ジョージ・ソロス / 投資と慈善が世界を開く

03-a.再帰性

 経済における「再帰性」[★14]とは,例えば貨幣価値に関する次のような現象である.いま,ドル/円の為替レートが,ほぼ均衡の状態(貨幣価値が実体経済を正しく反映した状態)から,やや円高に動いたとする.通常であれば,この円高は,実体経済を反映して元の水準に引き戻されるだろう.しかしこのとき,市場参加者たちが何らかの理由で,「もっと円高になるのではないか」と予期して円を買うならば,結果として為替レートは,均衡状態から離れた方向へ向かうことになる.為替レート(貨幣価値)が実体経済から離れていくと,今度はその貨幣価値の変化によって,実体経済そのものが変化を受けるようになる.するとその実体経済の変化は,再び,貨幣価値の変化に影響を与える.このように,実体経済と貨幣価値のスパイラルな相互作用を,「再帰的関係」という.

 こうした再帰的関係がいかにして生じるのかについて,ソロスは「知識の不完全性」[★15]から次のように説明する.およそ社会事象への参加者は,何らかの決定を下す際に,その時点で必要な知識というものをもっていない.もし,科学的に根拠のある知識に基づいて行動することができるならば,別々の投資家が同じ時点で同じ銘柄の株式を一方が買い他方が売るようなことはないはずである.われわれの知識が不完全であるのは,根源的な理由による.すなわち,われわれが対象に関与する場合,関与者の「思考」は,関与している「状況」の構成要素になっており,思考とその対象とのあいだには,対応関係が欠如しているのである.それゆえ思考は,現実の対象に完全には対応せず,必然的に「歪み」をもってしまう.さらに,参加者の認識の歪みは,再帰的にフィードバックされることによって,増幅された不確定性を発生させることになる.

 関与者の「思考」とそれが関わる「状況」との関係は,二つの機能的関係に分けることができる.ソロスは,関与者が状況をよく理解しようとすることを「認知機能」と呼び,これに対して関与者が状況の動向に影響を与えることを「関与機能」と呼ぶ.認知機能においては「状況」が独立変数であるが,これに対して関与機能においては「思考」が独立変数となる.簡単な数式を使って表わすと,認知機能の場合,関与者の「思考(y)」は「状況(x)」の変数であるから,y=f(x)となる.これに対して関与機能の場合,「状況(x)」は関与者の「思考(y)」の変数であるから,x=Φ(y)となる.これらを組み合わせると,y=f[Φ(y)],x=Φ[f(x)]という式を得ることができる.この二つの関数は,事実が認識に影響を及ぼし,その認識がまた事実の展開に影響を及ぼすというスパイラルな関係を表現している.

 日常的な出来事においては,認知機能はほぼ一定であり,関与機能しか働いていない場合が多い.これに対して歴史的にダイナミックな事象においては,関与者の「認識」と,それが関与している「状況」の両方が変化する.ソロスによれば,均衡分析は日常的な出来事を分析することはできても,再帰性にみちた歴史の動きを分析することはできない.「均衡分析は,認知機能を捨象することによって,歴史的変化を分析対象から排除している.経済理論が使用する需要・供給曲線は,関与機能だけを記述したものである.認知機能の方は『完全な知識』の仮定に置換されてしまっている」.これに対して歴史的変化においては,均衡価格に関する情報もまた,それ自体がバイアスと変動の原因となる.なぜなら関与者の認識は常に歪んでおり,人々は経験から学ぶとしても,決して誤謬や偏向を避けることはできないからである.

 なお,ソロスのいう再帰性は,次の点でハイゼンベルクの不確定性原理[★16]とは,大きく異なる.すなわち,ハイゼンベルクの不確定性原理は,対象に対する外部からの観察の影響を問題にするが,しかし社会事象を扱うソロスの理論においては,内部において意志をもつ関与者が,同じ内部の行為者に対して影響を与えることが問題となる.またソロスの場合,実践というものが,事象に影響を与えるだけでなく,その事象に関する「理論」に対しても影響を与えるという点で,ハイゼンベルクの理論とは想定が異なる.

 さらに両者は,結論において次のような違いがある.ハイゼンベルクの不確定性原理は,統計的・集合的な可能性を扱うものであり,個々の粒子の反応については決定できないが,全体的な反応については信頼度の高い確率予測ができると考える.これとは対照的に,ソロスが取り組む金融市場においては,集計的な確率など意味をなさないのであり,個々の事象の推移こそが考察すべき対象となる.

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