特集: 漢字 WAR/コンピュータ会社と日本語
漢字という文化装置

日本語に見る翻訳システム

──「日本字としての漢字」というのを前提とすると,どうしても翻訳の話が切り離せないと思うんです.漢字仮名混じり文の中にある造語が入っていると,ある種独特の抽象性をもちます.例えば学術用語でも,「情報処理」などといったいわゆる四文字熟語がたくさんあります.専門的な文脈に入ってくると,抽象度の高い漢字が突如として登場して来ますよね.

鈴木──医学ならば「白血病」とか,農業ならば肥やしをやることを「施肥」とか,水やりを「潅水」とかわざわざ言いますね(笑).

―― 日本語の書き言葉において,漢字がもっている抽象の力は,やはり漢字仮名混じり文を使っているときに生きてくると思うんです.最近では小学校でもパソコンを教えようとしていますから,文字を作るという考え方が拡がっていくでしょう.すると造語の抽象度が飛び抜けて高くなり,いままでの漢字仮名混じり文とは違う文章が出てくる可能性があるのではないかと僕は思っているんです.

鈴木――どういう例が挙げられますか?

―― 名詞を組み合わせて造語を作るということはいままでも当たり前にありましたね.典型的なのは,若い人が使う「超」という言葉です.あれは形容詞にくっつきますね.「ハイパー」とか「スーパー」という意味で使われていますが…….

鈴木――言語学的に言うと,日本語には接頭辞の役目を果たす要素がほとんどなかった.「“真”白い」とか「“小”気味がいい」とかその程度で…….確かに「“激”安」など新しい用法ですね.

―― そういう言葉がだんだん増えてくると,いままで名詞同士をくっつけて合成語にしていた言葉,例えば「情報処理」とか「白血病」といった言葉とは,違う抽象度をもつ可能性があるのではないか.

そしてより話し言葉に近いかたちで抽象度が極端に上がることがじゅうぶん考えられるし,それが漢字仮名混じり文という書き言葉にフィードバックされてくる可能性があります.僕はこうした動きが最近目立ってきているのではないかと思います.東大にも「超域文化科学専攻」という大学院の専攻ができちゃったぐらいですから(笑).

鈴木――それは「〜を超えた」という意味で使っているんですか?

―― 「インターディシプリナリー」の訳語なんですが,これはいままでとは異なる抽象性をもっていますよね.

鈴木――それを素直に考えると,利用できるのにいままで眠っていた能力を活性化し拡張することだから,歓迎すべきことですね.
美的・歴史的には,「そんなのはありえない」とか「聞いただけでゾッとする」という反応が保守的な人にはあるかもしれないけれど,理論的に言うと使えるはずのものがいままで空位になっていて,ヨーロッパ語との干渉や接触によって,新しい表現が日本語にもたらされるというのは,一種の創意工夫に基づく発展ですね.

―― そうだと思います.しかし,「超域」もそうですが,訳語を当てるという意味での翻訳の問題が棚上げになったままなんです.

鈴木――最近は翻訳家も知的努力をしないで,英語をそのまま「アメニティ」とかやるけれど,明治期の人たちはそれを一所懸命考えて,語源のギリシア語・ラテン語まで遡ったり,あるいは語意を汲み取ったりしてこなれやすくしたんです.
でもいまの人はあっさりと「ターミナル・ケア」などとしてしまう.英語はギリシア語・ラテン語を使って高級な用語をほとんど造語しましたし,明治期の人たちは,当時慣れ親しんでいた漢文の素養に基づいて訳語を作ったんですが,そうした素養が薄れてきているいまの人にとっては,漢字を組み合わせて作った言葉に対する違和感が増えてきたんですね.だから明治期の人たちが考えもしなかった拒否感があるのかなと思いますね.

―― そこで問題になってくるのが,カタカナの表象の力だと思うんです.「コミュニケーション」とか「ターミナル・ケア」と言われたときに,これがまた独特の抽象度をもつんですね.役人たちはカタカナ言葉でいろいろなことを曖昧にしているところがあるわけですが,そうしたものと学術用語がもつ抽象度はちょっと似ているのかな,と思うんですが…….

鈴木――似ているところもありますが,非常に違うとも言えます.漢字を組み合わせた学術用語の場合,例えば「白血病」は「しろいろのやまい」のことだと意味解釈ができるわけですが,「ターミナル・ケア」という場合に,この言葉の全体としての意味がわかっても「ターミナル」が何か,「ケア」とは何かがわかって使っている人はほとんどいない.そして意外と「バス・ターミナル」などと同じ要素であることが気づかれません.

もう一つ例を挙げると,「足のマニキュア」と言う人がいるでしょう(笑).欧米人は「マニ=手」だとわかるから,足ならば「ペディキュア」だと対応できますが,日本ではなかなかそうはならないんですね.そうすると,たくさんのカナ書き外来語の一つ一つを,構成要素の意味がわからないために全体を一つのかたまりとして暗記せざるをえないのです.だから,記憶に大変な負担がかかることになります.みんな英語を使っているつもりですが,じつはそれもまた新しい鎖国的な使い方であって,日本語の国際化にすごく余計な重荷を増やしている.ところが当の本人たちは国際化時代だからと,なるべく「英語」を使って漢字語を使わないほうがよいと思っているのでしょう.幸いなことに,いまの日本で「白血病」を英語風に「ルキーミア」と言うまでにはなっていない.

さきほど説明したように,「白血病」というと白血球がおかしいんだろうかといった具合に,素人に対しても何らかの手がかりが残されているんです.ところが英語を使う国では,病院に行っても,無学な人はどこに行ったらいいのかがわからないんです.小児科は「pediatrics」と書いてあるし,産婦人科は「gynaecology」となっていて,ギリシア語を知っていれば「gynae」は「女」ということがわかりますが,そうでないとわからない.ですから,イギリスなどでは庶民とインテリとのあいだに歴然とした知的格差がついてしまうのです.いま日本で英語をそのまま丸ごと外来語としてカナ書きで使うことが多くなると,英語に見られる上下の知的差別を無意識のうちに取り入れていることになります.

戦後の日本はせっかく知識の平準化を実現しているのに,「国際化」と称してそうした格差をもち込むことになり,国語をみんなにわかるようにしようという意図とは逆の結果になってしまいます.事物についての固有名が少ないときには個別に覚えたほうが効率がいいのですが,数が増えてくると,要素の組み合わせでやっていかないと記憶の負担が大きくなってしまう.

例えば「冬に咲く桜」という意味の「冬桜」と「夏桜」は,「桜」という語が共通であるため同じ仲間だとわかりますが,カタカナ語の英語を使ってそれぞれ別の単語にしてしまうと,相互のつながりがもはやわからなくなる.つまり,ものの知識が必要になって,言葉の上での関係が切れてしまうんですね.いま増えているカナ書き外来語はそうしたことをやっているわけです.

―― 確かにカタカナ語の場合はそうだと思うんですが,翻訳された専門用語で,僕がいつも例に出すのは「写真」なんですよ.

鈴木――ああ,「写真=真実を写す」ね.

―― 「光の記録」というのが「フォトグラフ」の元の意味ですね.それが書き換えられてしまっている.

鈴木――確かに「写真」の場合はもとの英語の字面,つまり言語要素を直接には反映していません.それは「airplane=飛行機」の場合も同じです.明治期の翻訳語には二種のタイプがあって,一つは「automobile=自動車」のように,「auto=自」「mobile=動」といった具合に言葉を直接対応させ置き換えるもので,「白血病」などもこのタイプに入ります.

もう一つは元の英語の言葉としての意味ではなく,それが表わしているもの,対象の性質や機能を考えてそれを漢字で表現するもので,写真はこのタイプなのです.つまり漢字による外国語の翻訳には直訳型と意訳型があると言えます.どちらがプラスかマイナスか,というのは面白い問題ですね.「映画」はまあ「写真」よりはいいかな? それに「録音」というのも「音を記録する」わけですが,確かに「写真」とは違いますね.

―― かなりそこはエモーショナルになってしまうかもしれませんが,僕は美術大学で教えているものですから,「写真」を使って「メディアの理解」について説くことがあります.大学には写真をやっている学生がたくさんいます.「フォトグラフ」という英語を知らない学生はいないのですが,「光の記録」と説明するとみんな「なるほど」と言って妙に感心してしまいます.その度に自分で説明しておきながら,何とも言えないような違和感を覚えてしまいます.

語源を誇らしげに説くことは,ペダンティックすぎていささか僕の趣味に合わないのですが,漢字を用いた造語が写真というメディアがもっている核心を隠してしまうような気がして,違和感を覚えながらも仕方なく説明しています(笑).「写真」の場合が示すように,メディアの仕組みも含めて,漢字が当てられた造語から類推されうるセマンティクスが誤解をはらんだメッセージとなってしまいがちですが…….

鈴木――私は保守主義者であると同時に革新主義者で,何でも漢字がいいというのではありません.例えば「蛋白質」という言葉は「卵白質」に変えたほうがいいと主張しています.なぜなら「蛋」とは卵のことだし,「蛋」は日本語では他に使われることはまずないんですね.要するに,「卵」のように応用が利かない「蛋」のような孤立的な要素は減らしたほうがいい.なるべく少ない数の要素(漢字)の組み合わせで多様なものを表わすべきなのです.

「卵白質」だと意味内容もわかるけれど,「蛋」では何のことかわからず暗記しなくてはならない.そういう意味では,私は何がなんでも漢字を変えては困るというのではなく,機能的に考えましょうと言っているのです.何が効率が高いかを考えるべきです.そしてもし支障があればやめればいい.

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