ICC





はじめに
入場料
展示作品 1
展示作品 2
海市について




計画/経緯
ANY会議/ユートピアをめぐる言説
ヴェネツィアビエンナーレ/海市計画コンセプトパネル
展覧会について(会場構成




1. プロトタイプ
2. シグネチャーズ
3. ヴィジターズ
4. インターネット
ウェブページを通じた展覧会への参加
DWF形式によるAutoCAD図面の参照
フォーラムのページ
参加作家
カタログ
 
1997年4月19日 〜 7月13日 [終了しました.] ギャラリーA





2月18日 : 古谷誠章氏から丸山洋志氏へ


丸山洋志様

メッセージ拝見しました.僕の感じていた事柄を整理してみます.テーマは大きく分けて三つあり,01〜03が「越境」,04〜05が「デジタル・データとスケール・モデル」,06〜08はおよそ「連歌的」に関する問題です.

01
visitors各自のロケーションを設定すべきだと発言したのは,丸山さんの言われるとおり,ひとえに模型(=作品)の上の話で,かつ飽くまで各自の構想の出発点としての話です.つまり,整然と保存された各visitorのテリトリーが模型上にいつまでも並んでいるとは,僕も考えていません.従って「身体的境界」を維持したいと申し上げたのでは無くて(もちろん中にはその様な人,あの場合には成り行き上,丸山さんに例えさせていただきました,がいても,これもまた一向に差し支えないわけですが.),拡張したり,身を縮ませたり,他人の間に割り込ませたり,あるいは滅却したり,まるで幽体離脱のようですが「越境」したりするための,身体的境界をもつことに意味があると思ったのです.つまり痕跡に未練をもつためにではなく,各人のプロジェクトのベクトルを,初めて訪れた観客に表示しようと思ったに過ぎません(入江さんが逐次保管されるデータベース上の検索で実現させようとしていることの模型版です.しかしワーク・ステーションは現場での多数の人の操作性,視認性については疑問があります).これには模型が常に「現状」のみが表現された状態にあって,その地層的,歴史的時間の堆積は不可視と考えてよいか,という問題と関係しますが,これについては,デジタル・データと模型の関係を述べるときに再度お話します.

02
ですがこれについては,すでに吉松さんが「みんなは,サブアイテムという考え方からスタートしないような気がします.」と述べているように,身体的境界を設定するか,しないかですら,各visitorの側に委ねられていると考える方が自然だなと考え始めました.ですからここでは,僕の考えた「越境」についての要点を示して,皆さんの議論を待ちたいと思います.

03
「越境」には,「地割り」からの越境と,「島」からの越境の,入れ子状になった少なくともふたつのレベルがあります.前者はこれまで述べた通り,visitors全体の中における「自己」からのものであり,「他者」への侵入ともなり,または共有したはずの「制度」からの逸脱でもあります.一方,後者は,1月の初回の時点では,これを「イソザキ」さんからの脱出,または「イソザキ」さんへの介入の意味があると考えていました.大げさに言えば与えられた「世界」からの越境になります.しかし前回話題になった岡崎さんのGiven,または入江さんのメモがすでに明示するように,第1週目以前にはPrototype計画が所与のものとして下敷きにされているとしたら,これは「島」だけでなく地割りを含んだ全体が「イソザキさん=与えられた世界」からの出発になります.少し単純な気がしますが,それもそれでよいともいえます.


04
僕も入江フレームの全体に対しては,基本的に合意しています.その上で一点だけよく分からないのが,この間もいったようにデジタル・データと模型の関係なのです.入江さんはインターフェイスとして,「3Dモニタリングと文字情報のテーブル」を用意しようと言われました.ここには何通りかの考え方が起こります.第1にコンピュータ内にvisitorによってつくられるデジタル情報を「ブループリント」と考えて,これに一定の「読みこなし」をかけながらスタッフたちが模型の上で実体表現してみようとする方法.さらにそこには,その模型を実社会に対するブループリント,つまり建築家が慣習的にそう思っているようなスケールモデルとして位置づける考え方と,それ自体を岡崎さんが盛んに警句を発したように単なる1/1の実オブジェとして見る見方(一般的な観客はおそらくこのように見ます.)があります.第2にvisitorが模型上で形作った構想(この場合には指示はなにか現場でアナログに発せられたと見るべきでしょうか)を,歴史的に記述する「速記録」としてのデータベースと捉えます.この場合にも模型には縮尺モデルと,原寸の両方があります.

05
いずれにしても入江さんのフレームを補強する意味でも,模型の位置づけをもう少し議論する必要があります.変化のダイナミクスの反映としての「ぼやけ」も,模型に関しては色彩の変化としてしかまだ構想されていません.しかし,この会期で実際の模型に期待するような「色褪せ」は観測できるでしょうか.もっと積極的な仕組みを持っていてもいいと思います.(なかなか妙案が浮かびませんが,各visitorが固有の透明カラーを持っていて,新たに形成したもの,あらたに挿入したもの,形質を変えないけれど既存のものを積極的に取り込もうとしたものなどに,塗り重ねていくことが実際に出来れば,そんな効果が観測出来ます.)

06
丸山さんの言われる「遅れ」の無意識的内包も,とても深刻な問題だと思います.前回の岡崎さんの警句の重要な部分は,アバンギャルド,ないしは今回の陣容で言えば純粋アーティストの側による,意識的な「遅れ」が,アーキテクトの側の無防備な縮尺モデルを一瞬にして無効にしまいかねないですよ,という点だったと思います.と同時に,僕たちも多分無意識のうちに意図的に誤解していこうとする(へんな言い回しですが)気分を持っていると思います.すくなくとも前にやった人との「違い」を観測可能にしようとするわけです.もっとも簡単な方法が前の人から「ズレる」ことです.これの総和が連歌でも何でもない,Signatures展同様の墓場からきたゾンビを生む危惧になって現れたのだと思います.これについてはなるほどと思わされました.従って連歌(というよりは初期の地割り案は,連句に近かったわけですが)もどきを通覧しようという地割り説は,この意味からも制度として採用することを撤回しましょう.すでに第1回の後半にこのような話になってしたとしたら,中座したために遠回りをさせて申し訳ありません.僕は先日の帰りがけに道ばたで話した,「連歌じゃなくて,ラップでなくちゃぁ」に全面的に賛成することにします.

07
ですが,だからこそ,この模型の上を会期中に流れた「不可逆な時間」の堆積を観測可能にする意義があるのではないかと考えます.それと同時にこの小さな模型が現実世界のシミュレーションとしてではなく,もうちょっとこの瞬間のための,デジタルとアナログの相補かつ相反的なインタラクティビティによる,複数visitorの時間差セッション的な作業になるべきだと思われるのです.デジタル一辺倒になるのではなく,アナログないしは電気ドリルによる逆襲を含むリングになるべきなのです.


08
そのためには,先の「データと模型の関係」と,意図的な誤解または「遅れ」を僕たちが各人各様に意識化することが重要です.その都度ステートメントを発表しなければなりません.それを題材にディべートなどするのもいいと思います.また,出だし以前をイソザキさんとするなら「出だしの一週目」はオカザキさんが適任だと思います.模型材料については,先ほどの「透明塗料」に当たるものををなんとか想定できるといいなと思うのですが.

あまり具体的なアイディアがまだ出ませんが,即答を旨として今日はこのぐらいにします.すこし考えて補足したいと思います.ご意見をお聞かせ下さい.


19970218
古谷誠章