分けの不十分さというか,そのあいまいになっている点をもうちょっと掘り下げて,明確にしたいんですけど.

畠中:なんていうんですかね……さっきpixivの話が出たけど,pixivはたしかにインターネット・オリエンテッドな場かもしれなくて,実際にそこでイメージがたくさん生産されてるわけだけど.でも実際に(pixivで公開されている)絵だけを見たときに,それがインターネット・オリエンテッドかっていうと,そうじゃないかもしれないって思えるような部分もあるじゃないですか.そこのところの切り分けがどうなんだっていう.

youpy:僕は,(pixivは)あくまでインターネットを使って絵を発表してる場でしかなくて,それはインターネットとはあんまり関係ないというか,インターネットそのものではないという感じがする.

畠中:そうね,ストレートに言いたかったんだけど(笑),まあね……[youpyに]ありがとうございます.

youpy:pixivとかで発表するってことがインターネット活動かというと,全然違う気がする.

畠中:美意識だとかも,ごっそり変わりたいっていう気持ちもちょっとあって.だからさっきグリッチの話が出てたけど,いまグリッチだグリッチだっていうのは,なんとなくそういうのがね,ちょっとこう……感じられるからじゃないですか?

youpy:そうですね.そういう生々しさみたいな……

畠中:それがいままでの美意識だとか審美観みたいなものを,つきくずそうとしてると,いうような……感じ?

千房:pixivってたぶん,「できること」に近い気がする.絵描いてる人たちが,自分で発表するってすごく敷居が高いじゃないですか.それが簡単にできるよっていう……それはなんか,インターネットでできるようになったことであって,そのものを表わしてるものではないっていう.

youpy:それは,できたものがなにかっていうのは関係なくて,みんなでものを作っていくってことができる場であるってことですよね.だからそれが絵であろうとなんであろうと関係なくて.たまたまそれが絵だったっていう.

千房:できることのほうに中心があるっていうか.

youpy:そうですね.

畠中:そうだよね.

谷口:グリッチが……いま流行りぎみなんで(笑),ここで話すことに若干抵抗があるんですが,

(一同笑)

谷口:さっきの僕のプレゼンのなかで,自分が見ている主観とは別に,世界がただこうあるっていうさまを経験することがリアリティにつながるのでは,という話をしましたが,その為の契機として,ケガをするとか,しびれという事故のような出来事があると.それが,例えばカニエ・ウェストのPVを見ていたら,グリッチしてカニエ・ウェストとして見ていたものがただのデータ,ピクセルのかたまりだったことに気づかされる……というように,グリッチをそういった事故のようなリアリティの立ち上がる契機として位置づけられるんじゃないかなと.

千房:地デジとか見ててもそう……あれがなんかビビビッてなると,突然デジタル感が立ち上がってくる.

畠中:フィリップ・K・ディックじゃないけど,急に現実がさ,こうぼわぁっとぼやけてくるみたいな.その確からしさみたいなものが喪失するっていうか.

谷口:そういうただのデータに触れたときに,「リアルだ」って言うんだと思うんですよね.さっき言った,「僕が死んでもデータはあり続ける」……僕が生きてないと,ピクセル/データの集合であるカニエ・ウェストはカニエ・ウェストとして認識できないから,僕が死んでしまったらこの僕が見ていたカニエ・ウェストは見えなくなるかもしれない,でもこの僕とは無関係にデータは存在し続けることに対する,地続きのリアリティというか.

千房:なるほどね

渡邉:座談会っぽくなってきた.

(一同笑)

畠中:いろいろ散乱するなあ(笑).

谷口:難しいですよね.

栗田:グリッチでいま思い出したんですけど,僕の知り合いのデザイナーがフォトグラファーのサイトを作るときに,フォトグラファーってオリジナル・コピーをすごく大事にするから,オリジナルのJPEG上げたくないっていう話になったそうで.Flashサイトなんですけど,元データはグリッチしてる画像で,それをグリッチを修正するプログラムで表示させてるんですよ.つまり,データとしてはきれいなJPEGは(サーバに)ないんですけど,一般の人が見るFlashサイトではきれいに見える.そういうデザインをしている人たちもいたりしますね.

渡邉:暗号鍵と公開鍵みたいな感じなんですか?

栗田:そうですね.いわゆる暗号化して,Flashで復元してきれいになる.だから元のFlashたたいてソース見て,実際に読み込んでるJPEGにアクセスすると,グリッチした画像になっている.なのでサーバ上には——まあすぐスクリーン・キャプチャしたら取れちゃうんですけど——いちおうオリジナルはない.

youpy:あと,ucnvさんが,このまえグリッチについてのプレゼンをしていたんですけど[※19],JPEGにもいろんな圧縮形式があって,ほかにもPNGとか,全部同じに見える画像をそれぞれグリッチすると,まったく違う画像になったりとかするという,それがおもしろいなと.

渡邉:「仕様を読んでグリッチするのがマナー」みたいなことを言ってましたね.正しくグリッチしようっていう.

畠中:笑 なるほどね.

千房:「正しくグリッチ」ってなんだよっていう(笑).

渡邉:仕様を踏み外すと,画像がそもそも表示されないですからね.

千房:それだめなんだ(笑).

渡邉:要するに,JPEGがペケマークになっちゃう.

千房:ああ,なるほどなるほど.壊れちゃうってことね.

谷口:なんか物理現象っぽいところありますよね.

渡邉:そうそう,画像の形式を維持したままグリッチさせるためには,やっぱり仕様をしっかり読まないとっていう.

千房:生かさず殺さず的な(笑)

谷口:たとえば楽譜だったら,人間が演奏できないといけないっていう制限があって,その制限の範囲がその楽譜の身体性といえるかもしれない.そうすると,コンピュータに読まれるように画像形式を維持してグリッチするというのはコンピュータの身体性という問題とつながってくるかもしれない.

渡邉:そうそう,人間とコンピュータの身体性の差異に触れるというか,ヒューマン・インターフェイスの話としてもいろいろ考えさせられるプレゼンだったなと.

畠中:それはどこでやったの?

渡邉:Ruby会議っていうイヴェントですね.そこでucnvさんが場違い感あふれる感じで呼ばれて,プレゼンをされてたんです.「とっさのときにグリッチできるように」ということで,Rubyで動画をグリッチする便利なツールを開発されているということをメインで発表されていました.

畠中:さっき便利とアートって言ってたけどさ,じゃあグリッチって便利とか有用性とどうつながるかっていうと,ちょっとおもしろいよね.それこそもしかしたら,真にアートかもしれないし.有用性ということでいえば,グリッチの有用性って……

渡邉:乏しいですよね.でも,ucnvさんの場合は,□□□の「ヒップホップの経年変化」という楽曲のプロモーション・ヴィデオをグリッチ加工して,経年変化をグリッチで表わしていました.

畠中:なるほどなるほど

youpy:たぶんそれが手法として定着すると,やっぱりそれが便利とか,いうことになるんじゃないかって

畠中:それがスタイルになればね.

渡邉:テクノロジーを逆説的に使いだすと,それにふさわしい使い方が見つかるってことは,やっぱあると思う.「正しい誤用」というか.

畠中:むかしフィードバックを作るエフェクターがあったけど,そういうのだって,そうだよね.ほんとだったらアンプに近づけてやらなきゃいけないところを,エフェクターで作るっていう.たしかにそれが,なんかしらのスタイルになれば,それを作れる人は便利なものを作ったってことになる.

ネットのスピード感に対峙する——「なるべく手間をかけない」というスタイル

畠中:いまちょっと,どこに向かってったらいいのかってことなんだけど.インターネット・リアリティって言ったときに,いろんな要素がからんでくる.だから,それぞれの話をしたほうがよくて.これは次回以降も継続的にやってくものでもあるから,例えば,次回はなにかひとつテーマを絞って,それについて議論を深めていこうっていうもっていきかたもあると思う.今日はいろいろ出すっていう会にするっていうのは,ありかと思うんですけど.

youpy:なんかあとひとつ,やっぱり,どれだけ手間かけないかみたいなのもあると思うんです.

栗田:ああ

千房:うん

栗田:それはパーカー・イトーの最近の作品にも通じるところがありますね.

畠中:手間かけないっていうのはどういうことですか?

栗田:労力をかけないで作品を作る.

畠中:ああ,なるほどなるほど

栗田:これは最終的にはキャンヴァスの作品なんですけど,ここに描かれている女の子は——昔からインターネットやってる人だとわかると思うんですが——ドメインが失効したサイトに出てくる画像なんです.たぶん最初はアメリカのホスティング会社の人が,画像素材からランダムにこの大学生の女の子の写真を選んで使った.ドメインが失効しちゃった自分のサイトを見たらこの女の子が出てくるから,自分のサイトをこの子に乗っ取られた気分になると.それで「Most Infamous Girl in the History on the Internet(インターネットの歴史上最も悪名高き女性)」っていうレッテルを貼られてしまった.そこに目をつけたパーカー・イトーというアメリカのアーティストが,それを実際の絵にする作品を作ったのですが,彼がやったのはそのJPEGをメールで送るだけ.中国に,JPEGを送ると実際のキャンバスに絵を描いてくれるサーヴィスがあるんです.作家本人は,注文がきたらその会社にメールでJPEGを投げるだけで,匿名の女の子の絵が,匿名の——誰が描いたかわからない——中国の人によって描かれるという,匿名—匿名の作品.彼は「なるべく手間をかけない」と言ってて,この作品はすごくうまく通った例だと思うんですけど,これもインターネットの濃さのひとつなのかな.

谷口:TwitterとかTumblrでネタとして消費される速度が増してるということについては,SPEED SHOWっていうイヴェント[※20]もあったりするじゃないですか.手間をかけないでなるべく早く作るということが,そういったスピード感に対応しているのかなという感じもしますよね.

渡邉:あとAmazon Mechanical Turk[※21]を使った作品もありますよね.

栗田:川島高さんとアーロン・コッブの《Ten Thousand Cents》[※22]ですね.1万分割された100ドル札を,Amazon Mechanical Turkを通じて(1ピースあたり)1セントで一般の人に描いてもらって,さらにそれを再形成してできた100ドル札の絵を100ドルで売るっていう作品.まじめに描く人もいれば,すごくふまじめに適当に描く人もいるんだけど,いわゆる文脈が評価されて,2年前にアルス(・エレクトロニカ・フェスティヴァル)で展示もしていたりした.どの国で使われてるかとか,そういうリサーチ結果もちゃんと出していて……(作業依頼時にはプロジェクトの全貌が明かされていないので)描く人は何に貢献してるかわからないけど……作品の一部である.これはもう,絵画としてはなんの意味もなくて,インターネット(上のサーヴィス)を使ってみんなが行動したっていう,インターネットそのものを使ったところに価値があったわけです.

千房:インターネット・リアリティっていったときに,僕らが出した,インターフェイスやデータ形式,サーヴィスの質感じゃなくて,コミュニティのほうを指すこともあると思うんですよね.僕コミュニケーション不全なんであんまり得意じゃないんですけど(笑).でも,そういうコミュニティがいろいろあるっていう部分にも,インターネットらしさっていうか,リアリティがあるかもしれないですよね.

谷口:さっき渡邉くんがプレゼンで,APIに触れられるようになったことが大きいって言ってたじゃないですか.《Ten Thousand Cents》でAmazon Mechanical Turkを使ってみんなに一個一個作業してもらうのって,すごいAPI的だと思うんですよね.実際は実在する人物に流れ作業で作業させているのだけれど,API的にアクセス/リクエストできるようにインターフェイスがとても洗練というか,抽象化されている.身近な例でいうと,震災のときにそういったサーヴィスを作ってる人もいましたが,電車の駅名とか路線名で検索すると,Twitterでなにがあったのか報告をつぶやいてる人がいて,それで電車の運行状況がわかるんですよ.そうすると,そのTwitterでつぶやいてる人がBot的に機能するっていうか,検索Bot化するといったこともある.

youpy:便利とアートの区別があいまいになってる感じがする.便利なものが,同時にちょっとアートっぽかったりとか.逆にアートっぽいものが便利だったりとか.Twitterにhitode909っていうユーザースクリプトとかブラウザの拡張を作ってる人がいるんですけど,まあ……すごいアートっぽい,めちゃくちゃなものを作ってるんだけど,たまに便利っぽかったりする……とか,やっぱりそういう差があいまいなのがおもしろいかな.それって結局,ucnvもそうだけど,開発者がアートの世界に入り込めるようになったというのがけっこう大きくて.開発者ってなるべく楽をして開発しようとするじゃん.そういうのがアートに逆輸入されてるっていうか.パーカー・イトーの「なるべく苦労しない」というのには,そういう開発者的な視点もちょっとある.

渡邉:どこか民芸というか,鶴見俊輔がいうような「限界芸術」を思い起こさせますよね.「非専門的芸術家によってつくられ,非専門的享受者によって享受される」っていう.

谷口:便利なものがアートっぽくなっちゃうというのは,便利さを追究したインターフェイスを通じて実在する人物のデータにアクセスしていくことで,その人物が,僕らが知ってる人間観とちょっと違う形で立ち上がってきちゃうっていうこともあるのかなと思います.さっきのTwitter使って検索Bot化しちゃう感じとか,Mechanical Turkとか.個人個人は自由に,みんなバラバラに描くんだけど,総体としてできあがったものはちゃんと100ドル札になっちゃうわけですよね.それは単純に,人をマスでみるのか,個で見るのかって違いなのかもしれないけれど,誰でも容易にAPIにアクセスできるようになって,そういったマスとしての人,個としての人っていう,人間観のスケールがフレキシブルに動いてしまう,二重化する,というのがありますね.
 すごい拡散してますけどね,話が(苦笑)…….

(一同笑)

今後の展開

千房:なんか,「メディアアート?の人が〈pixivはだめだけど,glitchはいい〉とか言っててすごいベタ」って(Twitterで)つぶやかれてますけど.

渡邉:そんなふうな言い方はしてないでしょう(苦笑).別に両者を比較してるわけでもないし.もしかして,停滞している議論を見かねて燃料を投下してくれたのかな.だとすれば,ありがたいことですけど.

千房:笑

畠中:なんていうのかな,見る方向を変えると,違うように見えるから.たとえば,美学的な観点からみるのと,社会的な観点からみるのとは全然違うし.pixivというプラットフォームによってできたコミュニティだって,当然この時代特有の現象なんだから.インターネットっていうテクノロジーができたことによって,いろんなものが現象するわけだから,その現象がなんなのかっていうことを捉えていきたくて.それになにが一番ふさわしいかっていうことは,結局のところ恣意的にならざるをえないかもしれないけれども.でもだからこそ,いろんな観点から話ができるといいと思うんですよ.「次はもっと美学的なところでやってみよう」とか.

千房:そうですね.コミュニティっぽいところにフォーカスしてやったりとか.

畠中:そうそう.それはたとえば,「じゃ今度誰々に話聞いてみよう」っていう感じで組み直せるとおもしろいかとは思うんだけど.話題ごとに,ふさわしいっていうかご意見番になるような(笑)人に,話を聞いてみたいっていう気はあるしね.

千房:そうですね.

畠中:ただ,まあやっぱり……なんかしら時代に特有ななにか,まあ形式っていうとアレだけれども,形式みたいなものがあるんじゃないかっていうつもりで話をしてるんだよね?

栗田:ネットのアーティストって,その形式をのっとるのをけっこう醍醐味にしてるから,わりと難しいですよね.システムを自分の自由にできるっていう前提でものづくりに取り組むという姿勢の人が,個人的には好きだけど,そういう人たちをひとつの枠組みにするのがネットっぽいのかというと,わかんないけど.

畠中:そうね,だからインターネットっていう制度っていうのは,従うにしろ壊すにしろ,そういうものがあってこそだから,そのへんを壊さなきゃいけないというよりも,壊す対象となるものはなんなのかということを考えていけるんじゃないかなぁと思うんだけど.

谷口:抗うべき何かってことですよね.

畠中:うん.エキソニモなんかずっとそういうことをやってきてるような気がするんだけどな(笑)

千房:そうですかね? ふふふ

畠中:ずっとそういうことをやってきて……もう,その筋では知られた存在なわけだから.今日はずいぶん拡散してるけどね.だから,たとえば次回は,なにかテーマを決めて,話していくのがいいのかもね.

千房:なにがいいんだろう……

谷口:冒頭に千房さんが,インターネット・リアリティってのがまずあって,そのサブセットとして質感とか,ソーシャル・ネットワーク,インフラがあるという話をしてましたが,そういったサブセットが,ここまででだいたい出尽くした感じがありますよね.そのなかで,今後どうしてくか,焦点をしぼっていくっていうのが,まずあるのかなと思います.特に,インターネット展覧会を設計するうえで,どこからいこうかっていう話になると思うんですけど.

千房:それか,それぞれ絨毯爆撃でこう……

谷口:全部つぶしてって(笑)

千房:掘ってくっていうか,うん.ていうのもあるかもしれないですね.

畠中:そうですね.僕はやっぱり,ヴィジュアルでも音でも質感というのがけっこう重要だと思っていて.たとえば,こういう話だと,やっぱりグリッチとか,そういう話になるじゃん(笑)? 音楽でもヴィジュアルでもね(笑),そういうのありがちなんだけど,それをあんまり,グリッチとかにとらわれずに考えることはできるかっていうことなんだけどね.コンセプチュアルに突き詰めていくと,たとえばさっきのyoupyのFlickrの作品に行き着くってことも,明らかだし.いろんな切り方で切ってかないと見取り図が描けないってこともあるよね.個々のトピックについて掘り下げていくことは可能だけど.グリッチだなんだっていう話で,やってくのは可能でしょう.キャラでもいいしさ.だから,今日はもうちょっとそれぞれのこだわりみたいなところでくるかな? とも思ってたんだけど(笑)

(一同爆笑)

渡邉:ダメだしで締めるつもりですか(笑)

畠中:いやいやいやいや,そういうわけじゃなくて(笑).もうちょっと自分のこだわりみたいなところで突き詰めていっても,いいですよ今日は(笑)

(一同笑)

畠中:次回は「質感てなに?」って話とかね? 「コミュニティってなんだろう?」ということでもいいかもしれないし.コミュニティとはちょっとずれるかもしれないけど,作品がそれ自体で完結していないものもあるじゃないですか.誰かがそれを使って創作できるような,ソフトウェアを開発するのとちょっと近い……

youpy:ライブラリがあって……

畠中:うん.そういうのだって,誰かの創作っていえるようなものになってるわけじゃないですか.そういうありかたも,こういう時代特有なのかなって気もするし.

千房:そうですね,うん……うん.

渡邉:そうですねえ……たしかに全体を俯瞰しようとするあまり,拡散した感は否めないので,次はサーヴィスごとに固有の質感とか,それこそPaint FXとかPost Internet[※23]みたいな個別のムーヴメントについて掘り下げるのがよいのかなと思います.もちろんサーヴィスの背景にあるクラスタの問題もアリだとは思いますが.

千房:あとなんか……Botと人間の違いみたいなところもけっこう気になるんですよね.

渡邉:たしかにTwitter上にいろいろなBotがいますが,それがBotなのか人間なのか,っていうのはどうでもよくなってきていますね.Botが精巧になってきているということもあるし,それこそyoupyさんとかfuba様みたいに人としての知性を感じさせない言動を繰り返す人もいるということもある.

千房:じゃあ人間とBotどう違うの?とか.Ustの視聴者数「1」が自分みたいな(笑)……そこらへんの,ネット上での人間の存在感の問題ってすごいあるような気がして.

渡邉:有名人ができちゃった結婚をしたり,亡くなったりしたときに,ご本人とか関係者のウェブサイトにアクセスすると,すごく重いときがあるんですね.そうすると「ああ,いまみんなと一緒にいるんだな」と思ったりしますね.野次馬が集まってる感じです.そういうのは昔からありましたね.ただ,最近はブロードバンドが普及し,サーバのバックボーンも大きくなっているので,あまり起きなくなりましたけど.

千房:まえCBCNETでやってた,Merce Deathのライヴ[※24].Ustreamでライヴやってたんですよ.四つぐらい画面使って.それにアクセスが集中しちゃって,Service Unavailableになっちゃった.その感じが,なんかほんとにみんな……

栗田:そう,(定員)300人のライヴハウスに入れないみたいな…

畠中:笑

千房:狭いライヴハウスの外から,[覗き込む動作をしながら]こう……たまに見えるみたいな.

栗田:そうそう.あれはすごい感動的なライヴだった(笑).

渡邉:あと,Ustの遅延をあらかじめ織り込んで演奏できる大野さんの感性も,今回の話とちょっと関係する部分もあるでしょうね.

栗田:そのインターネットはこっち側なのかあっち側なのかって.

渡邉:どっちで演奏してんの?みたいな(笑).

栗田:しかもそれぞれの回線の状況でみんな見てるライヴが違うのとか,すごいインターネットっぽかった.みんな違うものを見ているんだけど,一体感があった.

千房:あとさっきの話で,ずいぶん戻っちゃうけど……コンテクストが消失するとかって話.それってどういうことだったんでしたっけ?

栗田:簡単にいうと,それぞれのTLが違うみたいな話.

千房:ああ.だからもう,同じことがいえなくなっちゃうみたいな.

栗田:そうそう,同じものを見てるとは限らないって.

谷口:印刷物だったら,みんな同じクオリティで同じものが印刷されるから,同じものを見てるっていえるんだけど,ウェブだと,Firefoxで見るのとSafariで見るのでは全然レンダリングが違っていて,フォントも違うかもしれないし,(作るのが)へたくそだとレイアウトが変わっちゃうしみたいなことがある.Twitterだったら,フォローしてる人が違うからユーザーそれぞれで見ているタイムライン,情報が全然違うって話ですよね.

千房:昔のほうがめちゃくちゃ違ったじゃないですか.90年代にウェブ制作やってたときは,その違いはすごく好きでしたけどね.印刷物とかだと,同じものをみんなが見てるって前提で話が進むけど,でも本当は実際には見てるものって人によって違うはずですよね.目が悪い人いい人でも違うし,いろいろな条件で変わってくるし……そもそも同じものを見ているのかどうかって確かめる手段がない.だからウェブは,実際に全員バラバラのものを見てるということが目の前で証明されてるって感じで,すごい気持ちよかった.

渡邉:テクスト論みたいな話だね.

谷口:ハナからみんな違うみたいな.

千房:うん,そうそうそう.それを大前提にして作れる世界ってすごいいいなって思って.……まあ拡散しますけどね(笑)

(一同笑)

千房:でも……拡散するほうがいいな(笑)

渡邉:そういう意味では,ここからが本番ですよ(笑)

(一同笑)

谷口:でもいまの話の流れだと,人の気配みたいなことが,少し筋としてありましたよね.数字の「1」とか,アクセス負荷でみんな来てる感じがするっていうか.

千房:それもね,インターネット・リアリティ……

谷口:たとえば次に話題をしぼるとしたら,インターネットにおける人の存在感はどういうとこに感じられるかみたいなことから,まず……基準というか想定される人間像を……つまりこのインターネット展覧会に作品見に来てくれる人たちってのが,どんな人たちなのかなっていうことから(笑),それはカウンターの「1」なのかもしれないし,みたいな.

千房:そこでひとつ,できちゃいそうですよね.

谷口:ていうのはできるのかもしれないですね.

千房:あとネット上の物理法則みたいなのを一回やってみるとか……

渡邉&谷口:うん

渡邉:あと,今日はデスクトップ・リアリティの話をあまりしなかった気がするんですけど.

千房:ああ

渡邉:なにかしら確実に差異はあると思うので,そういった部分を整理してもいいのかなと.先ほど,畠中さんが二つの軸が錯綜しているとおっしゃっていましたけど,その軸がデスクトップ・リアリティとインターネット・リアリティなのかな,などとも思いました.

千房:うちが前やった《Desktop BAM》っていう,マウスカーソルをコントロールしてライヴするやつがあって.それは,デスクトップ上でQuickTime Playerをバーッて並べて,ものすごいスピードでこう……スクリプト制御してるから,人間の手を超えたスピードでバババババッて演奏するんですよ.それ見てると,やっぱりマウスカーソルって人間がコントロールするものだから,それが高速で動くとなんかすごいことが起きてるって感じがする.実際はそんなのコンピュータからしたら当たり前なんだけど,でもマウスカーソルが動かされることで,なんかこう……超越的な身体性が感じられてくる(笑)っていうのは,インターネット・リアリティじゃないけど,デスクトップ・リアリティかなと思って.

youpy:shiwasu.appもそんな感じがする.

谷口:ああそうですね,僕が昔作った……

渡邉:shiwasu.appなつかしい!

谷口:起動すると,マウスカーソルがランダムにいろんな方向にいって,一回クリックしてそこで「shiwasu(師走)」ってキーを叩くっていう……で,これを高速で数十回繰り返す,いやがらせみたいなアプリですね.

千房:ああ

youpy:で,そのときiTunesをたまたま開いてて,「師走」ってプレイリストができた.

(一同笑)

youpy:それすげえと思って.

渡邉:奇跡ですね

栗田:すごいそれ(笑)

谷口:竹田(大純)さんはそれでお母さんにメール送ったって……

渡邉:「師走」ってメールを送った.

千房:それおもしろいね.

谷口:いまの話は,マウスカーソルが人称っていうか人格っぽいものになってるってことで,それはエキソニモの《祈》もそうだけど,マウスカーソルが人の手を想起させるという……

千房:《Desktop BAM》のほかに《断末魔ウス》(2007)って作品もあって,雑誌でその作品のことを書いたときに,なんかコンピュータの身体性がどうのこうのって書いてて[※25].そのときに,間違って「コンピュータの身体性」って書いちゃったんだけど,名古屋で水野(勝仁)さんという,けっこういろいろメディア・アートの批評とかやってる人が,そこにすごい反応して.それで逆にこっちも,「あ,〈コンピュータの身体性〉って言葉おもしろいな」みたいな感じで(笑),コンピュータの身体性をテーマにして《Desktop BAM》を作ったりして.コンピュータに身体はないから矛盾してるけど,「コンピュータの身体性」っていえるっておもしろいな,と.うん.ネットではないけど.

谷口:まとまらない……

千房:まとまらない……

渡邉:まとまらない……

(一同笑)

畠中:まあ,今日はこういう感じでいいかなと思いますけどね.次回にね,テーマをしぼって話をしていければ,と思うんですけど.……どうでしょうか,なにか言い忘れてるとか(笑),あれば.

一同:………

畠中:うん,まあ……

(一同笑)

畠中:インターネット・リアリティという言葉をどう掘り下げていくかということが,それぞれの中にたくさんあるんだと思うんですけど,それを次回からはまとめていく……まとめるというか,テーマをちょっとしぼっていきましょう.ただ,今日いろいろ出たものは,最初に千房さんからありましたけど,見取り図みたいにして整理すると見えやすくなるんじゃないかという気がしました.だからそのあたりは整理しつつ,また次回……って,まだ決まってないですけど(笑),二回目につなげていきたいなと思いますが.

千房:そうですね.まあ僕は,予想以上にインターネット・リアリティっていうのが共有できてる,できたような気がして(笑).

畠中:うん

千房:まあ見てる人まで伝わってるかどうかは……自信ないけど.

(一同爆笑)

畠中:まあ…そうね,ここにいる……まあ我々は感覚的には共有できたところがあったかもしれません.うんうん.いや,でも……わかったと思いますよ.といったところで.

(一同笑)

畠中:いいのかな? ちょっと……まとめにはなってないですけど.いろんな事例が出たってことでいいかなと思うし,次に続けやすくなってるのではないかと思います.

千房:そうですね.一つひとつテーマしぼって,人を呼んだりすると,おもしろいんじゃないですかね.

畠中:そうですね.これはある種の公開研究会みたいなもので.いずれ文字起こししたりする予定ですけど.時期はあんまり期待しないでいただくとして(笑).それで次回に続けつつ,今年度のウェブ企画のほうにも,ご期待いただければ,というところでしょうか.
特別ゲスト,急に来たyoupyさんと,千房さん,渡邉さん,谷口さん,栗田さん.どうもありがとうございました.

畠中以外:ありがとうございました.

【終わり】


[※17] ICCの最初の企画で1991年に「電話網の中の見えないミュージアム」という展覧会がありました:会期:1991年3月15—29日
[※18] フィッシュリ&ヴァイスの……キッチンの上でこういろいろもの組み合わせる作品あるじゃないですか:ペーター・フィッシュリ&ダヴィッド・ヴァイス「均衡」(1984/85)のこと.不安定な状態で組み合わせた日用品がなす一瞬の均衡状態を撮影し,「つかのまの彫刻」としてさまざまなタイトルをつけた写真作品のシリーズ.
[※19] ucnvさんが,このまえグリッチについてプレゼンしていたんですけど:「Visual Glitch, using Ruby」(「日本Ruby会議2011」,2011年7月18日)
http://rubykaigi.org/2011/ja/schedule/details/18S02
[※20] SPEED SHOWっていうイヴェント:アーティスト,アラム・バルトル(Aram BARTHOLL)が2010年に始めたプロジェクト.インターネット・カフェにあるパソコンを全て借り切り,そのパソコンで作品を鑑賞する一晩だけの展覧会を行なう.出品作品は,一般的なブラウザやプラグイン,もしくはパソコンにプリインストールされたソフトウェア(インスタント・メッセンジャーやヴィデオ・チャットなど)だけで鑑賞可能でなければならないという決まりがある.
http://speedshow.net/
[※21] Amazon Mechanical Turk:Amazonのウェブ・サーヴィスのひとつ.プログラマー(リクエスター)がコンピュータだけで処理するのが困難な仕事を「タスク」として登録すると,ワーカーと呼ばれる人がそのリストのなかからタスクを選択し実行するシステム.ワーカーは,労働の対価として金銭的報酬を得ることができる.サーヴィス名は,18世紀の発明家ヴォルフガング・フォン・ケンペレンが開発した“オートマタ”「The Turk」(実際は中で人が操作していた)に由来する.
[※22] 《Ten Thousand Cents》:参考⇒ http://www.tenthousandcents.com/
[※23] Post Internet:インターネットが浸透し,それが特別なものではなくなった状態.さらにはそれを前提としたインターネットでの表現活動の潮流.2008年ごろにアーティスト/批評家/キュレーターのマリサ・オルソン(Marisa OLSON)によってその呼称が考案されたといわれており,その後2009年から2010年にかけて,批評家のジーン・マクヒュー(Gene McHUGH)が同名のブログ http://122909a.com/ にて,その詳細な定義や作品紹介を行なっていた.[渡邉]
[※24] まえCBCNETでやってた,Merce Deathのライヴ:Merce Deathは,大野真吾による一人バンド.別々の場所にいる複数の演奏者がそれぞれUstreamで中継しながら即興演奏を行なう「World Jam Band」というプロジェクトを2007年から行なっている.CBCNETでは,大野による連載の最終回として2010年7月12日に「World Jam Band」のライヴが開催された.
http://www.cbc-net.com/dots/shingo_ohno/06/
参考⇒ 「リアルタイム・ウェブの現在とこれから」(2010年5月4日,ICC)
[※25] 雑誌でその作品のことを書いたときに,なんかコンピュータのなんか身体性がどうのこうのって書いてて:カーソルって,中途半端な存在なんですよね.映像なんだけど,映像とはみなされない.動画を再生する時は,脇に避けられる.動きがカクると,不安に思われる.画面の中にありつつ,自分自身の身体の一部のような存在.みんなが当たり前に受け入れているんだけど,それが何なのか,ちゃんと理解されていません.コンピュータの身体性を語る上で,カーソルには重要な秘密が隠されていると感じます.——「exonemo’s view:〈カーソル〉」(『Web Designing』Vol. 108(2010年7月)特集2「エキソニモが知っている」,p.77)より

「ゴットは、存在する。」展示風景
撮影:木奥恵三

《噂》
撮影:木奥恵三

《祈》
撮影:木奥恵三

《化身》
撮影:木奥恵三