Computer Graphics: A Half-technological Introduction

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アナクサゴラスの偉大な言葉によると,物事は正義に基づいて現象し,消えてゆく,といわれる.それに対して私は,決してコンピュータ・グラフィックスだけに限らない画像というものが,一般に不正義・不公正に基づいて現象するのだということと,その理由を述べてきた.脊椎動物の目は,(センサーとしての小さな棒と栓とのあいだで)「何なのか」という見方と「どうなっているのか」という見方とのあいだを,あるいはまた絵を楽しむ場合と戦争のような出来事とを,区別する.手垢の付いた画像(Bild)という言葉の代わりに空間操作という言葉を用いるのがよいと思われるが,私の以前の論文「時間軸の操作」の続きとして,空間操作においても,デニス・ガボールのことを思い出す人もいるだろう.
ガボールはハイゼンベルクによる1946年の量子力学の不確定性理論を情報技術的な明晰なテキストに読み換えた人である.画像の点の場所を追究する者はその周辺のさまざまな点を視野から見失ってしまうし,逆に点の周辺状況,つまり面を追究する者は画像のあらゆる点が引き起こすかもしれないショックを逃してしまう,というわけである.さらにこのジレンマが幾何学から光学への移行に際して一段と強まることを理解した人は,「それに対して応えないことがコンピュータ・グラフィックスである」ようなそうした問いにある程度近づいたことになる.
というのも,そうなれば空間操作はもはや単に面とその上の点のあいだで起こるものではなく,一方では面と面の点のあいだで,しかし他方では光体とその上の点とのあいだで起こるものだからである.言い換えれば,積分と微分は,積分と微分の関数になる.方程式の右側は左側に依存するし,その逆でもあるのである.

コンピュータ・グラフィックスの公正さというものが存在するなら,それはしたがって,第二ジャンルのフレドホルム型積分方程式であるだろう.それはすなわち,「積分の内部と外部の双方に登場する未知関数の積分」のことで,その「重要な応用領域」は,象徴的なことであるが「量子物理学の粒子力学」[★15]にある.1986年,すなわち最初のラジオシティ・プログラムと古きよきレイ・トレーシング信奉者の人々とのあいだで競争が始まった頃,カリフォルニア工科大学のジム・カジヤは,彼の言うレンダリング方程式,すなわち一般的再現方程式を逆説的かつ物理学的に展開するという大胆な成果をあげた.私たちはだれでも怠慢さというものを抱えているが,カジヤの方程式では怠慢さは,変数のうちのいくつかを虚構の定数と交換しさえすればよい,という域に達していた.その結果レイ・トレーシングかラジオシティがアルゴリズムの部分量として算出されるというわけである.
量子電磁力学の美しさは,しかし怠慢さとは関係ない.逆にレンダリング方程式が提唱されて以来,どのコンピュータ・グラフィックスにも一つの目標が見えてきたのである.この目標は,到達しえないがゆえにこそ,ひょっとするといつの日か,ブルネレスキの徹底した幾何学による透視図法よりも不名誉に終わることはないとの約束を与えてくれるのだ.そうなったとき初めてコンピュータ・グラフィックスはコンピュータ・グラフィックスとなり,見ることのできないまま現象しているもの,例えば量子物理学的に散乱した粒子力学の光学的部分量などを見せられるようになるのである.

ハイデガーの近視眼的な語源解説によると,“Phanomenologie”,すなわちランベルトの魔法の言葉の中でも哲学史の上でも最も効果のあった言葉である現象学は,“legeinta phainonema”すなわち「現象しているものの収集」という用語に起源をもつとされている.視野の広いコンピュータ・グラフィックスでは,そのような収集などというものはまったく存在する必要がない,なぜなら,明るく光るラジオシティの面は最も安楽な投影面を決めてしまっているし,輝く光点は一番速い光線追跡の道筋を決めてしまえるからである.発射体は,あらゆる対語の中でも最もバカげた対語である主観と客観の対立を葬り去った.
したがって,私たちの眼は,遠距離爆弾Hs293Dやそのクルーズ・ミサイルという子供たちにおいてのみ世界にばらまかれているのではない.私たちの眼は,カジヤのレンダリング方程式以来,世界それ自身が,少なくともマイクロチップという隠れ蓑をかぶって,将来のある筆舌に尽くしがたい日に,その画像を投げかけるであろうことを期待することができるのである.「現象するものの収集」は,それによって簡単になるわけではない.

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