Computer Graphics: A Half-technological Introduction

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こうして,いわゆるコンピュータ・グラフィッカー信徒集団が1986年以来,寝返ったとはいわないまでも,その反動に走るに至る.《フェルメール風のオランダの室内》というのは,単に数多くの時間をかけたコンピュータ画像の一つのタイトルであっただけでなく,プログラミングの方針でもあった.
ラジオシティは,ドイツ語では「光のエネルギー計算(Lichtenergiekalkul)」などというこなれない訳語があてられているが,その意味するところは,画像を,もはや輝きや面のドットによって算出するのではなく,光る面,照らされた面から算出するということである.それによって赤い帽子の色は,血まみれの専門用語が血の出る思いで約束したものをやっと実行に移すことができる.つまり,アクティヴな面の光のエネルギーは,フェルメール的な考え方に厳密に従って,その面と直交していないあらゆるパッシヴな隣接面へと流れてゆくのである.
それに対する説得力をもった,しかしあまりに人間的な反論として「人間の眼というものはそのような色の分散などはものを再認識するという目的のために敢えて見過ごそうとするものだ」という反論がありうるわけであるが,ラジオシティの方法にはそんな反論は通用しない.最後に問題となるのは,目でも見ることのできる世界の計算なのであって,技術的に語るなら,ヨハン・ハインリヒ・ランベルトが1760年に,光を完全に拡散する面に関してうち立てた余弦法則は,関係するすべての面の積分によって満たされるのである.

しかし数学的エレガンスを身にまとった理論の話はこのくらいにしておこう.ちなみに,この理論もレイ・トレーシングの理論も,コンピュータ・グラフィックスそれ自身から生み出されたものではない.ラジオシティの始まりには,弾道ミサイルが大気圏再突入時に抱える,膨大なコストのかかる重要問題があった.ミサイルの金属表面は,宇宙での極端な冷たさと極端な摩擦熱とにさらされるため,その破壊を防ぐためにNASAはフーリエの1807年の熱伝導に関する解析理論の現代化を徹底的に進めなくてはならなかったのである(チャレンジャー事故の話はここではしないでおこう).

したがってラジオシティはレイ・トレーシングとは対照的に,必要に迫られた場合のアルゴリズムである.積分というものは,単に形式的な洗練を考えるときには微分の逆関数として定義されうるのだが,厳しい現実経験世界においては,あまりに計算時間がかかりすぎるものである.ラジオシティ・プログラムが使いものになるためには,「その線形方程式の解を求めるにはたった一つの過程しかない」という立場を放棄する必要があった[★11].

俗な言い方をするなら,まずはアルゴリズムを始めてみて,まずは真っ暗な暗闇でもめげることなく,プログラマーのあいだでは有名な「コーヒー・タイム」を取ってみて,それから1,2時間たってようやくグローバルな光エネルギー分布についての最初の使いものになる結果を拝ませていただく,というわけである.いわゆる自然がナノ秒単位での並列計算によって生み出すものを,デジタルの世界における第二の自然と称するコンピュータは青息吐息で計算するわけである.

デカルトの実体は理想化されているからこそ,洗練されたあらゆる長所を示していた.しかしそれに対し,19世紀になってフーリエやガウス,マクスウェルやボルツマンといった人たちがエネルギー,面積分,熱力学を計算しだしたとき,この実体は少なくとも機能障害に陥り,はなはだしくは,例えばメビウスの輪のように,まったく狂ってしまった.したがって機械の世界から現実世界へ,演繹から積分への歩みは,数学的なカラ手形を出しながらのものだったのである.ようやく今世紀になって,この手形への支払いがなされてゆく.ヴィレム・フルッサーが常に強調していたように,デジタル・コンピュータは19世紀の偉大と悲惨を形成した問いへの唯一可能な答だったのである.

デジタル・コンピュータはしかし,デジタル・コンピュータでしかない.そこには0と1の無限の連なりがあるだけ,言い換えれば二つの任意の整数の任意の重なりがあるだけである.あらゆる円,球,そしてデカルトの眩暈の発作のもととなっているπという数からして既に,希望する限界値に近似する場合に,という条件付きで,チューリングのいう「計算可能な数(computable numbers)」の一つなのだ.しかしそれには時間がかかるし,コンピュータ・グラフィックスには無限の時間が与えられているわけではない.そこでラジオシティ方式は,まずガウス曲率が0でない,または0でありつづけないすべての面を消し去ってしまう.
レイ・トレーシングは球やメビウスの輪,グラスや花瓶というものを予め予定しておいたのに対し,ラジオシティ・プログラムにおいては,プリプロセッサーがすべての美しい幾何模様をまず三角形や四角形の平面要素の組み合わせによって構成される荒涼たる格子模様へと変換してしまう.想像力の乏しいバウハウス建築はコンピュータ・グラフィックスには大歓迎,なぜなら,さもなければ解決に必要な積分が禁止されなくてはならないほど――というかわいい言い方がよくされるが――難しくなってしまうだろうからである.しかし,そうした平板さは,どの面が表現可能かを決定してしまうだけでなく,それらのあいだの相互作用がどのように数学的にモデル化されるのかまでを決定してしまう.輝く面は赤,緑,青の光のエネルギーを,面と面とのあいだに存在する角度の正確なランベルト測度にあるすべてのほかの面に対して明確に知らせなくてはならない.
しかしそのためには,恐ろしいことにどうしてもπに戻ることが必要となるだろう.したがって,輝く面は,どんな知覚においても身近な自分の周りの半円の中に見るのではなく,代わりに計算効率の理由から,自分独自のマンハッタン・ブロック幾何学[★12]を作り上げることになる.ラジオシティ画像においては,ほとんどモンドリアンの絵とそっくりに,直角に次ぐ直角が並ぶことになるが,でも本当はそのいずれもが本当の直角ではない.
レイ・トレーサーが見せびらかす輝く光は,順々に近似値に近づく退屈そのものの積分のなかでは色褪せてゆく.言い換えると,ラジオシティとしてのコンピュータ・アーキテクチャーは,それ自身盲目の二進法の眼で自らを見ることになる.現代のグラフィックなユーザー・インターフェイスに関するとてつもない広告文句は「あなたが得るものはあなたが見ているものです(What you get is what you see)」というものであったが,その弁証法的な真理は,「あなたが見ているものはあなたが得るもの(What you see is what you get)」であり,そしてあなたが得るものはコンピュータ・チップだった,というものだったのである.

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