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1997年4月19日 〜 7月13日 [終了しました.] ギャラリーA





2月16日 : 丸山洋志氏から古谷誠章氏へ


古谷誠章様へ

「海市」visitorsための2回の打ち合わせはいかがでしたか.

まず,1回目,2回目を通してvisitors各自のロケーションを設定すべきことを発言したのは私と古谷氏だけだったと思います.古谷氏は直接的にではなく,「身体的痕跡を維持したいという自然的欲望」と遠回し言いましたが,,単に模型(=作品)だけを考えると,各自のロケーションの設定という考え方に行き着くでしょう(テクスト,ドローイングは容易に「保存」できることはおそらく全員の合意であるのでここでは問題にしません).

「そういう意味で言ったのではない」という古谷氏の反論が目に浮かびます.私自身もそう受け取っていなかったのですが,前回の発言の流れからいうと落ち着くところはそんなところでしょう.このことは後で問題にしますが,これまでの会議での「暗黙の了解事項」を混乱させたくはありません.それでは岡崎氏の「喧々諤々」発言の「真意」を無にします.

ということで,「各自2週間の命(あくまで模型だけの話です),そのあとのことは忘れましょう,模型=作品がどうなろうと」.私はそう考えるようになりましたが,古谷氏はいかがしょうか?

「論点はそんなところにあるのではない」という全員の反論が目に浮かびます.そうです.ただ単純なところから始めてみたかっただけです.そうでなければ,せっかくの江氏の作ったフレームが無になります.

ここで,入江氏が提出したフレームと岡崎氏の「喧々諤々」と,会議出席者の入江案にたいする反応を私なりに考えてみました.

基本的に,磯崎氏も含めて全員が入江案を基本フレームとして採用する(してよい)ことに合意していると思います.何故なら,入江案はよくよく読んでみると目新しいもの,革命的なものは何もないからです.タームが目新しいだけ・・・・皮肉なしにそれが重要なのです(とくに,展覧会などには).おそらく会議の出席者は全員そのことに気づいており,なおかつ真っ向から入江案に反対しないのですから,私は全員の合意と受け取っています.

それにもかかわらず,なぜ様々な危惧の声が上がるのでしょうか.入江氏が作ったフレームに沿って,私なりに考えてみると・・・・(決して,重箱の隅をつつくつもりはありません).

「チリも積もれば山になる」・・・「データも積もれば都市になる」・・・・「たんぱく質が集まれば生命になる」.みんな嘘です.「・・・かもしれない」が正解です.「なる」構造は「別な」ところにあります.

そして,入江氏のフレームが射程にしている「データ」は,すべからく私の考える「遺伝」の構造にたいしては外在的なものばかりです.少なくとも,生命体あるいは疑似生命体(都市など)としてのpropriety(別にフランス語の propreでもいいですけれど)を問題にするかぎり.だから,入江氏のフレーム説明にある「遺伝」「関連」「記憶」「連歌」は意味をもちません・・・・あくまでも私の理解したとろでですが.また,反対に,何らかの意味を持たせるとまったく旧来のフレームとかわらなくなって,新鮮味がなくなるでしょう.

(私が「各自のロケーション」を主張したのもこのproprietyを念頭に置いていたのですが,建築ではproprietyとpropertyを区別することは難しい問題なので,ロケーションの設定の問題はどうでも良くなりました.)

おそらく,古谷氏の「身体的痕跡を残したい」発言も,このことを危惧した結果であると私は解釈しておりますが・・・

遺伝的・生命的な「なる」の構造は,それを理解することなくわれわれが知ることに「なる」ことが問題なのです.だから遺伝的・生命的appropriatenessの齟齬を内包したたまま生を受けると,それは個体としての生命的反乱を惹き起こすことになります.作家などにみられる「遅れ」の意識などは,それを言語的になぞったことだと思います.


入江氏のフレームは採用してよいでしょう.しかし,問題の一つはこういったproprietyまたはappropriatenessにたいする倫理でしょう.それをどうするか.私がこんなことを考えたのも,全員が「何か」を共有しようとする背後に「何でもあり」亡霊を感じ取ったからです.

岡崎氏はこのことをよく理解していました.appropriatenessへの「遅れ」を意識的に作り,個的・生命的反乱を企てていくことこそアヴァンギャルドにすぎません.少なくとも私の考えるかぎりでは,それは「マスター・プラン」の思想と対極にあって釣り合っている,すなわちそのかぎりではマスター・プランを越えることがないものです.それを「やる」人はやるでしょうが,「やってもしょうがないよ」ということを岡崎氏は示したかったったのだと思っていますが・・・・

でも,このappropriatenessのための倫理をどうするかに関しては私自身まったくアイデアがありません.とりあえず「そんなのどうだっていいじゃん」という感じなのです.


私自身は,単純な18世紀的人間ですから今回のvisitors展に関しても,例えば入江氏が「データの寡黙な集積とは無関係なモニターのチラツキの中に人間性を感じよ」と言えば「ハイ」と従う用意があります.吉松氏の「さくらの眼」の輝きにすらPCではなく,倫理を見いだす人間です・・・・・冗談で言っているのではありません.

くだらないことを述べてきてすみません.実はこれまでのことは前口上で,私がほんとうに危惧していることがあります.うまく言えないのですが,これまで述べてきたような「遅れ」をvisitors全員が,あるいはこの展覧会が無意識的に内包化することです.具体的には,最初の週の問題です.

小林氏が冗談で「最初の週の人が19世紀的都市を作ったりして・・・」とおっしゃっていましたが,実は何をやっても「遅れ」を内包し,それが「遺伝的に継承されていく」ことを私は危惧します.私にとってはこの無意識が,「アイテムの階層レベルを変更する」ことや「削除」や「無視」の「変化のダイナミックス」求めようとする意識より上位にあるような気がします.

だから,私はこのvisitors展を「従来のマスタープランを越えるもの」とか「アナログでなくデジタル」とくくること(あくまでも意識のうえで,タイトルとしては良いと思っています)を拒否しています.Signatures展は墓場だ・・・・確かにそうですが,私たちも墓場からでてきたゾンビにならないと誰がいえるでしょうか.

良い方法なんてありません.私は入江氏のフレームが目指すもの,あるいは氏の言わんとすることに賛成ですが,それを保証するものがあるかのように思えるほど超越的デジタル論者ではありません.

ただ,「ギャンブルです」と言えるだけです.

ギャンブルの鉄則は「賭け金」を出すこと,それでこそspectatorではなくspeculatorなのです.「関数」でも「becoming」でも,可逆的時間的にみれば,刻々のギャンブルがあるだけです.そこで倫理につながるものがあるとすれば「賭け金」だけです.

visitors全員が,最初からspeculatorになるためには,自分が「何」に「becoming」するか自己のプログラムをあらかじめ提出しなければならない(それも自分の受け持ち週に使うのと同等のエネルギーをもって)・・・・賭け金として.それを少なくとも4月の第2週までに・・・・「プロトタイプ」の制作者磯崎氏にもそれを要求したいのですが・・・・.第1週目のvisitorは全員の「becoming」プログラムを「既に」もって「プロトタイプ」から「離陸」しなければならない・・・・これは1例ですが,このように最初に全員で「離陸」する(共同で何かに作業をするという意味ではない)ことが重要だと私は考えています.

このかぎりでの「遅れ」は外在というよりも「内在」的なものであり,「生命」「関数」「遺伝」「becoming」の近いものではないでしょうか(だって,心配なのは自分の賭け金だけだもんね).

今日的「連歌」とは「新しい構想と記憶」の連関ではありません.「私」の賭け金=プログラムがどうなっているかだけの「連」「可」なのです.そして,「ディラー」=各週の担当visitorの倫理とは(どんな論理を使ったってかまわないけれど),自己実現(表現)ではなく,speculatorsの「賭け金」=プログラムにいくばくかの(多ければ多いほど良いが)利潤を付け加えることを目標とするだけです.

だから,全体の倫理作りとしては,吉松氏の比喩「12代にわたる王朝」は一番悪いケースだと思っていますが.

INTERNET 部門はおそらく,私たちよりきっとおもしろくなるでしょう(ギャンブルの勝ちを当てる,という意味で).でも,かれらは残念ながら「賭け金」をだしてはいません・・・・かって連歌に参加できるものは「限られ」ていたように(そのことが連歌を成り立たせる),今日のハイパー・キャピタル・ゲームに参加できるものも限られているもんね・・・・・.SIGNATURES部門は,いわば私たちが「相場」を開くための見せ金みたいなものでしょう.

そういうわけで,私は「出だしの1週目」とかコンピューター画像の「ソフトの走り」とか,模型の材料を「統一するとか,しない」とか末梢の問題がひじょうに重要だと考えていますが.

「身体的痕跡」発言も含めて,古谷氏はどうお考えでしょうか ?

Feb.16.1997 丸山洋志