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1997年4月19日 〜 7月13日 [終了しました.] ギャラリーA





2月23日 : 丸山洋志氏から入江経一氏へ


入江さんへ

吉岡賞新人賞おめでとうございます.きのう,はじめて知りました.

私は前衛でもなんでもありません.,ただコーリン・ロウが好きな建築家だけです(前衛とはほどとおい.では何でこんなことを言い続けるのか? 入江さんも承知のように,「考える」からです.「観念」を生みだしているだけなのです.

私は「・・・・・なる」ことに興味があると言いましたが,決してポジティヴにではありません.「becoming」とか「関数」とかが,今回の会議においてもけっこう飛び交いますが(しかも,さわやかさ・可能性の響きを携えて),私はいつも「ほんとかしら」と苦々しく思っています.私は確信しているのです,「人間は何にもなれません.すくなくとも,人間であるかぎりは」と.しかも,私たちの見知らぬものには絶対「なる」ことはありません.そして,ゆいつ「なる」ときはいつも,人間以下のものです・・・・・・これが,一応私の考える「なる」の構造の始まりです.

かって(12,3年前だったと思います),私はアイゼンマン事務所でハイデガーの勉強会にでていました.history とhistorisity ,appropriation とappropriateness propertyとproperietyの違いを誰かが言ってたのだと思いますが,私は何を言っているのか,さっぱり解りませんでした(今もって,解りません).そのときの彼は,ハイデガーを批判的に読みこなしており,彼の「存在論」を批判しながら〔おそらく,とだけ言えるだけです.なにしろ,英語がさっぱり解らなかったのですから),I am ではなく I [is]]でなければならないと言っていました.全然解らなかったのですからそれはどうでもよ]いのですが,そのとき以来「非人称」とか「非在」とか「bicominng」を嫌悪するよう]になりました.

よい比喩が見つかりません(一日中机に向かっているとほかに考えつくかもしれませんが)・・・・・・「うんこ」味のカレーとカレー味の「うんこ」のどちらかを食べなければならないとしたら,どちらにします? どちらと答えてもかまいません.なぜなら,そんな状況は「私」が「在る」かぎりないからです. ゆいつ,あるのは「私」を剥]奪しようとする環境におかれた時です.だから,ある意味で「うんこ」味のカレーとカレー味の「うんこ」のどちらかの選択を迫ることは「人間性」の剥奪です.これを「矛]盾」におかれているとか,かってはやった「ダブル・バインド」とかといった「人間」]臭い状況下と混同してほしくはないのですが・・・・だからよい比喩がない思いつかな]いのですが・・・・

私は,どちらを取っても「人間であること」をやめなければならない.いや,状況が私]が人間であることを許可しない・・・少なくとも「なる」とは,私とってはこんなこと]なのです.どちらを食べても「私」は「私」であるはずなのに,食べた瞬間に「銀蝿」は「ウジ虫」です.そして,こんな状況がもしあるとすれば・・・・・「強制収容所」だけです.その描写はどうにでのなりますが(デゥルーズのように軽やかに,カフカの]ように唐突に〕,それは「強制収容所」での「出来事」です.そうです「becoming」とは,私にとってすべからく強制収容所」での「出来事」でしかないのです.

ここで,ナチスなどのネガティヴな「強制収容所」だけを思い浮かべるのは間違いだと]思います.実は,「人間」は「人間」であることに「疲れて」・「飽きて」,この強制]収容所を「求める」ことがあると私は確信しています.また,ポジティヴな収容所が有り得ることも・・・

工藤順一氏が「建築文化」(今度の3月号だと思いますが)の荒川評で「ユークリッド・幾何学をもとにしたこれまでの建築は言わば強制収容所で,荒川の建築はそれからの開放である」書いております.私は「こいつはアホか」と思いました.確かにこれまでの建築には「人間の放漫,過信,野心,その反対の堕落,疲れ,不信」が充満しています.しかし,決して「強制収容所」とはそんなところではありません.逆に,私に言わせると,荒川氏は「偏在」「身体」「救済」「becoming」と言っているのにもかかわらず(と,言っているからこそまさに),氏の建築こそ「強制収容所」なのです・・・・・ポジティヴな「強制収容所」もあると言ったように,これを荒川氏の全面否定とは受け取ってほしくはないのです・・・そして,このくらいのことを書く建築評論家もいても良さそうなのに・・・・

だから私にとっての「所与」とは人間の「存在」から「主体にまつわるもの」「私にまつわるもの」「人間にまつわるもの」すべてを差っぴいたものです・・・・「収容所ー内ー存在」.だから,荒川氏が「身体」(だけ)を所与と考えたのは,ある意味で正しいと思います.ただ,そこに「開放」「解放」を見るものは,私に言わせれば「大馬鹿」でしかありません.

こう考えるほかに「becoming」「なる」ことがあるなら,私が教えてほしいのです.こう考えるほかに,「所与」があるなら,それも教えてほしいのです.

だから私にとって磯崎氏の「プロトタイプ」が「所与」であってかまわないのです.私たちを「強制収容」するものだ,と.

それが,磯崎氏の「プロトタイプ」は「いわゆる一つの所与」であって,「私たち」がそれを基に「変形を加え」ていって・・・そこに「いわゆる一つのbecominng」がありまして・・・となると,私はだだをこねなければならないのです.

「関数」・・・口にするのは簡単ですけれど,例えば微分空間がどれほどまでに「強制収容所」であるか,数学の得意な入江さんは解ると思います・・・こんなことを私がいうべきではないでしょうが.単純なバカは結果として表象される「変化」の自在さ,さわやかな「becoming」を感じる・・・・少なくとも,カフカはそのことを理解していたと思いますが・・・・

だから,私にとって人間以外のすべての生き物は「強制収容所」に生きている存在です.だから,私にとって「主体」とはそんな「強制収容所」を「忘れさせてくれる」くだらない,そして人間が発明した大事な「概念」です.
ここで「ポジティヴ」な「強制収容所」,「疑似ー強制収容所」(私にとっては,「ディズニー・ランド」がまさにこれです)といくべきですが,もうこんなことを書いていくことに疲れました.なぜ,こんなことを考えるか・・・・単に「考える」からです.そして,私は「概念」というこれまた「強制収容所」を作っていることも知っています・・・・

普段の私は「考えない」建築家です.ただ,コーリン・ロウが好きなだけの.そして,それも含めて思春期を生きた60年代後半の呪縛をいつまでも「大事にする」,私こそ典型的な「遅れた」人間なのです.ぼくも,入江さんのような格好いい比喩がいえるよにします.そして,入江さんのフレームにさんざんけちをつけて,古谷さんへの返答で入江さんのフレームが「好き」といった真意を理解していただけたらナーと思っています. それでは,3月4日におめにかかります.

FEB.23 1997 丸山洋志