時間の速度を緩めると空間も広がる

献身

LW──あなたは,「伝統的な宗教的コンテクストでのアート制作の問題は,ふつう,最終結果の見栄えよりも,アーティストその人の献身や熟練に関係するところのほうが大きい」と言っておられます.これについてもっと詳しく話していただけますか?

BV――そうですね.ものには,そうしたものの直接の感覚上の知覚とは関わりのない,もっと別の質がある,ということ.聖母子像のそばに,もう一つ別の聖母子像があるとしますね.これらの像の一つは強力で神聖なイコンで,もう一つは,そういうパワーをもっていないありふれた絵だとする.
さて,そのパワーはどこから生まれてくるのか? 素材からではない.技法からでもない.「自己表現」からでもない.神のために何かをつくっている場合,それはほんとうに真剣です.最良のものをつくらなければならない.ただ自分だけのためにつくるわけにはいかないんです.だから,誰のために作品をつくるのか,ということが肝心.一般の人々のためなのか? それとも批評家やキュレイターからなる美術界のためなのか? あるいはまたクライアントのためなのか?
今日のアーティストのかなりの数の者は,自分たち自身のために,あるいはディーラーのために,また展覧会のために制作する――そしてマーケットがとてつもない影響力をふるいます.アーティストは神のために作品をつくるといった伝統的な考えは,現代風に言うなら,アーティストは自分たちの外にあって,自分たちよりも大きい何かからの,そして何かへの贈与として制作するべきだ,ということなんです.

社会のなかのアーティストの今日的な役割というのは,じつはここオランダで,80年戦争後の17世紀,アーティストがもはやカトリックの教会や王侯貴族の庇護を受けなくなったときからはじまった.王侯の庇護や教会との結びつきを失ったあと,アーティストが新しい権力構造,すなわち商人階級のために作品をつくるようになったのは,ヨーロッパの美術史上はじめてのことでした.
彼らは自分たちの作品を,ほかの商品ともどもマーケットに出さざるをえませんでした.いまや彼らは,自分たちのアートを売ることによって生計を立てなければならないという,現実世界に足を踏み入れた.アーティストたちは新しいマーケットのために,世俗的なイメージ(しばしば寓話的な意味をともなっていましたが)や物質的なものを描いた風俗画,食べられそうなほどリアルな食べ物がテーブルに盛り沢山に並べられた美しい静物画,新興企業の重役や社長の像などを生産しはじめたんですね.

もちろん,全部が全部,売れたわけではない.「ひもじいアーティスト」が生まれます.アーティストは「タクシー」を運転したり,小さな「モーテル」を経営したり,半端仕事をやりながら,かたわら休みの日に制作する.フェルメールは旅館を営み,週末には二階にあがって絵を描いていた.だから,オランダ人は実際,かなり時代にさきがけていたんですよ! だけど,結局,フェルメールのような人の場合には,まったく同じとは言わないまでも,同じような題材を扱っていた凡百の画家とを分け隔てるところが作品に宿されている.それは,否定しようもないんですね.だからやはり,問題は,作品にパワーを与えるのは何か,ということ.確信はないけれど,わたしはフェルメールがもっと早い時代に生まれていてカトリックのアーティストだったとしても,彼の描く聖母は同じパワーをもっていたと考えたいんですよ.

前のページへleft right次のページへ