InterCommunication No.15 1996

Feature


第三の美術館 2/6

ートはもはや公認された正統的な趣味嗜好との一方向的な出会いでもなければ,個人的解釈による二次的出会いでもない.それは,観客が創造的システムを統合する一部となるような,変容とインタラクティヴィティを巻き込む第三の緊密な出会いなのだ.こうした私たちの時代のアートは,デジタル,超自然的,テクノロジカル,オンライン,ヴァーチュアル,ポスト生物学的等々の呼び名を得るだろうが,いずれにせよ,今後は常にインタラクティヴなかたちをとることだろう.
「第三の美術館」を語るということは,その構造の最終的な青写真を作ることよりも,それが出現してくるプロセスこそが問われなければならないため,その構想ないしは人工的遺伝情報の二つの基本軸について語ることである.その基本軸は行動と建築に関わっている.このコンテクストにおける「行動」という言葉を理解するためには,私が「サイバー知覚(cyberception)」[★2]として定義づけた事柄を理解してもらわなければならない.ポスト生物学的テクノロジーは,私たち自身の変容に直接関わり,私たちの存在の質そのものに変化をもたらす.今,姿を現わしつつあるサイバー知覚の能力,人工的に能力を高められた知覚と認識の相互作用は,世界規模のネットワークとサイバーメディアという個人を超越するテクノロジーを巻き込んでいく.私たちは今,出現のプロセスそのもの,そして地球を覆うメディアの流れを再び見つめることを学びつつあり,その一方で同時に,新しい世界の建築の可能性を再考しつつあるのだ.サイバー知覚は新しい身体と新しい意識を包含するばかりではなく,ヴァーチュアルおよび現実の空間を繋ぐインタースペースでどのように他者と共生していくかということに関する再定義すら含むものである.
西洋建築は表面と構造,つまり威容を誇るための「大建築性」にあまりにも目を向けすぎていて,変容するシステムを欲する人類の欲望には無頓着であった.いわば建築の生物学といったものの存在が想定されていなかったのである.サイボーグ的生活や分散した自己の現実の様相,あるいはデジタル・インターフェイスやネットワークのノードが生み出す生態環境に対して,建築は何のレスポンスも返してこない.都市とは,意識の新しい形態,ポスト生物学的な生活のリズムや実感から成るマトリクスを形成するものでなければならない.
ンピュータとコミュニケーションの収斂が,テレマティックな文化という環境を産み出しつつある.こうした文化環境においては,とりわけ美術館という理念的な手段によって実証されているように,今まで大事に育てられてきた数々の機関や美術的実践が挑発を受け,場合によっては脅かされ,または明らかに余計なお飾りだと感じられる.「表象の文化」に対して新しいテクノロジーや新しいメディアが与えるサイバーストレスは,個人的な経験におけると同様,より広い意味での政治的なレヴェルにおいても感じられることだろう.テレプレゼンス,生体工学的な多様性,拡散する知識,コラボレーションによる創造性,人工生命などが,私たちの自己の感覚,自然的なものや人間的なものに対する感覚,日々の現実の状態や真実性に与える衝撃は,大概の伝統的な言説が耐えられる範囲を超えている.だが,その限界点は文化の死や意識の一貫性の欠如ではなく,私たちの存在の全状態の再活性化であり,私たちが現実と呼ぶようになるものの条件と構造の刷新というかたちをとることだろう.


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