時間の速度を緩めると空間も広がる

直接体験

LW──2500年前に,歴史上最後のブッダが,われわれは分析や直接的な知覚を通じて真理を得ることができる,と言いました.あなたは,「私はアヴァンギャルドを,直接体験という伝統の復活だと思うようになった.20世紀のアートの多くはそういうものだった」とおっしゃっていますが,それとこの言葉とは矛盾しないわけですね?

BV――ああ,それはいいご質問ですね.そのより深いところへは,この世界の物質的なものを,避けるのではなく,じかに経過することによっても到達できる,と私は思います.私の場合,そのためにヴィデオが役に立ちました.ある意味では,画家も同じようにやっている.E・H・ゴンブリッチがかつて,絵画を「リアリティとの競合」だ,と述べたことがありますね.私にとって,用いるメディアにおける結節点は,これまでずっと,視覚的なイメージではなく,そのイメージの時間的な存在だった.時間が要なんです.だから,私が関心をもっているようなものは,イメージの表層の下にある.私にとって,それは時間を通じてやってくるんですよ.

レオナルド・ダ・ヴィンチのようなアーティストは,目に見えないものを見ることができました.彼は視覚認識の偉大な達人でした.彼は何かの内的な知識に入り込んでいくために,見ること,見るという行為を用いたのですが,当時の西欧世界では,それは新しいことだったんですよ.彼はそれを,ものを見ることで鍛えあげたすばらしい透視力によってなしとげた.彼はそれを,多様な時点と多様な視点とで見たわけです.文字通り,ものを通り抜け,その内核に迫った――これがじつは,鳥が飛ぶときの翼の動かし方,水が何かにぶちあたったときの渦のつくり方,といったことにほかなりません.それがどんなに大きな飛躍だったか,われわれにはなかなか想像できない――当時,人々は物理的リアリティを光学的にとらえて世界を見てはいなかったんです.

LW──あなたがそうおやりになったんですね.つまり,時間の速度を緩めた.精神にいくらかの余裕を与えた.

BV――そうすると,離れてものを見ることができます.時間が長くなれば,空間も広がる.それが知覚の速度をシフトさせる.それが,現在という瞬間の感覚的認識の混乱から目をひき離してくれる.そうして,表面の下にまで突き抜けて見ることができるようになるんです.古代人の智恵の一つは,いまここを大事にする,この瞬間を生きる,ということ.現在という時のリアリティを経験すること,なんですね.ブッダは私の大好きな,とてもいいことを言ってくれています.「あなたはこれまであってきたものであり,あなたの未来はあなたがいま行なうことだ」とね.自分の行為を現在という瞬間に合わせ,結びつけることは非常に大事です.で,それがうまくできるなら,あらゆる行為は正しい行為なんです.別の瞬間のために,何かほかの考えや期待があって行為すると,いろんな問題が起きてくるんですよ.

「直接体験」と言うとき,私が意味するのは単に何かを見るという行為にとどまりません.直接体験は生きている瞬間,「いま」という瞬間,存在の状態です.それは事物のより深い性質に入り込んでいくときの入り込み方なんです.われわれが時間と空間とを切り離したのは,この20世紀になってからのことですね.放送などによって,初めてニューヨークとアムステルダムとで同時に「いま」という瞬間を体験できるようになった.それまでわれわれは,グローバルに同時的な時間の観念をもっていなかった――そんなものは存在していなかったんですね.新しい時間が現われてきだすと,もともとの時間をいうのに新しい言葉をつくりだすことさえしなければなりませんでした――「本当の時間」ですね.それはもう一つの,「うその」時間があることをほのめかしています.ソロモン群島の人々には,「リアル・タイム」という言葉は必要ではなかった――彼らの時間は,すべて本当だったんです.

アートの関係で言うと,画家たちが消失点をもつ透視画法とありのままの光学的リアリティから離れはじめるにつれて,彼らはアトリエという制御された枠を抜け出し,市街や自然といった広い外部世界に入っていく.彼らが目の前に見えるものを描こうとしてまず第一に向かいあったのは,仏教の基本原理の一つ,「諸行無常」ということでした.彼らは瞬間の生きたダイナミックな性質にじかに遭遇し,時間そのものを描きはじめました.さてこれは,美術学校の美術史の教室では,私からすれば伝統との大きな決別,まったく新しい何ものかとして常に現われていました.  じつはそれがかなり古く,東洋の精神的修業,つまり直接体験の伝統の核心にまでさかのぼるなにものかにつながっているということがわかるまでに,かなりの時間がかかったんですよ.

LW──それがいつアートに入ってきたのですか?

BV――近い時代の西欧美術史で言えば,印象派や後期印象派が光の瞬間をとらえた19世紀フランスで,ですね.絵画がそれまでの正道から逸脱しはじめて,イメージの再現度が減少し,むしろ行為についてのものになりだしたのはそのときです.
それが20世紀のアクション・ペインティングにまでつながっていく.で,禅がまさにそれなんですよ.17世紀の禅僧たちも同じことをやっていた.墨絵画家の格言があるでしょう,「一瞬一遇!」.紙に墨で描く技法だと,筆触に手を加えたり消したりすることは不可能だった.あらゆる行為が示された.あらゆる考えが表わされた.で,こうして過去も未来も消してしまうと,自分が自分のなかにもっているもの,その筆触を記すときの意識の状態だけが問題になりますね.これが禅画の真の主題なんです.
日本ではこのすべてが,個人の完成をめざして,高度に発達し長い歴史をもつ形式のシステムとして論理化されました.ジャクソン・ポロックにとっては,それはそういうものではなかったんですけどね――こうしたアーティストたちのほとんどは,おのずとそれを発見していったので,作品からエネルギーや活気が感じとられるのです.ところが19世紀,20世紀の欧米のアーティストたちの作品を見ると,禅の画家たちにくらべて,自己認識の修業としてそれほど集中しているようには思われず,意図にも結果にも大きな幅がある.でも,ごく大まかな方向としては同じなんですよ.こういう二つの,相当異なる文化と時代のあいだにつながりがありうるだろうか――そこに私は,ずいぶんと関心をもっているんです.

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