Computer Graphics: A Half-technological Introduction

 

コンピュータ・グラフィックスという言葉は文字通りのものである.視覚的な世界をいま一度約束できる何十億マルク規模のビジネスの背後には,ケンペレンの,したがってベンヤミンの,「チェスをするこびと」が潜んでいる.デジタル・コンピュータは,少なくともジョン・フォン・ノイマンの基本設計が有効でありつづける限り,次元をもたないドット,すなわちビットないしピクセル,方形のメモリー・スペース,命令セットなどを集めたものである.
これは,必然的組み合わせでもエレガントでもないが,値段は安い.私たちは誰でも例えば,六角形の蜂の巣構造のほうが包装効率が,したがって相互作用効果がずっと高いことを知っている.しかしfor the time being,つまり現在という存在と時間にとっては,もっと愚かしい法則が支配しているのだ.輝く光と帰納によってのみ周囲をある程度輝きで包まれ霧で包まれるような,そうした無次元のドットの自己投影がレイ・トレーシングである.それに対しラジオシティはまったく反対に,なまなましい色分散と,大変な労力をかけての面分割によって,ある程度曲線をつけられて収められた縦横のチップ面の自己投影のことである.
微分的計算としてのレイ・トレーシングはヴァーチュアルな無限性を開く.それは,カスパー・ダヴィット・フリードリッヒの場合と同じように,私たちの有限でロマンチックな世界に投影される無限性の世界である.積分的計算としてのラジオシティは,自分自身についてのヴァーチュアルな世界を閉じるが,そのヴァーチュアル世界の周辺条件は,フェルメールのカメラ・オブスキュラを用いた絵におけるように,常に一定でなければならないものである.閉所恐怖症的な風景画と閉所愛好的な歴史物語絵画――この両者ともコンピュータ・グラフィックスの一世を風靡したものである.

私がコンピュータ・グラフィックスへの半ば技術的入門の代わりに料理のレシピをお約束していたなら,本稿はここで終わりとなるところだろう.室内愛好者はラジオシティ・プログラムをコンピュータ・ネットからゲットするだろうし,開かれた地平の愛好者は反対にレイ・トレーシング・プログラムを取り寄せるだろう.そして少なくともLINUXのもとでブルー・ムーン・レンダリング・トゥールズ(Blue Moon Rendering Tools)が存在するようになって以来,そうした選択それ自身も機能しなくなっている.
この,青い月に負けず劣らず不思議なソフトウェアは,ヴァーチュアルな画像世界を一回目のプログラム実行ではラジオシティ的感覚に依拠して全体を,そして二回目にはレイ・トレーシング的感覚に依拠して個別箇所を算出するというすぐれものである.こうしてこのブルー・ムーン・レンダリング・トゥールズというソフトウェアは,「対立の一致」を実現しており,それは単なる両者の単純な加算などではありえないと言われている.そのような二重算出方式というものが単に第一回計算に付け足す第二の計算などではなく,第一回が第二回を見越したかたちで行なわれなくてはならないのであるが,その理由が何なのかをお話することは今日の講演には脇道にそれすぎることになるだろう.さもなければ,視覚的エネルギー伝達の四つの可能なケースを肝に銘じておくことはできないのである.

幸いブルー・ムーン・レンダリング・トゥールズからの教訓は,簡単かつ形式的に引き出すことができる.もう既に,コンピュータ・グラフィックスの二重方式は,苦い経験をしており,分散した反射や分散した屈折は決して鏡面反射や鏡面屈折とは同時に起こらないという真実を得ている.局地的・鏡面的な世界は大局的・分散的な世界とは反対のものでありつづける.
なぜなら,積分は微分の反対であり,ラジオシティはレイ・トレーシングの反対だからである.したがって,ハイデガーの怒りが既に1938年,私たちの情報操作された現在を規定していた頃[★13],世界像の時代は,アルゴリズムが決して詳細かつ全体を統合するような世界像を算出することはできないという確認へと向かっている.「何なのか」という見方と「どうなっているのか」という見方,局地と全体面,還元と統合,一回的な出来事と反復,これらのあいだには,常に妥協しか存在しえないのであって,決してジンテーゼはありえない.そこでは,そうしたものとしてのコンピュータ・グラフィックスが,こうした排他的性質からそもそも妥協を生み出してくれたことに,心からの感謝の念を抱くべきであろう.
というのも,かつての哲学的美学,その一番いい例はカントの『判断力批判』であろうが,スケッチと色彩の差異,導関数と積分の差異といったものを慈しみつづけたそうした哲学的美学では[★14],絵画もコンピュータ・グラフィックスももてあましてしまうであろうと思われるからである.

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