Feature: KANJI War

SUZUKI and KATSURA

特集: 漢字WAR/
Feature: KANJI War

漢字という文化装置
Kanji as Cultural Mechanism

鈴木孝夫桂 英史
SUZUKI Takao and KATSURA Eishi


日本字としての漢字と文字コード問題

──ICCの「バベルの図書館」という展覧会で漢字についてとりあげていることもあり,今日は鈴木先生に漢字と日本語というテーマでいろいろとお話を伺いたいと思います.僕自身は,これまで,図書館やコンピュータといった面から漢字や日本語について考えてきました.そこで,話の発端として,漢字データの交換といった情報処理技術の側面から漢字を考えてみたいのですが…….

鈴木──データの交換とはどういうことですか?

── 簡単に言えば,コンピュータで漢字を表現する際に,これぐらいのデータ規模で表現しましょうという人と,もっと大きなデータ規模で表現したい人との利害を調整するということですね.データの交換という技術的な局面では,どちらかのサイズに合わせることが必要なので,いささか政治的な話になってくるわけです.

鈴木── どちらかが譲るということですね.

── そうです.これは国際標準の話にもなってきています.例えば,アメリカの東海岸には,アジアに関するかなり大きな図書館がありますが,そういう所では当然文献を集めていますから目録を作成します.すると,海外の図書館,例えば日本の国会図書館などと,データを交換したいということになるわけです.そのときデータの表現の枠組みがちがうとデータ交換や共有に支障があるわけです.

これは一般に文字コード問題と言われていますが,僕はずっと,この問題は学術機関同士が話し合えばよいと考えていました.しかし現在ご存知の通り,マイクロソフトをはじめとするコンピュータ業界の発言力が大変大きくなって,彼らが業界の標準を作ろうとしている.それが「ユニコード」という業界標準の枠組みです.でも,彼らの立場からすれば,漢数字の「一」も,音引きの棒(ー)も,唯物論的には同じ文字とみなしてしまうわけです.もちろん,乱暴といえば乱暴なわけですが,情報処理技術の世界的な普及とそれに伴う合理的な処理の枠組みを確立するといったエンジニアリングの立場からすれば,むしろ自然の流れと言えます.さらには,すべてのテクストを収録し,提供したり交換したりすることのできる電子図書館にリアリティが出てきたことも,文字コードというテーマが議論の俎上に上がってきた背景なのだと思います.

 そのコマーシャリズムの流れを契機として漢字について議論することは,ある意味で非常にいいチャンスだと僕は思っていました.

 ところが,去年,日本文藝家協会で,江藤淳氏が中心となって,文字コード問題をテーマとした「漢字を救え! 文字コード問題を考えるシンポジウム」が開かれました.そのとき出てきたのは,漢字を用いざるをえない職業作家の表現が電子化され,インターネットや電子図書館などを通じて提供されたり交換されたりする近未来の事態に,言ってみれば職業作家として明確な立場を表明しておこうということですね.その立場の表明は別にいいのですが,文藝家協会の若い作家たちの発言内容を見ると,いきなり「日本語を守れ」的なメッセージになっているんです.漢字データをどのように交換すればよいかといった議論ではなく,むしろ日本語を守れという日本文化を絶対化するキャンペーンになってしまいました.

鈴木── 日本語はいま,英語という大きな波に翻弄されているわけですね.

── 要するにコンピュータは,アルファベット26文字を処理するために作られたようなものだという議論です.これは確かにその通りなのですが,いまこれだけコンピュータが普及した時代に,彼らが何に危機感をもっているかというと,自分たちの表現力が技術的なもので狭められてしまうのは我慢がならないということです.

鈴木── 狭められるというのは具体的にはどういうことですか?

── 例えば小説家が原稿を手で書く場合,JIS規格やユニコードにはない漢字を使うかもしれないわけです.よく持ち出される例が森外の「」や内田百の「」などです.コンピュータで漢字の使用範囲を決められるということはその表現力が狭められることにつながるという危機感です.

しかし,そこから急に日本語の表現力といったテーマに議論が集中するのはいささか飛躍なのではないかと僕は思うのです.つまり日本語全体がもっている表象性と漢字がもつ表象性は,関係はしますが,それを分けて議論する必要があると思うのです.日本語で芸術表現をしている人が,漢字の話に問題を限定してしまうのは,少し貧しさを感じます.

鈴木── 世界中には,ローマ字とは違う文字体系がいろいろありますね.漢字,キリル文字,アラビア文字,アルメニア文字,ヘブライ文字,そしてギリシア文字など.キリル文字やアラビア文字は,ローマ字ではないという点では漢字と同列ですが,文字の性質,つまりローマ字に書き換え可能かどうかという点から見ると,ローマ字化しても本質的に困ることはない.ところが日本語などでは,ローマ字化すると飛んでしまうところが出てくるんです.そこの違いを,誰かがつかまえて議論しているのだろうか,と私はいつもいぶかしく思っています.

 国語学の研究者はそれを知りませんし,言語学者は文字には興味がありません.ご存知でしょうが,言語学者にとって文字は洋服のようなもので,和服を着ても洋服を着ても人は変わりません,と.つまり,言語の実体は服の内側だという近代言語学の考え方が,日本の言語学界を支配しているのです.すると,グラフィーム(言語学用語で「文字素」のこと)は言語そのものではなく,言語にとって外的なものだというわけです.それに対して私は,日本語の場合,ローマ字化すると言語の実体が変わってしまうんだと言ってきました.本当は外的な存在だけれども人間という存在に食い込んでしまう靴のようなものだ,と.起源は外的ですが,漢字を千年以上も使ってきたという現実の歴史を踏まえた日本語は,そうでない文字を採用した場合とは全然違う道に入ってしまった.これが迷い道なのかどうかは別として,違う道なのだということを認識させることから始めないといけないと思いますね.

── 文藝家協会のディスカッションには,漢字仮名混じり文という問題認識を発見できませんでした.僕はそのことが少しショックでもありました.漢字仮名混じり文がもっている不連続性という特徴は重要で,例えば一文の中にもそうした断絶がある.

ワープロでローマ字変換しているときにも,身体的な振る舞いとしてもそうした不連続性があるんです.単に単語をスペースで区切るとか,音節がバラバラなものを集めると合成語になるとかいうのとは別の不連続性です.作家も含めて日本語で用いられている漢字は,漢字仮名混じり文を前提とする限り「日本字」だと思うのです.

鈴木── 漢字だけを問題にすると,それはもともとは中国の言葉だったのだから手を組むかという話にすぐなりますが,私は国語審議会で「関係ありません」とずっと言いつづけてきました.もう30年以上前からです(笑).あの頃毛沢東は,中国で漢字を使うのはやめると言っていましたが,私は,中国語と漢字の関係と,日本語と漢字の関係とは全然違うと言ってきました.日本語にとっての漢字は,仮名混じり文であるがために,形態素がヨーロッパ系の言葉みたいに切れないとか,句読点の代わりを漢字がするとか,他の言語では考えられない複雑な効用を発揮しているのです.

 よく日本語については,他の言語と比べて非常に特殊で,マッピングをしても孤立した位置にある言葉だと言われますが,これもまた日本人の情けなさで,たまたま現在の世界をリードしている言語と離れているだけのことです.国際化時代に欧米に遅れるとかいう主張ですね.しかし,ヘブライ語なんかは,2000年のあいだ死んでいた言葉を第二次世界大戦後にわざわざ復活させて,その文字ときたらまったく国際性がないのに平気です.漢字仮名混じり文について言語学的な議論をすると,世界の大勢に従いたいという日本人性が必ずつきまとって出てきますが,それと日本語における文字の機能と効率の問題を分けて考えないと議論ができなくなる.ですから,桂さんのようにいわゆる言語学とは関係のない方に改めて交通整理をしていただくといいと思います.

── 交通整理の能力が僕に備わっているかどうかは別にして,僕がいままで漢字に関わってきた範囲で言うと,C(中国)とJ(日本)とK(韓国)という枠組みで事を運ぶ話になってしまう.

このCJKという「国際協調」にも僕は大変違和感を覚えます.日本語の表象としての漢字は,C(中国)ともK(韓国)ともまるで異なる運用論で漢字を用いている,あるいは用いてきたはずです.日本語が用いている漢字というテーマは運用論があってこそリアリティをもつのではないかと思うのです.

したがって,漢字仮名混じり文の運用論が必要不可欠になってくるんです.われわれが使っている言葉のことを考えれば,漢字の起源や形態論を厳密に議論して,その後で日本語の運用論を考えてもまったく無意味だと思います.しかし,ア・プリオリに漢字仮名混じり文を考えましょうと言うと,どうもそれは日本語という言語にアプローチしていく上ではオーソドックスではないらしいんですね.

鈴木── 私は,国語審議会でも漢字の有名な専門家には出てもらいたくないなどと言ったために, 顰 蹙 を買ったんです(笑).つまり彼らはすぐに「中国では」と言うんですね.例えば,イギリスでスペリングの問題を話し合う場合に,古代ギリシア語やラテン語の専門家は出てきません.

たとえ文字がラテン文字を使っているとしてもです.しかし日本語の話になると,いつのまにか中国の漢字の,しかも古代の話と切っても切れないことになる.だから私が提案したのは,「世界で漢字をこのように使っている民族は日本人だけだと仮定しましょう,よその国のことは考えないようにしましょう」ということです.

言語として全体がどう機能しているのか,その効率は良いのか悪いのか,何に日本人は困っているのかを議論すべきなのに,ある一部分をヨーロッパ語と比較して「ここはこう複雑である,だからこう直すべきだ」という議論になってしまう.そして例えば,明治以来の漢字廃止論者のように,「日本がなかなか経済的に発展しない最大の原因は日本語の効率の悪さにある」という言語以外の話になったりする.

ところが日本はその非能率と言われた漢字,日本語を使って,短時間のうちに世界の経済・技術超大国になってしまったのですから,私はいつも漢字や日本語を非難する人々の頭のほうが悪い,問題があると言っていますよ.

目次ページへleft right次のページへ