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1997年4月19日 〜 7月13日 [終了しました.] ギャラリーA





2月22日 : 入江経一氏から丸山洋志氏へ


丸山洋志 様


丁寧に対応してくださって,感謝しています.それと,ここでしばらく続いている質問と応答は,ぼくにはとても重要なのだという気が,今日突然します.まだこうして生きているからです.
そこで,どうかあきれてもいいですから,もう少し僕の(驚くべき)低空飛行(なぜかは後で触れます)につきあってください.「建築家丸山さん研究」をしようというわけではないんですが.

ぼくもまた,何の脈絡のなしに思いついたことを書きます.たまに僕自身の抱えている問題に入ってしまうかもしれませんが,(元来それは対話とはいえないものですが)気長に見てください.

まず,ほとんどなぜだか解らないのですか,私は「データ畑」の耕作人です.建築用語で言うなれば(多木浩二,あっすいません,引用してしまった)ビルダーでしょう
.ただ,残念なことに僕の畑は休耕田です.

「データ」に「誰でもアクセス可能」とか「インタラクティヴ」とか「リンク」とか「階層レヴェルの可変性」とかの枕言葉をつけたうえで,「データ」を「土」に変えてください・・・・・変えなくてもいいのです
けれど,私は元来「土」とはそういうものだと思っており,そのことそのものは新しくも古くもないと思っています.そして,「土」とはアートの問題ではないとも思っています.なぜか,「土」は少なくとも理想的な「土」は,個人をこえているからです.そして,それを利用しようとするある種のアートにはとても懐疑的です.また,(丸山さんには釈迦に説法ですが)アートが個人,あるいはある種の観念の射程にとどまるものであれば,それは僕の考えるアートのクオリティを持ちません.

その「土」を「コンクリート(本来の意味での)そして(材料的意味での)」に変え,それを「世界」と呼び,「時間軸」に沿って「自己」を規定していくことが,丸山さんにとってのハイデガーの「存在論」つまり,「ある」ことなのですね.

ここで僕の低空飛行に入ります.じつは僕はハイデガーさんを知りません.しかしこの話から推測するに,(すみません,本来ならばここで本屋におもむきハイデガーさんの本を抱えて帰り,すっかり眼をとおしてから,それはね...とやればいいんですが,ぼくには出来ませんでした,ほんとです.)
  1. 丸山さんにとっては素朴で,アプリオリな「土」という存在にある定義(概念としての物理性)をあたえる.
  2. それはせかいというものであると,世界を定義する.
  3. そのせかいに対して時間軸のなかで自己を規定してゆく,ここはその世界を時間軸に沿って体験する,あるいは生きるといいかえられますか?
  4. そして,最後に,問題は自己が如何ではなく,その様にして生きられた世界を提出する.
ああ,きっと落第だなこれでは.もっとちゃんとした理解があるんでしょ.

しかしそんな低空飛行を尻目に,めちゃめちゃ暴力的的な丸山さんは,「コンクリートネス」を捨て「土」に戻ってしまいます.そしてこれこそ丸山さんの「後期ハイデガー」の解釈なのですが,あいにく僕はハイデガーさんを知りません.
しかし,どこか素朴な農夫のようなドイツ人を想像してしまいます.

ところで,素朴な「住むこと」〔=人が主であること),「在ること」〔=人が土とともあること)の背後に丸山さんは暗黙の「平和な時代の所有制」を感じるそうですが,ぼくにはとてもそんな時代があったことが信じられません.未だかつて平和があったなんて.それは観念としか思えないのです.あっ,そうか.精神の中,あるいは観念の中の話だったのか.しかし当然,思考の中であるはずはない.平和は時間を持たないが,思考は時間そのものだから.それと,平和と所有とは両立しない感じです.平和には対立がないが,所有は分けることであり,それは対立,差異,比較,そして「なること」を生むものだからです.丸山さんや岡崎さん,そして無論磯崎さん達が共有して居るであろう思考世界の認識を,全く知らない僕にはこんなことしか思いつかない.丸山さんがぼくとは話が出来ないと絶望的に言い捨てていたのも頷ける.

さらに丸山さんは逆転します.「土とともにあること〔=存在〕」の背後の「平和な時代の所有性」を温存したまま「土」を「コンクリート」に変えたからこそ,今世紀の「存在」の悲劇,「ハイデガー」の悲劇があったという話になると,何のことだかもうさっぱり.でも,ハイデガーさんは気でも狂ったんですか.

しかし,「土」に戻ることで満 足する人が「在る」ことに満足しないで「なる」ことを目指すのは,丸山さんにとってとっても矛盾に見えるのですね,僕もそうです.同感.やっと理解できることがありました.だって,「在る」ためには「なろう」とすることが止まなければならない.そしてまた,だからこそ,「土」に戻ろうとする人が,即ち「土」的状態に「なろう」とする人が「在る」ことはできない.耕作人である私は「在ろう」とすることも「なろう」とすることだと思うわけです.で,耕作人に出来ることはせいぜい,土と共に在ることを観察することです.そして,もしそれが平和なものであるならば,そこにはいっさいの時間がなく,したがって,「なる」ことがないのです.このような状態が単なるユートピアであるとするならば,そこには誰かの悲劇がセットに成っているのでしょう.ですから,これはユートピアであるはずがありません.それは大それたものであるはずもない.ただの自由です.しかし勝手にしたら,という自由とは違います.何かからの自由ではないからです.当然.何かからの自由とはそれからの束縛を含蓄していますから.

そこで,今日的デジタル「データ」を「インタラクティヴ」「クロス・レファレンス」「クロス・レイヤー」と呼びことによって「何か」から開放された気分で「在る」ことは,丸山さんにとっては単に「後期ハイデガー」の反復でしかない訳ですが,ハイデガーさんを知らないぼくは,上記のような理由で,「そうじゃないよ,そんな言葉で自由になれるなんて幻想さ.」と言うわけです.

ところで,再び,超低空飛行です.「月」に導かれた「有る」でありたいというのはどういう意味ですか.ぼくはランボーさんも知らないのです.
どうでもよいことをさらに言えば,ぼくは「倫理的」な人間では全くないので,倫理が何を意味するのか,それがなぜ必要とされるのか,今一つ釈然としません.それは外部の問題ではなく,内部の問題だといわれれば,うーん.爆弾男が展覧会に現れないようにしようというのが倫理ならば,紳士協定といえばいいような気がします.それは明らかに検閲に近い外部の問題.何が善で何が悪なのかを共有すること?微妙さのかけらもない意見だ.

ところで,丸山さんにとっての「なる」の構造や遺伝=所与性って何なのですか.ますます面白いです.

FEB.22.1997 入江耕作人