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1997年4月19日 〜 7月13日 [終了しました.] ギャラリーA





丸山洋志氏から岡崎乾二郎氏へ


2番手としての(アンチ)テーゼ 丸山洋志

即答を旨としているので,あまり考えることなく・・・・・
たとえ急に,まじめな発句が送られてきたとしても
(まず,大衆受けをねらって,ミスチル風に)

海市の原型としての「堤防」・・・・
より上位のビルディング・タイプ・・・「蚤民」
島自体が一つの交通手段・・・・・「船そのもの」
壺(洗面器)・・ユートピアとして世界

これって,「海市」の「起源」論? 噎返るほどの「隠喩」的連鎖の果てに,「あなた」
はユートピアの輝きをみいだしたの? 見いだそうとしているの?

「あなた」自身は「蚤民」,それとも「自己を奪われた他者」?「他者を奪われた自己」? (次にオタク受けをねらってエヴァンゲリオン風に)

「内部が埋めら立てられるかどうかは付随的な要素である」・・・・磯崎氏の「プロトタイプ」を「わたし」はどう受け取ったらいいのだろうか.

言語的連鎖という呪術の中においては,すべては「近傍」と思えば「近傍」,すべてが「トポロジー」と思えば「トポロジー」.近代言語の構造が単にカルテジアン時空間に相応しているわけではない.いや,「呪術」として言語を見るかぎり,それはまったくカルテジアン時空間に相反するものといえるかもしれない.だから,言葉のうえで「近傍」や「トポロジー」を言うことほどナンセンスなことはないのだよ.ところで,そんなことから君は世界と自己の関係の何を知ろうとしているのだね.たとえ何かを得たとしても,それは既に君が知っていることにすぎないのだよ.
(ブームにのって京極夏彦風に・・・漢字が易しすぎた)

最近は,どうもこのようにサブカルチャー(懐かしい言葉)で勢いをつけなければならなくなりました.年齢なんですね.

岡崎さんの「堤防」ー「船」ー「壺(洗面器)」を引き継いで,わたしはどうしたらよいのでしょうか.

まず,隠喩的連鎖にストップをかけるために,を持ち込むこと.
次に,岡崎さんによって「島」としての「条件を満たされた」・・・・「港」「船そのもの」・・・ことから「島」が供儀的身体像を得たことを意識することである.それなしには島が「島として成立する」とか,「中心と周辺」とか「内属と外属」の議論は無効であるから・・・・わたしはあくまで弁証法的であります・・・・
最初からそんなものを「超越」している「島」は(たとえあったとしても)嫌いです・・・・だから「ヒョッコリヒョウタン島」世代とは昔から話が合いません.

だから,わたしにとって岡崎さんが島に下した「テーゼ」すべてが「都市」に当てはまることなのです.古来,東西を問わず都市が「都市として成立」するためには何らかの供儀的身体像を得ることから始まっています.だからこそ「占い」もあれば「気」も,「計画」も「革命」も都市に用いられてきたのだし,都市は「隔離病棟」「収容所」「処理施設」になり得た(ている)のです・・・・・・自分で「起源論」を始めちゃった・・・・これって,「他者の経験も自己の経験も,すべてリプレイとして見なす」こと・・・・

だからといって,「島」と「都市」が同じとは思っていません.その違いをこれから勉強しようと思います.物理的には「水」の存在ですが,どうもその「供儀」性に違いがあると思っていますが.

「島」「船」といったらもうわたしにとってはテセウスしかありません.そしてテセウスといったらもう「迷路」です・・・・またまた自分で隠喩をしています.

ジャーン!
2番句としてのテーゼ

1 島に迷路をつくる.

2 その迷路は旧来(クレタ島のような)の内部的なものではなく(岡崎風に言えば,「付随的な要素」にならないものでなくてはならない.

3 その迷路は「外部」のものにとって迷路であると同じに,「内部」のものばかりか「島」そのものにとっても「迷路」でなければならない.

4 必然的に,その迷路の発生・起源・構造は「海」「水」に由来するものでなければならない.自身以外の異物にたいしては,異物との境界で可変的(異物に応じて)に抵抗する.だから「水」そのもに「なる」ことが最良のこの迷路と通過方法.水に「なじむもの」「適用するもの」・・・・つまり「船」としての「島」も迷路的抵抗を被る.反対に,水もその異物から抵抗を受ける.「水」は陸地で「島」化する「都市」との差異を際だたせるため.

ところで,「水」そのものの「存在」の様態とは.「水」そのものであることを「忘却しない」で,「固体」に常に「存在」を譲ること.でも,自ら「固体」=他者に与えた「存在」を決して痕跡として自己に記憶=記録しないこと.

「水であることを忘却しない」ことを「忘却した振りをする」こと.

だから,「水」そのものに単なるニュートラルな可変性を見るものにとっては,この迷路が「迷路」ではあってはならない.「豆腐の角に頭をぶつけて」死なせてはいけない.「存在」(=過去の記録と未来の予測によって現在を拘束すること)を熱望する者=物だけにとって「迷路」であること.

5 その迷路は「恣意的な客観性」を有するものである.「自由」としての「恣意的な主観性」が試されるのは決して「必然として客観的」場ではない.

6 だから,この迷路は岡崎さんの発句,蛇足A5,6,7,8,15を受けたものでなければいけない.つまり,岡崎さんが「島」に求めるものをわたしは「迷路」に託すことにする.

7 また,隠喩的な読解ではなく,行為のための「換喩」的装置として迷路を設定したことはいうまでもありません.

8 それでは「水」だけで十分にそんな迷路になる,とは考えないでほしい.私たちはすべからく「豆腐の角に頭をぶつけて死ぬ」類(たぐい)なのだから.そして,水そのものの上では決して「存在」を考えないのだから.

! ! ! なんと,ここで岡崎さんから,わたしのホームページ上の発言にたいしてお叱りのファックスがきた(just now).

精神状態が「うつ」になってきたので2番句としては,「そんな迷路なんてあるのか」なんて自問いすることによって,店仕舞をたたみます.ほんとうは,単なる迷路だけでよかったのに.発句者の「蛇足」と「宿題」が私をこうしてしまった・・・


PS 発句者岡崎氏への伝言.「後期ハイデガー」を引き合いにだしたのは,一度は「前期」的な素振りを見せておきながら,犯した罪の大きさを忘れて「住むこと,考えること」などと「後期」的に転向する建築家が多いことに腹を立ててのことです.「モダニスト」は「住まわせること」は考えても,「住むこと」などは誰も考えません.だからといって,一度は「モダニスム」に「手を染めた建築家」が(その批判はあるとして),後期ハイデガーを持ち出すぐらいなら建築家を辞めるべきだというわたしなりの強い文脈から来たものです.

わたしは「土」がダサイとは思っていません.「土」に戻ることで,propertyという概念も素朴になんとかなるのではないかという「考え方」がダサイと思っているだけです.だから「土」と「データ」を同定させたのです.

わたしが信じるかぎり,理性のつくる「括弧」は,ほんとうに内部です.あるいはそうと思わずにつくられる「括弧」にわたしは興味がないというべきか.ただ,そのとき理性の主体はその内部で観念的にも,身体的にもぼろぼろです(すごくハイデガー的だ).そのことをコーリン・ロウから学びました.他の人間に両義性,多重性を知らしめるために,内部(それがなければ両犠牲も近傍もない))を身をもって支えなければなりません.デリダの「差延」をあたりまえのことのように受け取るやつがバカなように,ロウの「両犠牲」をあたりまえのように受け取る者は「透明性」の「内部」なんてはじめから関係ないバカです.

でも,「両犠牲」「多重性」を口にしたほうが,それこそ世俗的は受けがよいし,通りもよいでしょう.岡崎さんはそのすべてを知りつつその内部を反転しようとしていることは解ります(その意味で,近傍とかbecomingという言葉を使うのだと思います).誰のために? もちろん,自分のためというでしょう.でも,その為にぼろぼろになった自分の身体の状況を顧みて割りにあっていると思いますか.

われわれはに与えられている材料はほんとうにコンクリートなんでしょうか.あるいは,土かコンクリートといった問題設定ができるのでしょうか.わたしは建築家として,建築が洞穴をでて以来与えられてきた「材料」は「仮枠」だと思っています.だから,すべてが仮枠の所産なのです.「グニャグニャに孔だらけのヒび割れた」コンクリートをつくるのに仮枠は必要なのでしょうか.もし仮枠なしでそれをやりだすくらいなら,わたしは建築家をやめます.また,仮枠を用いてそれをやるくらいなら,同じように建築家をやめます.わたしにとってのミースとはガラスの建築家ではなく,「仮枠」を放棄した「素振り」を極度に見せた建築家です.現実的な「仮枠」も,観念的な「仮枠」も.

最近では,この「仮枠」を捨てた「素振り」を見せていくことが建築だと思っています.ほんとうに捨てるなら(できないこともないでしょうが),建築をやる意味がないと思っています.

丸山洋志