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1997年4月19日 〜 7月13日 [終了しました.] ギャラリーA





2月18日 : 入江経一氏から丸山洋志氏へ


丸山洋志様

勉強をしない僕には会議はなかなか苦手です.
さて,昨日,佐藤健司氏から手紙が転送されてきました.
手紙は古谷氏宛でしたが私にも転送されたことでもあり,
僕自身の無知をさらけだしながら,わからないところを少しお教えください.

>基本的に,磯崎氏も含めて全員が入江案を基本フレームとして採用する(してよい)ことに合意していると思います.何故なら,入江案はよくよく読んでみると目新しいもの,革命的なものは何もないからです.タームが目新しいだけ・・・・皮肉なしにそれが重要なのです(とくに,展覧会などには).<

このことは吉松氏が「現実そのもので少しも新しくない」と表現されていましたね.それは僕の考えている部分とちょっと違うのですが,今そのことを論議する必要もないと思います.あのフレームの話は全く観念的部分には触れないものだと思ってます.使い方は別にあるのでしょう.2回の話合いの中では既に必要がなくなったので,もう捨てた方がいいと思うのですが,どうでしょう? 僕はいらなくなったと思いますが.

>「チリも積もれば山になる」・・・「データも積もれば都市になる」・・・・「たんぱく質が集まれば生命になる」.みんな嘘です.「・・・かもしれない」が正解です.「なる」構造は「別な」ところにあります.<

まあそんなところだと思います.

>そして,入江氏のフレームが射程にしている「データ」は,すべからく私の考える「遺伝」の構造にたいしては外在的なものばかりです........
入江氏のフレーム説明にある「遺伝」「関連」「記憶」「連歌」は意味をもちません<

それらは意味には無関係に機能するばかりです.意味はフレームの中ではなくビュワーの中のフレームにだけ生まれるのではないでしょうか.

ところで丸山さんの言われる遺伝とはどんなものか,よろしかったらお聞かせください.いまのところ秘密でしょうか?

>遺伝的・生命的な「なる」の構造は,それを理解することなくわれわれが知ることに「なる」ことが問題なのです.<

もう少し広げてください.済みません.

>ICCの中村氏の「何でもあり」を期待するような前回の発言 <

そんなことなら,僕は何もこの展覧会に加わる必要はないと思いました.今でもそうです.

>これまで述べてきた ような「遅れ」をvisitors全員が,あるいはこの展覧会が無意識的に内包化することです <

「遅れ」について勉強して居ません.遅れた奴だとおもって,少し説明してください.丸山さんの思考の流れをもっと理解したいと思っています.ぼくにとって魅力的なものですから.

>visitors全員が,最初からspeculatorになるためには,自分が「何」に「becoming」するか自己のプログラムをあらかじめ提出しなければならない(それも自分の受け持ち
週に使うのと同等のエネルギーをもって)・・・・賭け金として.<

戦略.それをあらかじめ用意しておくということでしょうか.そのあらかじめ提出したプログラムは,担当する週におけるインスタントなアクションをどのように容認するのでしょうか.それとも,しないのでしょうか.

話が逸れるかもしれません.
becomingという言葉はぼくにとって,「ここ」からどこかへの移動,あるいはどこかへの視線と感じます.そしてその瞬間,「あそこ」とは観念の構築物ではないでしょうか.そのとき「ここ」とはなんでしょう.現実でしょうか.観念にとって替わられるべき「ここ」.一方,「あそこ」を持たずに「ここ」が常に変容するとする見方もできます.
よく似た構造のようでも,「ここ」とは観念ではないものであり,観念を差し挟む余地のないところにある行為です.僕には前者が物理的な次元(技術など),後者が心理的次元のありかたに思えます.一般には前者も心理的次元と考えられているのでしょうけど.

くどくどとした質問で失礼しました.

ところで,いつも面白い話を聞かせてくれる岡崎さんのつまらないところは,「観念は死なない」と信じているところだと思いますが,どうでしょう.観念,心理,思考におけるどの様な真理も体験的に,あるいは実験的に見いだされ,言語の共有のもとで,その限定のなかで真理となるのではないでしょうか.それらは思考の内部にあり,それ自身の限界の内部にあります.その諸限界はまた,こえられるべきある一つの信念を形成しています.そして内的領域にはいかなる限界もありません.その意味で,

>「遅れ」を意識的 に作り,個的・生命的反乱を企てていくことこそアヴァンギャルドにすぎません.少な くとも私の考えるかぎりでは,それは「マスター・プラン」の思想と対極にあって釣り 合っている,すなわちそのかぎりではマスター・プランを越えることがないものです.<

といわれる丸山さんには,まったく賛成なのです.
そのような芸術は箱庭的です.

Feb.18.1997        いりえけいいち